揺り返しは、静かに始まる
揺り返しは、静かに始まる
最初に異変として現れたのは、
誰もそれを「異変」だと呼ばなかったことだった。
報告は、断片的だった。
王都の外縁、
かつて歪みが発生した地点から、
少し離れた集落。
「理由のない不眠が増えている」
「感情の起伏が、説明できないほど激しい」
「誰かの夢を、共有しているような感覚がある」
どれも、決定打に欠ける。
魔物の出現でもなければ、
土地の汚染でもない。
――だから、後回しにされた。
私は、簡易宿舎の窓辺に立ち、
遠くの街道を眺めていた。
身体は、まだ完全ではない。
歪みを引き受けた代償は、
はっきりとした痛みではなく、
ずれとして残っている。
呼吸のタイミング。
視界の焦点。
そして――感情。
自分のものではない感情が、
ときおり、胸の奥を掠める。
怒り。
焦燥。
諦め。
どれも、
私が選ばなかった人生の残骸のようだった。
「……始まった」
小さく、呟く。
これは、予想していた未来だ。
歪みを一箇所で解放した結果、
均衡が、別の場所で崩れる。
世界は、
帳尻を合わせようとする。
それが、反動。
「……ユイ」
背後から、声がした。
振り返ると、
レオンが立っている。
以前より、距離を保った立ち位置。
近づきすぎない。
でも、離れすぎない。
私たちが選んだ、
関係の距離。
「報告が来ています」
彼は、短く言った。
「王都南部、交易路沿いで……
歪みの兆候が同時多発的に出始めた」
同時多発。
その言葉が、胸に重くのしかかる。
「封じるべき案件ですか」
「……判断が分かれている」
レオンは、僅かに眉を寄せた。
「これまでの基準では、
歪みと断定できない」
私は、目を閉じた。
それは、つまり。
「……歪みが、形を変えた」
彼は、頷いた。
「感情が、個人を越えて、
連鎖している」
封じる対象が、
場所でも、個人でもなくなる。
それは、
これまでの対処法が、通用しないということだ。
「……私のせいですね」
口に出した瞬間、
胸の奥が、僅かに軋んだ。
レオンが、即座に否定する。
「一因だ」
はっきりと。
「だが、原因ではない」
私は、彼を見る。
「……違いは、ありますか」
「ある」
彼の声は、揺れない。
「世界が、
お前の選択を利用しただけだ」
その言葉に、
奇妙な納得があった。
私は、道を示した。
世界は、それを、
都合のいい方向に拡張した。
歪みが、
背負えると知ってしまった。
「……報告を、見せてください」
私たちは、机を挟んで向かい合った。
羊皮紙に書かれた文字を、
一つずつ追う。
不眠。
感情共有。
集団的な判断の逸脱。
「……これ」
私は、ある一文に指を止めた。
「自分の怒りが、
隣人の怒りと区別できなくなった」
それは、
歪みの初期段階。
しかも、
個人の内部で完結しない。
「……連鎖型」
私が呟くと、
レオンが頷いた。
「お前が、
歪みを一人で引き受けたことで、
世界は、別の解を探し始めた」
胸が、重くなる。
「……私が、歪みを背負えなくなったら」
「次の受け皿を作る」
淡々とした言葉。
「それが、制度になる可能性もある」
背筋が、冷えた。
歪みを、
管理し、
配置し、
選別する。
「……それは」
「お前が、
最も嫌う形だ」
私は、目を伏せた。
救うために選んだ道が、
救いを制度化する。
――歪みの官僚化。
王都なら、やりかねない。
「……二度目の問い、ですね」
私は、静かに言った。
「一度目は、
それでも救うか」
レオンが、こちらを見る。
「……二度目は?」
「それでも、
自分が背負い続けるか」
沈黙が落ちる。
私は、胸の奥に手を当てた。
歪みが、
確かに、そこにある。
まだ、耐えられる。
でも、永遠じゃない。
「……限界は、近い」
それは、正直な感覚だった。
「分かっている」
レオンが答える。
「だから、
今度は、
お前一人に選ばせない」
その言葉に、
私は、顔を上げた。
「……どういう意味ですか」
「世界に、問いを返す」
彼は、低く言う。
「歪みを、
誰が引き受けるのかを、
可視化する」
それは、
危険な発想だ。
「人々に、
選ばせる、ということですか」
「……ああ」
レオンは、肯定した。
「背負うか。
分けるか。
拒むか」
胸が、ざわつく。
「それは……
争いを生みます」
「生む」
即答。
「だが、
今は、
見えない形で、
すでに争っている」
私は、黙り込んだ。
確かに、
連鎖型の歪みは、
静かな暴力だ。
「……私は」
言葉を探す。
「それでも、
誰かが壊れる前に、
止めたい」
レオンが、私を見る。
「それが、
二度目の問いへの答えか」
私は、頷いた。
「はい」
はっきりと。
「一人で背負うことは、
もう、選びません」
胸の奥で、
歪みが、微かに反応した。
――それは、
逃げではない。
「でも」
私は、続ける。
「分け合うだけでも、
足りない」
レオンが、眉を上げる。
「……どういう意味だ」
「歪みが生まれる理由を、
断たなければ」
感情が、溜まる構造。
声が、届かない制度。
見えない圧力。
「世界そのものが、
問い直される必要があります」
レオンは、しばらく黙っていた。
やがて、低く笑う。
「……面倒な女だ」
でも、その声音には、
否定はなかった。
「だが」
一歩、こちらに近づく。
「その問いを、
投げられるのは、
今のところ……」
視線が、私を捉える。
「お前しかいない」
胸の奥が、熱くなる。
怖い。
重い。
それでも。
「……選び続けます」
私は、答えた。
「今度は、
一人じゃない」
歪みは、
まだ、消えない。
世界の反動は、
これから、
もっと激しくなる。
でも。
二度目の問いに、
私は、答え始めている。
――救うか、救わないか。
もう、それだけの話じゃない。
この世界は、
どう在るべきか。
その問いが、
静かに、
連鎖し始めていた。




