名前を呼ばれなかった日
名前を呼ばれなかった日
自分がこの世界から少しだけ浮いている、と気づいたのは、いつからだっただろう。
朝の通勤電車。揺れる車内で、私はいつも同じ場所に立っていた。ドアの横、つり革にも掴まらず、かといって座席にも近づかない中途半端な位置。誰かの邪魔にならないように、存在を薄くする癖が、もう体に染みついていた。
会社に着けば、決まった仕事が待っている。誰にでもできる、マニュアル通りの業務。特別な判断も、責任も、求められない仕事。
ミスをしないことだけが評価され、成功しても誰の記憶にも残らない。
「助かりました」
そう言われることはあっても、「あなたじゃなきゃ困る」と言われたことは一度もなかった。
私は替えがきく側の人間だった。
昼休み、デスクで一人弁当を広げながら、周囲の会話をぼんやりと聞く。誰かが結婚した話、誰かが異動する話、誰かが夢を語る話。
そのどれにも、私は混ざらなかった。
名前を呼ばれない一日。
それが、私の日常だった。
――――――――――
その日も、残業だった。
理由は簡単だ。断れなかったから。
「この資料、今日中にお願いできる?」
上司のその一言に、私は反射的に頷いてしまう。断る理由が思いつかなかった。いや、本当は「今日は体調が良くない」とか、「予定がある」とか、いくらでも理由はあったはずなのに。
でも、私が断ったところで、困る人はいない。
代わりは、いくらでもいる。
夜のオフィスビルを出たとき、外はすっかり暗くなっていた。
ビルのガラスに映る自分の姿を、私は一瞬だけ見つめる。
疲れた顔。無表情。
何かを期待することすら諦めた目。
「……はぁ」
ため息が自然と零れた。
帰り道、駅までの近道として通る細い路地。街灯の少ないその道は、昼間ならなんてことはないのに、夜になると妙に心細くなる。
そのときだった。
足元の影が、揺れた。
――いや、揺れた、というよりも。
歪んだ。
「……?」
思わず立ち止まる。
地面に落ちた自分の影が、波打つように揺れている。まるで水面に映った影のように。
そんなはずはない。
街灯は固定されているし、私自身も動いていない。
胸の奥が、ざわついた。
「なに、これ……」
一歩、後ずさる。
その瞬間、足元から冷たい感覚が這い上がってきた。
引きずり込まれる。
誰かの手に掴まれたわけでもない。
なのに、逃げられない。
世界が、音を失った。
視界が反転し、暗闇がすべてを覆う。
叫ぼうとした声は喉の奥で潰れ、次の瞬間――
私は、硬い地面に投げ出されていた。
「……っ!」
息が詰まる。
土の匂い。冷たい空気。見上げた空は、見たことのないほど星が近い。
「ここ……どこ……?」
慌てて起き上がろうとして、身体が強張る。
――誰かが、立っていた。
月明かりを背に、長身の男がこちらを見下ろしている。
金属の光を帯びた装備。剣。
明らかに、日本ではありえない姿。
心臓が、跳ねた。
「……人?」
声が震える。
男は、少しだけ眉をひそめた。
感情の読めない、冷静な目。
「怪我はないか」
低く、落ち着いた声だった。
驚くほど、静かで。
「え……?」
言葉が通じたことに、逆に混乱する。
「ここは……どこですか」
絞り出すようにそう尋ねると、男は一瞬だけ視線を逸らした。
「……説明は後だ。まず、立てるか」
差し出された手。
無骨で、傷の多い手だった。
その手に触れていいのか、一瞬迷う。
でも、他に選択肢はなかった。
そっと手を取ると、思った以上に力強く引き上げられた。
ぐらりと身体が揺れ、思わず男の胸にぶつかる。
「あ……す、すみません」
慌てて離れようとする私を、男は一瞬だけ支え、それ以上は何もしなかった。
「……大丈夫だ」
それだけ言って、距離を取る。
近くで見ると、彼の表情はますます無機質だった。
優しくもなく、冷たくもない。ただ、必要なことだけを告げる人。
「君は、この世界の人間じゃないな」
静かな断定。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「……やっぱり、ここ……」
「異界だ」
短い言葉。
異世界。
そんな言葉が頭に浮かぶなんて、馬鹿みたいだと思うのに、目の前の光景がそれを否定しない。
森。見たことのない植物。空気の匂い。
そして、剣を持つこの男。
「帰れるんですか……私」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
男は、答えなかった。
ただ、少しだけ表情を曇らせる。
「……今は、安全な場所へ行くのが先だ」
それは、はっきりとした拒否でも、肯定でもなかった。
でも、その曖昧さが、胸に刺さる。
私はこの世界で、また「よく分からない存在」になるのだろうか。
必要とされないまま、流されるだけの存在に。
男が歩き出す。
「ついてこい」
振り返りもせず、そう言った。
私は、少しだけ躊躇ってから、その背中を追った。
――このときはまだ、知らなかった。
この無愛想な騎士が、
私の人生で初めて、
「私だけを見てくれる存在」になることを。
そして、
決して恋をしてはいけない相手だということを。




