灯のある場所、触れてはいけない理由
灯のある場所、触れてはいけない理由
彼の背中は、暗い森の中でも迷いなく前へ進んでいった。
枝葉を押し分け、足元のぬかるみを避けるように歩く。私が何度か小枝を踏んで音を立てるたび、男――騎士は振り返らないのに、歩幅だけをほんの少し落としてくれる。
それは親切というより、戦場で身につけた同行者の速度を測る技術のように見えた。
月明かりは薄く、森は思った以上に深い。
けれど不思議と、私は転ばなかった。転びそうになると、彼が前方の枝を払う音や、足音のリズムが目印になって、私の体が勝手にそこへ合わせていく。
その沈黙が、怖さを少しずつ薄めていった。
――いや、怖さの種類が変わっていった、と言ったほうが正しい。
異世界だと分かってから、私はずっと現実感のない恐怖を抱えている。
帰れるのか、帰れないのか。
この先どうなるのか。
でも、今この瞬間の恐怖は、もっと単純だ。
この森で、私が一人になったら終わる。
だから私は、彼の背中から目を離さない。
「……あなた、名前は?」
気づけば、私はそう聞いていた。
声が思ったより小さくて、自分で驚く。
騎士は一歩だけ遅れて、短く答えた。
「……レオン」
それだけ。
名字はないのか、と尋ねかけて、飲み込む。
彼の声音には、これ以上の会話を求めない壁がある。優しさではなく、習慣としての警戒心。
でも私は、どうしても確認したかった。
名前を呼ばれないまま一日が終わることに慣れてしまった自分が、異世界でさえそれを繰り返すのが嫌だった。
「私は……」
言いかけて、喉が詰まる。
今さら名乗ってどうなる。ここで名乗ったところで、私はこの世界の何者にもなれない。
そう思うのに。
「……ユイです」
やっぱり言ってしまった。
自分の名前が空気に溶けるのを、私は怖いくらい丁寧に聞いた。
レオンは歩いたまま、ほんの少しだけ首を傾けた。
「ユイ」
たった一度、彼の口から出たその音に、胸の奥が妙に熱くなった。
――呼ばれた。私の名前。
その事実だけで、足が軽くなるなんて。
私はどれだけ、そういう当たり前から遠ざかって生きてきたんだろう。
森の奥に、淡い光が見えたのはそれからしばらくしてだった。
炎の揺れではなく、灯りのように一定で、どこか静かな光。
近づくにつれて、建物の輪郭が浮かび上がる。
木造の小さな小屋……ではない。
石で組まれた低い塀と、門のようなもの。奥に、屋根のある建物がいくつか並び、中央には塔のように高い小さな建造物が立っている。
集落というより、詰所に見えた。
門の前に立っていた見張りらしき人影が、レオンを見て姿勢を正した。
「レオン隊長、お戻りでしたか」
隊長。
その呼び名が、耳にひっかかった。
私はレオンの横顔を盗み見る。
彼は軽く頷いただけで、余計な言葉を返さない。
「……異界人を保護した。中へ通す」
淡々とした声。
見張りの男は一瞬目を見開き、それから私を見る。驚きと警戒と、好奇心が混じった視線。
「……了解。門を開けろ」
ギイ、と音を立てて門が開く。
内側の空気は、森よりも少しだけ温かかった。灯りが多いせいだろう。人の気配があるというだけで、胸がほどける。
でも同時に、別の緊張が押し寄せた。
知らない世界。知らない人。
ここで私は、どう扱われる?
レオンは私の歩幅を確かめるように、ゆっくりと詰所の中へ進む。
石畳の上を、靴の音が規則的に響く。
建物のひとつから、年配の女性が出てきた。
白い布の頭巾と、前掛け。彼女は私を見ると、すぐに表情を柔らかくした。
「あら……あなた、震えてるじゃない。ほら、こっちおいで」
手を差し出されて、私は一瞬固まる。
触れていいのか分からない。
でも彼女の手はあたたかく、迷いがなかった。
私はその手を取った。
――その瞬間、涙が出そうになった。
自分でも驚く。
ただ手を取られただけなのに。
私はどれだけ、安心を欲しがっていたんだろう。
「お湯を沸かしてあるわ。温かいもの、飲みましょう。ね?」
女性は私の肩をそっと抱くようにして、建物の中へ導いた。
部屋の中は小さく、簡素だが、暖炉が燃えていて、木の匂いがした。
私は椅子に座らされ、毛布のような布を肩にかけられる。
湯気の立つカップが両手に押し当てられた。
「……ありがとう、ございます」
声がかすれる。
返事の代わりに、女性は優しく笑った。
「名前は?」
「ユイ、です」
「ユイ。いい名前ね」
その会話を、少し離れた場所でレオンが聞いていた。
暖炉の光を受けても、彼の表情は変わらない。けれど、目だけがこちらを確認するように動いている。
守っている、というより、状況を管理している。
それが彼の役割なのだ、と直感した。
年配の女性が小さなパンのようなものを持ってきて、私の前に置く。
空腹を意識した途端、胃がきゅっと鳴った。
恥ずかしくなって俯くと、女性が笑う。
「食べて。ここでは、困ってる人を見捨てないよ」
その言葉が胸に染みて、私は黙って頷いた。
パンは素朴で、噛むほど甘い。涙が出そうになるのを、私は必死に飲み込んだ。
少し落ち着いた頃、レオンが部屋の入り口に立った。
「マルタ、頼む」
彼が女性――マルタと呼ばれた人にそう言うと、マルタは頷いて、席を外す。
部屋に残ったのは、私とレオンだけ。
急に空気が張りつめた気がして、私は背筋を伸ばした。
レオンは椅子には座らず、壁際に立ったまま、私を見下ろす。
「ユイ。質問に答えられるか」
「……はい」
質問。
