剣道八段SP女子が姫になって、魔獣さんはじめまして
「王子殿下が川に落ちたぞ!」
無線はガチャガチャ、誰かの悲鳴、そして——ドボン。考える間なんてない。帯刀瑠璃子は反射で走り、手すりをひょいっと越え、スーツのまま水へ飛び込んだ。冷たい! 顔をバシッと殴られたみたいに痛い。耳の奥で音が爆発して、肺がぎゅっと縮む。
(なんでVIPはいつも川とか崖とか、危ない端っこに寄るの!?)
内心で軽口を叩きつつ、体は迷わない。剣道八段の踏み込みと体幹を信じて、水をかく。暗い水の向こうで、小さな影がばたついている。警護対象の異国の幼い王子だ。片腕で胸を抱え、もう片方で必死にかいている。
「間に合え! 間に合え!」
ジャケットが水を吸って重くても関係ない。ぐっと抱えこんで——岸から伸びる同僚の腕へ、ためらいゼロで押し上げた。いや、正直ほぼ“投げた”。
空中で幼い王子の青い瞳がぱっと大きくなって、こっちを見た。
(よし、渡った。あとは——)
次の瞬間、横から鉄の棒みたいな流れがぶつかる。視界がぐるっと反転し、肺に冷たい鉄が流れ込むみたいで、胸がひどく焼けた。
(やば……ここまでか。王子、どうか——っていうか現場の警備動線どうなってんの!?)
意識はすーっと遠ざかっていく。
(守れたならいいか)
闇は意外とやさしくて、奇妙に怖くなかった。
◇
次に目が覚めたときは、船の甲板で激しく揺られていた。ゴオオッ——波が押し寄せ、慌てて近くの柵につかまる。波が口に入った。
「ぶはっ……! しょっぱい! って、ここ、川じゃなくて——海!? なんでー!?」
夜の海は暴れん坊だ。帆は裂け、マストは悲鳴を上げ、風はビンタの連打、稲光は写真のフラッシュみたいに連写してくる。足元の水たまりに、知らない女の顔が揺れた。金の髪に、橙の瞳。
(ひーっ!? ってこれ、もしかしてわたしなんじゃない? 金髪? オレンジアイ?)
笑いそうになってむせる。いや、笑ってる場合じゃない。ちょっと揺れが激しすぎて落ち着いて考えることもできない。
「姫様! お待ちを、どうか、まだ!」
振り向くと、白髪の老女が必死に手を伸ばしている。皺の深い指先が雨と波をかきわけ、目尻は真っ赤だ。
その声が、スイッチになった。
記憶の奔流がどっと押し寄せる。名も家も寝台の高さも、小鳥も、窓の外の庭の色さえも——全部まとめて蘇ってくる。
(私は……シャルローヌ。モンテリュー公国の末姫。聖女、と呼ばれてた。唯一信じられる味方は、この人……ばあや)
さらに別の断片が重なる。黒太子、アレクサンドル。隣国の第一王子で、私の婚約者。
(冷酷、策士、黒衣の太子……って暗い噂ばっかり。わたしは嫌で、泣いた。嫁ぎたくなんてなかった。泣いて——そうだ、今まさに“嫁入り航路”の真っ最中!)
その瞬間、ばあやが大波にさらわれそうになっていた。
「ばあや!」
胸の真ん中が焼けるみたいに熱い。熱は血に乗って左手の薬指へ一直線。はめている指輪がビカッと稲妻のように光る。
(なにこれAED? いやAEDはこんなに光らない!)
眩しい金色の光が球になって弾け、ばあやを包んだ。襲いかかった波は光を避けるみたいに割れて、甲板にドーンと叩きつけられる。轟音の中で、ばあやの叫びだけがはっきり届いた。
「姫様!!!」
(よかった——ばあやをどうか守って。そのまま!)
笑いかけた瞬間、船体がぎゃああと悲鳴を上げる。帆柱が飛び、足元の床が抜けて、わたしは暗い海へザッボンと落ちた。冷たい。重い。キーンと耳鳴りが響く。世界が離れていく。
(えー!?姫になっても結局また沈むの?)
