表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前を呼ばれなかった私が、異世界でただ一度「君」と呼ばれるまで  作者: Futahiro Tada


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/41

名前を呼ばれなかった日

名前を呼ばれなかった日


 自分がこの世界から少しだけ浮いている、と気づいたのは、いつからだっただろう。

 朝の通勤電車。揺れる車内で、私はいつも同じ場所に立っていた。ドアの横、つり革にも掴まらず、かといって座席にも近づかない中途半端な位置。誰かの邪魔にならないように、存在を薄くする癖が、もう体に染みついていた。

 会社に着けば、決まった仕事が待っている。誰にでもできる、マニュアル通りの業務。特別な判断も、責任も、求められない仕事。

 ミスをしないことだけが評価され、成功しても誰の記憶にも残らない。

「助かりました」

 そう言われることはあっても、「あなたじゃなきゃ困る」と言われたことは一度もなかった。

 私は替えがきく側の人間だった。

 昼休み、デスクで一人弁当を広げながら、周囲の会話をぼんやりと聞く。誰かが結婚した話、誰かが異動する話、誰かが夢を語る話。

 そのどれにも、私は混ざらなかった。

 名前を呼ばれない一日。

 それが、私の日常だった。

 ――――――――――

 その日も、残業だった。

 理由は簡単だ。断れなかったから。

「この資料、今日中にお願いできる?」

 上司のその一言に、私は反射的に頷いてしまう。断る理由が思いつかなかった。いや、本当は「今日は体調が良くない」とか、「予定がある」とか、いくらでも理由はあったはずなのに。

 でも、私が断ったところで、困る人はいない。

 代わりは、いくらでもいる。

 夜のオフィスビルを出たとき、外はすっかり暗くなっていた。

 ビルのガラスに映る自分の姿を、私は一瞬だけ見つめる。

 疲れた顔。無表情。

 何かを期待することすら諦めた目。

「……はぁ」

 ため息が自然と零れた。

 帰り道、駅までの近道として通る細い路地。街灯の少ないその道は、昼間ならなんてことはないのに、夜になると妙に心細くなる。

 そのときだった。

 足元の影が、揺れた。

 ――いや、揺れた、というよりも。

 歪んだ。

「……?」

 思わず立ち止まる。

 地面に落ちた自分の影が、波打つように揺れている。まるで水面に映った影のように。

 そんなはずはない。

 街灯は固定されているし、私自身も動いていない。

 胸の奥が、ざわついた。

「なに、これ……」

 一歩、後ずさる。

 その瞬間、足元から冷たい感覚が這い上がってきた。

 引きずり込まれる。

 誰かの手に掴まれたわけでもない。

 なのに、逃げられない。

 世界が、音を失った。

 視界が反転し、暗闇がすべてを覆う。

 叫ぼうとした声は喉の奥で潰れ、次の瞬間――

 私は、硬い地面に投げ出されていた。

「……っ!」

 息が詰まる。

 土の匂い。冷たい空気。見上げた空は、見たことのないほど星が近い。

「ここ……どこ……?」

 慌てて起き上がろうとして、身体が強張る。

 ――誰かが、立っていた。

 月明かりを背に、長身の男がこちらを見下ろしている。

 金属の光を帯びた装備。剣。

 明らかに、日本ではありえない姿。

 心臓が、跳ねた。

「……人?」

 声が震える。

 男は、少しだけ眉をひそめた。

 感情の読めない、冷静な目。

「怪我はないか」

 低く、落ち着いた声だった。

 驚くほど、静かで。

「え……?」

 言葉が通じたことに、逆に混乱する。

「ここは……どこですか」

 絞り出すようにそう尋ねると、男は一瞬だけ視線を逸らした。

「……説明は後だ。まず、立てるか」

 差し出された手。

 無骨で、傷の多い手だった。

 その手に触れていいのか、一瞬迷う。

 でも、他に選択肢はなかった。

 そっと手を取ると、思った以上に力強く引き上げられた。

 ぐらりと身体が揺れ、思わず男の胸にぶつかる。

「あ……す、すみません」

 慌てて離れようとする私を、男は一瞬だけ支え、それ以上は何もしなかった。

「……大丈夫だ」

 それだけ言って、距離を取る。

 近くで見ると、彼の表情はますます無機質だった。

 優しくもなく、冷たくもない。ただ、必要なことだけを告げる人。

「君は、この世界の人間じゃないな」

 静かな断定。

 胸が、ぎゅっと締めつけられた。

「……やっぱり、ここ……」

「異界だ」

 短い言葉。

 異世界。

 そんな言葉が頭に浮かぶなんて、馬鹿みたいだと思うのに、目の前の光景がそれを否定しない。

 森。見たことのない植物。空気の匂い。

 そして、剣を持つこの男。

「帰れるんですか……私」

 気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。

 男は、答えなかった。

 ただ、少しだけ表情を曇らせる。

「……今は、安全な場所へ行くのが先だ」

 それは、はっきりとした拒否でも、肯定でもなかった。

 でも、その曖昧さが、胸に刺さる。

 私はこの世界で、また「よく分からない存在」になるのだろうか。

 必要とされないまま、流されるだけの存在に。

 男が歩き出す。

「ついてこい」

 振り返りもせず、そう言った。

 私は、少しだけ躊躇ってから、その背中を追った。

 ――このときはまだ、知らなかった。

 この無愛想な騎士が、

 私の人生で初めて、

 「私だけを見てくれる存在」になることを。

 そして、

 決して恋をしてはいけない相手だということを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