当然だ。私は異界人なのだから。
この世界にとって私は、不審者どころじゃない。
「どこから来た」
「……日本、という国から。たぶん、あなたの世界にはない国です」
レオンの眉がわずかに動く。
驚きよりも、確認。
彼は、異界人の存在を知っているのかもしれない。
「なぜここへ来た」
「分かりません。帰り道の路地で……影が歪んで、引きずり込まれて……気づいたら森にいました」
言いながら、自分でも現実感が薄れる。
でもレオンは笑わない。否定もしない。
「……転移だな」
短い断定。
そして、少しだけ沈黙した。
「帰れるのか」
私が恐る恐る聞くと、レオンは答えない代わりに、視線を落とした。
その沈黙が、答えの半分だった。
私は喉が乾いた。
温かい飲み物をもう一口飲む。
「……ここは、どこなんですか」
「北境の詰所だ。国境線の外れ、魔物の出る森に近い」
魔物。
その単語だけで背中が冷える。
「あなたは……隊長って呼ばれてました」
レオンは目を細めた。
わずかな警戒の色。
「聞いたのか」
「はい。ごめんなさい、盗み聞きしたわけじゃなくて……」
「構わない」
彼は淡々と続けた。
「俺は王都騎士団の所属だ。今は北境警備の任務で、ここにいる」
王都騎士団。
聞き慣れないはずなのに、その言葉には重みがある。
彼は単なる旅人じゃない。立場がある。責任がある。命令がある。
そして――私に関わっていい範囲も決まっている。
その事実が、なぜか胸をざわつかせた。
「……私、ここにいていいんですか」
私が言うと、レオンは少しだけ首を傾けた。
「ここにいるべきだ。外は危険だ」
ただそれだけ。
優しい言葉ではない。
でも、現実的で、揺るがない。
私はそれを、信じたくなった。
「明日、王都へ連絡を入れる。異界人の保護は手続きが必要だ」
手続き。
その言葉に、私はまた現実へ引き戻される。
「……私、閉じ込められたりしますか」
小さく聞くと、レオンは一瞬だけ目を伏せた。
迷いではなく、答えを選んでいる沈黙。
「分からない」
正直な言葉が、胸に刺さる。
でも、嘘をつかないところが、逆に怖い。
「ただ――」
レオンは言いかけて、止めた。
その間に、私の心臓が早鐘を打つ。
「ただ、何ですか」
「……俺がいる限り、無茶はさせない」
その言い方は、約束というより、任務の宣言だった。
でも私は、その響きに救われた。
少しだけ沈黙が落ちる。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
私は、彼の手元に視線が行ってしまう。
あのとき引き上げてくれた手。
硬くて、傷だらけで、力があって――でも触れた瞬間だけ、温かかった。
そんなふうに思った自分が恥ずかしくて、私は視線を逸らした。
そのとき、レオンがふと、手袋を外しかけたのが見えた。
しかし次の瞬間、彼はそれをやめるように、指を止めた。
ほんのわずかな動き。
けれど、そこにはためらいがあった。
「……触れられないんですか」
口に出してしまってから、私は固まった。
何を言っているんだ、私は。
関係ない。今はそんなことを聞くべきじゃない。
でも、レオンは怒らなかった。
むしろ、少しだけ空気が重くなる。
「……余計なことを言うな」
低い声。
拒絶に近い。
私は小さく身を縮めた。
「すみません……」
自分でも分かる。
私は今、彼の触れられない理由に触れてしまった。
レオンは短く息を吐いた。
そして、目を逸らさずに言う。
「この詰所では、俺に近づきすぎるな」
「……え」
心臓が跳ねた。
それは、拒絶だ。
私の存在そのものを遠ざける言葉。
でも彼の目は、冷たいわけじゃなかった。
むしろ、どこか苦しそうだった。
「危険がある」
それだけ言うと、彼は踵を返すように背を向けた。
「待って……!」
呼び止めた自分に、私は驚く。
けれど止められなかった。
名前を呼んでくれた人が、遠ざかるのが怖かった。
レオンは足を止めたが、振り返らない。
「……ユイ」
背中越しに、私の名前が落ちた。
「ここでは、俺の言うことを聞け。それが生きるための近道だ」
それは命令だった。
でも、そこには守るという意志が滲んでいた。
「……分かりました」
私がそう答えると、レオンは何も言わずに部屋を出た。
扉が閉まり、私は一人になる。
暖炉の火だけが、揺れている。
私はカップを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
――近づくな。危険がある。
その言葉が、胸の中で何度も反響する。
拒絶なのに、突き放しきれていない。
遠ざけたいのに、守ろうとしている。
矛盾。
それが彼の立場なのだろうか。
王都騎士団の隊長。
北境警備の任務。
異界人の保護の手続き。
そして、触れてはいけない理由。
私は毛布を握りしめた。
温かいはずなのに、なぜか指先が冷える。
今の私は、まだ何も知らない。
この世界のことも、ルールも、彼の事情も。
でも――
レオンが私の名前を呼んだ、その一瞬だけは、確かに本物だった。
私はゆっくりと息を吐き、目を閉じた。
明日、何が待っているか分からない。
帰れるかどうかも分からない。
けれど、今夜だけは。
灯りのある場所で、生きている。
そして、あの騎士は――
近づくなと言いながら、私をここへ連れてきた。
その事実が、胸の奥を静かに熱くした。
恋なんて、まだ始まっていない。
でも、始まってしまう予感だけが、火の粉みたいに残っていた。