最後のつぶやきは、泡と一緒に消えていった。
◇
頬がザラつく。砂だ。鼻に潮の匂いが刺さって、波は遠くでやさしく砕けている。
(頭ぐじゃぐじゃ。外も中も。でも——生きてる)
上体を起こす。ドレスは重い雑巾みたいで、裾はボロボロ。滴る水が首筋を冷やした。
記憶を再確認する。
「……わたし、まだシャルローヌ姫のまま、か」
言葉にすると、輪郭がつく。ばあやの顔、青い小鳥、冷たい廊下、ため息を隠して試着した婚礼衣装の重さ。
(ばあや。わたしの大切。助けられた……よね? あの光なら、きっと)
視界の端で黒い影が揺れた。
「野犬!?」
……じゃない。砂浜に“それ”は立っている。人よりデカい。3つの目がぎらぎら、牙はよだれでベトベト、毛皮は湿って悪臭がする。ソイツが明らかにこちらを獲物として認識している。
「はいー!? 野犬どころじゃないでしょ!バケモノ!」
足元の船板をひょいと拾い、両足を砂に埋め、骨盤から肩へ力のラインを通して中段に構える。バケモノが前脚を振りかぶった。砂が爆ぜ、影が覆いかぶさる。踏み込み。 ——胸突き。人相手なら即反則。でも今は遠慮無用だ。胸郭の隙間を狙って、木板の先で肉を割る。ググッと入って、抜ける手応えが返る。
「はぁっ!」
喉元に角度を変え、連突。木が悲鳴を上げ、腕が痺れた。頬をなめる生温かい飛沫に思わず目を細める。バケモノはドサッと倒れ——いや、まだ動く。
「しつこい!」
背へ跳び、肩甲の盛り上がりを階段に一気に駆け上がる。狙いは額の真ん中、第三の目。ここが弱点だ。なんで知っているかって? そんな感じがするから!
「これで——終わり!」
体重と芯、全部まとめて突き立てる。濁った悲鳴が弾け、二、三度の痙攣ののちにバケモノの動きが止まった。
腕の震えで木片がツルッと落ちる。
「……ふぅ。この身体、筋肉なさすぎ!」
頭上を青い影がかすめた。小さな鳥がくるっと円を描いて、「ピルルル!」と勝ち誇ったように鳴いた。
「ビジュ! 生きてたのね」
ビジュは肩にひょいととまり、海の青を集めたみたいな羽がきらきら光る。頬にあてると小さな体温が伝わり、胸にもじんわり熱が戻ってきた。
(ばあやとビジュ。「大切」が生きてる。それだけで——まだ戦える)
そこへすぐさまドドドッと足音がした。
(えー!?もう次!? う。戦える、戦えるけど! 少しは休ませてよ)
銛や鉈を抱えた漁師たちが駆け込んでくる。仕方ない。すっと体勢を立て直した。
「すげえ……木っ端で魔獣を……!」
「お、お嬢さん、怪我は!? 血、すごいぞ」
「えっ……あ、ええ、ありがとう。かすり傷。これは返り血」
よかったああああ。どうやら戦闘は打ち止めらしい。あのバケモノは魔獣というものなのか。自分の姿を見下ろす。その魔獣の血でドレスは完全にアウトだ。
「お名前は?」
漁師のその一言で、胸の奥に冷たい波が立つ。シャルローヌ——って言ったら王都行きになるのかな。黒太子。婚礼。泣いていた過去。
「……シャルローヌ……」と、口が勝手に言いかけるのを、舌先でブレーキをかけた。
「いえ、シャル。……シャルです」
自分でも戸惑う名乗りなのに、漁師たちは顔を見合わせ、それ以上は聞いてこない。
「シャル、か。よし、そう呼ぼう」
「村を魔獣から助けてくれた恩人だ。詮索なんてしないさ」
ふっと息を吐いて、差し出された大きな手のひらを握り返す。
「ありがとう」
手のひらからひとりで戦っていた体温が、世界とつながっていく感じがしてきて、悪くない。