越えてしまった線の向こうで
越えてしまった線の向こうで
夜明け前の王都は、昼とは別の顔をしていた。
高い建物の影が長く伸び、石畳は冷え切っている。
人の気配はほとんどなく、聞こえるのは遠くの見張りの足音だけ。
私は、暗い部屋の中で静かに息を整えていた。
――今夜だ。
そう決めたのは、恐怖よりも先に、はっきりとした諦めが来たからだった。
このまま管理され、測られ、選択を奪われるくらいなら。
一度でも、自分の意思で踏み出したい。
失敗してもいい。
罰を受けてもいい。
でも、何もせずに削られていくことだけは、耐えられなかった。
扉の外で、微かな合図があった。
控えめな、二度のノック。
私は立ち上がり、扉に近づく。
鍵が外れる音。
扉の向こうに立っていたのは、セシリアだった。
「……準備はいい?」
声は低く、慎重だった。
「はい」
短く答える。
それだけで、彼女はすべてを察したように頷いた。
「これからすることは、正式な手続きじゃない」
歩きながら、セシリアは言う。
「管理局の規定では、異界人の無断移動に近い行為になる」
つまり、越権だ。
「……それでも」
私が言うと、彼女は小さく息を吐いた。
「ええ。だからこそ、覚悟がいる」
廊下を抜け、地下へ続く階段を降りる。
灯りは最低限。
見張りの巡回を避けるように、時間を計って動く。
私は、自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
「行き先は?」
私が尋ねると、セシリアは一瞬だけ足を止めた。
「王都外縁部」
「……外に、出るんですか」
「正確には、境界よ」
境界。
王都の結界が、外の世界と接する場所。
「昨夜、完全には消えなかった歪みがある」
セシリアの声が、低くなる。
「表向きは安定している。でも……あなたなら分かるはず」
私は、頷いた。
感じていた。
管理局の地下で収まった歪みは、一部にすぎない。
感情は、完全には消えない。
押し込められたまま、別の形で滲み出る。
それが、王都の外縁に集まっている。
「公式に処理すれば、軍が動く」
セシリアは言う。
「そうなれば、被害は拡大する」
人々の恐怖が、さらに歪みを育てる。
「……だから、今、行くんですね」
「ええ」
彼女は、横目で私を見た。
「あなたの判断で」
重い言葉だった。
地下の通路を抜け、隠された小門から外へ出る。
夜の空気が、肌を刺す。
王都の灯りが背後に遠ざかり、前方には暗い野原が広がっていた。
「ここから先は、管理局の管轄外よ」
セシリアが言う。
「つまり、完全にあなたの責任になる」
私は、深く息を吸った。
「……行きます」
足を踏み出す。
境界付近の空気は、確かに重かった。
北境の荒々しさとも違う。
管理局の圧縮された息苦しさとも違う。
――溜め込まれ、行き場を失った感情。
私は、目を閉じた。
森での感覚。
管理局の地下での選択。
今回は、それらを一つにする。
押さえ込むのではなく、
消すのでもなく。
流す。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
胸の奥から、静かな波が広がる。
王都の内と外。
制度と個人。
その境目に溜まった澱に、触れる。
冷たい。
痛い。
それでも、逃げない。
私は、歪みに向かって、心の中で語りかけた。
――ここにあっていい。
――でも、ここに留まらなくていい。
風が、ふっと動いた。
重たい空気が、ゆっくりとほどけていく。
歪みは、暴れることなく、散っていった。
静寂が戻る。
私は、その場に膝をついた。
「……終わりました」
声が、震えた。
セシリアが駆け寄り、私を支える。
「……やっぱり、無茶をする人ね」
でも、その表情は、はっきりと安堵していた。
「これで、ひとまず大きな異変は防げた」
彼女は空を見上げる。
「ただし――」
視線が鋭くなる。
「もう、後戻りはできない」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かっています」
今夜の行動は、必ず記録に残る。
直接でなくても、痕跡は消えない。
私は、制度を越えた。
選んでしまった。
王都へ戻る途中、セシリアがぽつりと言った。
「今日、騎士団から正式な照会が来ていたわ」
心臓が跳ねる。
「……騎士団?」
「北境方面の動向について、確認が入った」
その言葉に、胸がざわつく。
「詳しい内容までは、まだ分からない」
セシリアは、慎重に続ける。
「でも……」
少しだけ、声を落とす。
「レオン隊長の名前が、資料にあった」
一瞬、息が止まった。
レオン。
「彼は、何かを察している」
セシリアの声は、確信に近かった。
「あなたの存在が、王都でどう扱われているか」
夜風が、頬を撫でる。
私は、空を見上げた。
北境と同じ星空。
距離はあっても、空は繋がっている。
「……来ないでほしい」
思わず、そんな言葉が浮かぶ。
彼を、これ以上巻き込みたくない。
でも同時に――
来てほしい、と思ってしまう自分がいる。
管理局の門が見えてきた。
ここへ戻れば、私は再び管理される存在になる。
でも、もう同じではない。
セシリアが、私を見る。
「あなたは、王都にとって危うい存在よ」
「……はい」
「でも」
彼女は、はっきりと言った。
「必要でもある」
それが、私の立場。
矛盾した場所。
部屋に戻り、扉が閉まる。
私は、静かにベッドに腰を下ろした。
疲労が、遅れて押し寄せる。
それでも、心は不思議と静かだった。
――決断した。
越えてしまった。
もう、元の場所には戻れない。
そのとき、遠くで鐘の音が鳴った。
夜明けを告げる音。
同じ頃。
王都騎士団の詰所で、ひとりの男が書類を閉じる。
レオンは、静かに立ち上がった。
「……やはり、動いたか」
彼は、窓の外を見る。
王都の方向。
守るべき規則。
守れない感情。
その狭間で、彼もまた、選択を迫られていた。
ユイが越えた線の向こうで――
彼も、もうじっとしてはいられなくなっていた。




