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名前を呼ばれなかった私が、異世界でただ一度「君」と呼ばれるまで  作者: Futahiro Tada


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誰もが、選ばれない側だと思っていた

誰もが、選ばれない側だと思っていた


 分断は、

 叫び声から始まったわけではない。

 もっと静かに、

 もっと生活に近い場所で、

 ゆっくりと進行した。

 市場で。

 酒場で。

 家庭の食卓で。

 人々は、

 あの広場の出来事を、

 それぞれの言葉で語り始めた。

「聞いたか?」

「あの女だろ」

「制度を壊すって話」

 事実は、

 一つだった。

 だが、

 意味は、

 無数に分かれた。

 ***

 王都南区の小さな酒場。

 夜遅く、

 労働を終えた者たちが、

 粗末な酒を傾けている。

「……俺はな」

 年配の男が、

 グラスを置いた。

「正直、

 怖いんだ」

 誰も、

 笑わない。

「昔の王都に、

 戻るのが」

 沈黙。

「夜に、

 剣を持たなきゃ、

 眠れなかった」

「子どもを、

 一人で、

 外に出せなかった」

 それは、

 過去の記憶。

 だが、

 記憶は、

 感情を呼び戻す。

「制度ができてから……

 少なくとも、

 俺の暮らしは、

 楽になった」

 それが、

 選択だった。

「誰かが、

 苦しんでるって話は……

 聞いた」

「だが、

 それは、

 俺じゃない」

 誰かが、

 息を呑む。

 この瞬間、

 歪みが、

 生まれた。

 それは、

 怒りでも、

 悲しみでもない。

 ――安堵。

 自分は、

 選ばれない側だという、

 確信。

 その感情こそが、

 最も歪みを生む。

 ***

 一方で、

 別の場所では、

 違う会話が交わされていた。

 王都北区、

 再配置施設の近く。

 人々は、

 声を潜めて話す。

「あそこに、

 連れていかれたらしい」

「誰が?」

「隣の通りの……

 あの人だ」

「……ああ」

 名前は、

 出ない。

 出せない。

「前から、

 ちょっと、

 不安定だったし……」

 その言葉が、

 免罪符になる。

「制度のせいじゃない」

「もともとだ」

 そう言い聞かせる。

 それもまた、

 選択だった。

 ***

 ユイは、

 隔離区画の部屋で、

 それらの空気を、

 はっきりと感じていた。

 壁越しに、

 街のざわめきが、

 伝わってくる。

 怒り。

 恐怖。

 安堵。

 混ざり合った感情が、

 彼女の胸の奥で、

 歪みとして反応する。

「……増えてる」

 呟く。

 歪みは、

 もはや、

 一点に集まらない。

 街全体に、

 薄く、

 広く、

 広がっている。

 それは、

 まるで、

 霧のようだった。

 誰もが、

 吸い込んでいる。

 誰もが、

 気づいていない。

「……これは」

 ユイは、

 理解した。

 制度は、

 歪みを減らしていない。

 形を変えて、

 拡散している。

 ***

 数日後。

 王都で、

 小さな事件が起きた。

 感情安定補助員の一人が、

 職務中に、

 倒れた。

 命に別状はない。

 だが、

 その瞬間、

 抑え込まれていた感情が、

 一気に噴き出した。

 怒り。

 憎しみ。

 恐怖。

 歪みが、

 局所的に、

 爆発した。

 市場の一角が、

 半壊。

 人々は、

 逃げ惑った。

 その様子は、

 すぐに、

 広まった。

「見たか?」

「危険だ」

「やっぱり、

 能力者は……」

 噂は、

 事実よりも速い。

 秩序側は、

 即座に動いた。

 事故。

 想定外の反応。

 追加対策が必要。

 声明は、

 完璧だった。

 責任は、

 個人に帰される。

 制度は、

 守られる。

 ***

 だが。

 歪みは、

 もう、

 戻らない。

 爆発は、

 一度きりでは、

 終わらなかった。

 別の地区で。

 別の施設で。

 小さな破裂が、

 連鎖する。

 それぞれは、

 小さい。

 だが、

 重なれば、

 街を覆う。

 人々は、

 次第に、

 気づき始めた。

 ――おかしい。

 制度は、

 安定をもたらすはずだった。

 なのに。

 空気が、

 張り詰めている。

 誰もが、

 誰かを、

 警戒している。

「……選ばれるかもしれない」

 その恐怖が、

 初めて、

 現実になる。

 ***

 ある夜。

 王都西区で、

 大きな歪みが、

 発生した。

 原因は、

 ささいな口論。

 だが、

 抑え込まれていた感情が、

 一気に解放され、

 暴走した。

 建物が、

 歪む。

 地面が、

 裂ける。

 悲鳴。

 人々は、

 逃げる。

 その中心で、

 ユイは、

 膝をついた。

 隔離を破って、

 ここに来ていた。

 胸の奥で、

 歪みが、

 暴れている。

「……私が」

 違う。

 彼女は、

 理解していた。

 これは、

 彼女一人の力では、

 止められない。

 世界が、

 歪みを生んでいる。

 人々が、

 選び続けた結果だ。

 ――安定を。

 ――沈黙を。

 ――他人の犠牲を。

 その選択が、

 臨界点に、

 達した。

 歪みは、

 爆発したのではない。

 あふれたのだ。

 ***

 その光景を、

 遠くから見つめる者がいた。

 レオンだった。

 拘束は、

 完全ではなかった。

 内部の混乱が、

 彼を、

 ここまで押し出した。

「……間に合わなかった」

 呟く。

 だが、

 次の瞬間、

 彼は、

 目を見開いた。

 ユイが、

 そこにいる。

 歪みの中心に。

「……来るな!」

 叫ぶ。

 だが、

 声は、

 届かない。

 歪みが、

 膨張する。

 街全体が、

 震える。

 人々の悲鳴が、

 一つの音になる。

 この瞬間、

 世界は、

 はっきりと理解した。

 ――選ばないという選択は、

 存在しない。

 誰かを選ばせ続けた結果、

 全員が、

 選ばれる側になった。

 制度は、

 まだ、

 崩れていない。

 だが、

 世界は、

 すでに、

 壊れ始めている。

 そして。

 この歪みは、

 もう、

 隠せない。

 夜空を裂く光が、

 王都全域を、

 照らしていた。

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