逃げ場は、最初から用意されていなかった
逃げ場は、最初から用意されていなかった
王都騎士団本部の廊下は、
異様なほど静かだった。
足音が、
石床に、乾いた音を落とす。
その一歩一歩が、
命令と規律によって、
正しく整えられている。
レオンは、
その中心を歩いていた。
副長の制服。
肩章。
佩剣。
どれもが、
彼を制度の一部として、
完璧に示している。
――だからこそ。
彼がここで下す決断は、
外側からの反抗よりも、
遥かに重い。
「……副長」
呼び止められ、
レオンは足を止めた。
声の主は、
若い騎士だった。
「本日の配置命令書です」
差し出された羊皮紙。
そこには、
新設された部署名が記されている。
感情安定運用課。
レオンの視線が、
一瞬、止まる。
「……これは」
「副長が、
監督責任者として、
任命されました」
若い騎士の声は、
どこか誇らしげだった。
「王都として、
最も信頼できる判断者だと」
信頼。
その言葉が、
レオンの胸に、
鈍く刺さる。
「……分かった」
彼は、
静かに受け取った。
拒否しなかった。
今、この場で拒否すれば、
制度は、
別の誰かに引き継がれる。
それでは、
何も変わらない。
むしろ――
悪化する。
彼は、
命令書を手に、
新設部署の部屋へ向かった。
そこは、
かつて物資管理室だった場所。
簡素で、
無機質。
机の上には、
すでに書類が積まれている。
被配置者名簿。
適性評価。
稼働時間。
どれもが、
人を数値に変換していた。
レオンは、
ゆっくりと椅子に座り、
名簿を開いた。
最初の名前で、
指が止まる。
――あの少女の名。
回復中。
再配置不可。
代替要員検討中。
淡々とした文字。
痛みは、
どこにも書かれていない。
「……ここまで、
綺麗にするか」
低く、呟く。
その瞬間、
彼は、理解した。
制度は、
誰も殺していない。
だからこそ、
誰も止められない。
レオンは、
名簿を閉じた。
そして、
机の引き出しから、
一通の書類を取り出す。
それは、
彼自身が、
昨夜、書いたものだった。
運用指針改訂案。
表向きは、
制度の改善。
だが、
その中身は、
制度の前提を、
内側から破壊するものだった。
――被配置者の、
即時撤退権。
――強制配置の明確な禁止。
――運用責任者の、
刑事責任の明文化。
それらは、
制度にとって、
致命的だった。
なぜなら。
責任を可視化すれば、
誰も、
気軽に選別できなくなる。
「……副長」
部屋の扉が、
ノックされる。
入ってきたのは、
上官だった。
「新制度の立ち上げ、
ご苦労だ」
その声には、
警戒が含まれている。
「……話がある」
レオンは、
立ち上がった。
机の上に、
改訂案を置く。
「この制度は、
このままでは、
破綻する」
上官は、
書類に目を通し、
眉をひそめた。
「……これは」
「制度を、
使えなくする案です」
レオンは、
はっきりと言った。
「誰も、
背負わなくて済むようにする」
「……正気か」
上官の声が、
低くなる。
「それでは、
歪みは、
制御できない」
「いいえ」
レオンは、
一歩も引かない。
「制御できないと、
認めるだけだ」
沈黙。
「……ユイの影響か」
その名が出た瞬間、
レオンの視線が、
鋭くなる。
「彼女は、
制度を壊すために、
存在しているわけじゃない」
「だが、
彼女の事例が、
制度を可能にした」
上官は、
冷静だった。
「……だから」
レオンは、
静かに言った。
「俺が、
止める」
その言葉は、
宣言だった。
「内部から」
上官は、
深く息を吐いた。
「……覚悟は、
できているのか」
レオンは、
迷わなかった。
「逃げ場は、
最初から、
なかった」
それは、
騎士としてではない。
一人の人間としての、
答えだった。
改訂案は、
その場では、
保留となった。
だが、
王都は、
それを危険文書として、
記録した。
その夜。
レオンは、
非公式に呼び出された。
場所は、
城の地下。
光の届かない、
石造りの部屋。
「……副長」
複数の視線。
「あなたは、
制度の運用責任者として、
重大な妨害行為を行った」
予想通りだ。
「……何が、
妨害ですか」
レオンは、
静かに問う。
「制度を、
機能不全に陥らせる提案」
「それは」
レオンは、
低く言った。
「人を壊さないための、
最低限の線だ」
返答は、
なかった。
代わりに、
告げられたのは――
職務権限の一時停止。
行動制限。
実質的な、
軟禁。
それが、
王都の答えだった。
一方。
ユイは、
その頃、
別の場所にいた。
王都外縁、
歪みの兆候が、
連鎖している集落。
彼女の胸の奥で、
歪みが、
強く反応している。
――制度が、
完成に近づいた。
その感覚。
誰かが、
また、
選ばれようとしている。
「……間に合わない」
呟く。
そして、
理解する。
もう、
引き返せない。
声は、
封じられ。
制度は、
動き。
レオンは、
内側で、
拘束された。
逃げ場は、
すべて、
消えた。
それでも。
だからこそ。
二人は、
同じ場所を見ていた。
――次は、
壊すか、
すべてを失うか。
それしか、
残っていなかった。




