それでも答えは、まだ早い
それでも答えは、まだ早い
その歪みは、
最初、
誰にも気づかれなかった。
王都から二日の距離にある、
小さな河港都市。
交易は再開され、
人々は、
ようやく日常を取り戻し始めていた。
――だからこそ。
誰も、
異変を異変として、
受け取らなかった。
***
港の酒場で、
一人の男が、
唐突に泣き出した。
理由は、
些細なものだった。
積み荷の遅れ。
取引の失敗。
金の不足。
どれも、
この街では、
珍しくない。
だが、
男の涙は、
止まらなかった。
「……俺は、
間違ってない」
繰り返す。
「ちゃんと、
やってきた」
声は、
震え、
やがて、
怒りに変わる。
酒場の空気が、
重くなる。
誰かが、
席を立つ。
誰かが、
距離を取る。
その瞬間、
歪みが、
生まれた。
それは、
爆発ではない。
押し殺された感情が、
行き場を失い、
周囲に、
滲み出す。
***
報せは、
すぐに、
王都へ届いた。
「大規模ではないが、
性質が、
これまでと違う」
その一文が、
ユイの胸を、
強く打った。
「……来てる」
彼女は、
呟く。
最後と呼ばれる歪みは、
いつも、
静かだ。
世界が、
「もう大丈夫だ」と
思い始めた頃に、
現れる。
***
ユイとレオンは、
それぞれ、
別の経路で、
河港都市へ向かった。
連絡は、
最低限。
必要以上に、
言葉を交わさない。
それが、
今の二人の距離だった。
だが、
現場に着いた瞬間、
互いの存在を、
感じ取る。
歪みが、
二人を、
同じ場所へ、
引き寄せる。
***
河沿いの倉庫街。
人々は、
まだ、
異変の中心が、
どこにあるか、
理解していない。
ただ、
落ち着かない。
理由の分からない不安。
それが、
街を包んでいる。
「……今回は、
広がりが遅い」
ユイが、
小さく言う。
レオンは、
周囲を見渡す。
「抑え込まれてる」
「……違う」
ユイは、
首を振った。
「皆が、
感じないように、
してる」
それは、
制度が残した、
習慣だった。
危険を、
感じないふりをする。
声を、
飲み込む。
その結果、
歪みは、
静かに、
深くなる。
***
歪みの中心は、
酒場の裏手だった。
泣いていた男は、
もう、
声を出していない。
虚ろな目で、
河を見つめている。
周囲には、
誰も近づかない。
危険だから、
ではない。
関わりたくないからだ。
「……彼は、
まだ、
選ばれていない」
ユイは、
そう言った。
「でも、
このままだと、
選ばせる側になる」
レオンは、
息を呑む。
歪みは、
一人の中で、
完結しない。
必ず、
誰かを、
巻き込む。
***
ユイは、
一歩、
前に出た。
「……話す」
レオンが、
止めようとする。
「危険だ」
「……分かってる」
ユイは、
それでも、
歩み寄る。
「でも、
今回は、
切れない」
剣では、
解決できない。
彼女は、
もう、
それを知っている。
「……私が、
行く」
レオンも、
一歩、
前に出る。
「いや」
ユイは、
振り返らない。
「あなたは、
ここで、
見てて」
それは、
拒絶ではない。
信頼だった。
***
ユイは、
男の前に、
腰を下ろした。
距離は、
近い。
だが、
触れない。
「……何が、
一番、
悔しい?」
男は、
反応しない。
ユイは、
続ける。
「失敗したこと?」
「認められなかったこと?」
「……それとも」
少し、
間を置く。
「もう、
頑張れないって、
思ったこと?」
男の肩が、
わずかに、
震えた。
歪みが、
揺れる。
「……全部だ」
かすれた声。
「……全部、
だめだった」
ユイは、
頷く。
「……うん」
否定しない。
「そう、
感じるよね」
その瞬間。
歪みが、
一気に、
膨張する。
だが、
爆発しない。
受け止められている。
ユイの中で。
胸の奥が、
焼けるように、
痛む。
「……ユイ!」
レオンが、
叫ぶ。
彼女は、
手を上げる。
止めないで、
という合図。
「……それでも」
ユイは、
歯を食いしばる。
「あなたが、
間違ってたって、
証明するために、
世界は、
あなたを壊したわけじゃない」
「世界は、
誰も、
そこまで、
気にしてない」
残酷な真実。
「だから、
あなたが、
自分を壊す理由も、
ない」
沈黙。
男の目から、
涙が落ちる。
歪みが、
ゆっくりと、
収束していく。
***
だが。
完全では、
なかった。
歪みは、
消えない。
ただ、
形を変える。
街全体に、
薄く、
広がる。
「……まだ、
終わってない」
レオンが、
呟く。
彼の剣が、
震える。
この歪みは、
斬れば、
止まる。
だが。
斬った瞬間、
何かが、
決定的に、
失われる。
ユイは、
立ち上がる。
ふらつく。
限界が、
近い。
レオンが、
支えようと、
手を伸ばす。
ユイは、
その手を、
一度、
取った。
そして。
静かに、
離した。
「……お願い」
小さな声。
「今回は、
斬らないで」
レオンの呼吸が、
乱れる。
「……じゃあ、
どうする」
問い。
それは、
世界に向けられたもの。
ユイは、
答えない。
答えられない。
それが、
このパートの、
結論だった。
歪みは、
まだ、
そこにある。
恋も、
まだ、
答えを持たない。
だが。
二人は、
同じ場所に立っている。
剣を、
振るわず。
逃げもせず。
問いを、
共有したまま。
それが、
今、
出せる、
唯一の答えだった。




