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タイトル未定2025/05/01 08:00

# 命の値 ―生類憐みの真意―


## 其の一 切腹の朝


貞享三年、江戸城内の一室。

将軍徳川綱吉は眉を顰め、目前の老中・阿部豊後守正武の言葉に耳を傾けていた。


「切腹にて、一件落着と相成りました」


「また切腹か」


綱吉の声は沈んでいた。


「何の咎で」


「京より下向せし商人が、大川端にて、酔いどれの下級武士の鞘に触れたとの事。武士は『無礼者』と一喝し、その場で斬り捨てました」


「武士には切り捨て御免の権あり。されど商人の側に不行跡あったのか」


「商人は雨を避けようと急ぎ足で歩いていただけ。されど武士の鞘に触れた無礼は許されぬと」


「それで商人は命を落とし、武士は切腹か」


「さよう。御法度破りとはいえ、切り捨て御免の権を行使した武士の名誉を重んじ、切腹にて決着」


綱吉は立ち上がり、障子窓から城下を見下ろした。日頃は喧噪に満ちているはずの町も、今日は雨に沈んで静まり返っている。その静けさが、何かを訴えかけてくるようだった。


「浅野内匠頭の切腹から十年、松の廊下の血は洗い流せども、町に流れる血は絶えることなし」


老中は黙して頭を垂れた。武士の世に、血は日常であった。


「人の命、これほど軽きものか。犬猫同然に斬り捨て、咎められることなきは、この国の理か」


綱吉の言葉に、老中は驚いた表情を浮かべた。


「殿、切り捨て御免は武家の権。これなくば士の威厳は保てませぬ」


「されど、命の重みを忘れた世に、何の道理あろうか」


その日、綱吉は静かに決意を固めた。命の軽さ、それは時代の病ともいうべきものであった。


## 其の二 御触れの議


数日後、江戸城大広間に老中や諸大名たちが集められた。


「このたび、生類憐みの令を発すると決めた」


綱吉の唐突な発表に、広間にざわめきが起こる。


「あらゆる生き物の命を慈しむべし。これより犬猫はもとより、馬や牛、鳥や魚に至るまで、みだりに殺生することを禁ずる」


「殿」と老中の柳沢吉保が進み出た。「これはいかなる御趣意にて」


「命の大切さを忘れた世となった。まずは生き物への慈しみから始め、いずれ人の命も大切にする世としたい」


「されど、殿」と大名の一人が声を上げる。「犬猫と人とは同じにあらず。これでは仏の教えを曲解せしものと」


綱吉は静かに首を振った。


「命は命。大小なく貴賤なし。生き物を粗末にする世では、人の命も粗末になる。我が国は、あまりに血に慣れ過ぎたのだ」


広間は再び騒然となった。武家社会において、命の扱いに異を唱えるなど前代未聞である。


老中たちは顔を見合わせた。将軍の真意を図りかねる様子であった。


「殿、これは徳川の家法を揺るがす大事。もう少し穏便な方法を」


「穏便では変わらぬ。極端なれど、これが我が決意」


こうして、生類憐みの令の第一次発布が決まった。誰もが、これが一時の思いつきに過ぎないと考えていた。されど、将軍の決意は固く、これが長きに渡る政策の始まりとなることを、誰も予想していなかった。


## 其の三 町人の困惑


生類憐みの令が発布されて半年。江戸の町は様変わりしていた。


「犬を傷つければ牢獄行き、されど我らが傷つけられても黙せよとは」


魚河岸の問屋、伊勢屋清右衛門は溜息をつきながら、道端に横たわる犬を避けて通った。江戸の町には、保護された犬が溢れていた。


近くを通りかかった同業の鯔背屋が声をかけた。


「これも将軍様の御慈悲。命を慈しむ心から発したことじゃ」


「だが、度が過ぎておる。犬小屋の建設に税が使われ、町の衛生も悪くなる一方」


二人の会話を、通りがかりの武士が聞きつけた。


「不届き者め。将軍様の御触れを批判するか」


武士の手が刀の柄に掛かる。伊勢屋は慌てて平伏した。


「と、とんでもない。わしらは将軍様の慈悲に感謝しておりますゆえ」


武士は鼻を鳴らして立ち去った。かつてならば、この程度の言葉で斬り捨てられても不思議ではなかった。


「見たか」と鯔背屋が小声で言う。「昔なら我らは今頃血の海じゃった」


「なるほど…」伊勢屋は立ち上がりながら、はっとした。「切り捨て御免の武士が、犬の命に手を出せぬなら、人の命はなおさらか」


「そうか、将軍様の真の狙いは…」


二人は顔を見合わせた。町人の命を守るため、犬を盾にしているのか―そんな想像が頭をよぎった。


## 其の四 変わる風景


生類憐みの令から三年が過ぎた。老中たちの予想に反し、綱吉は次々と政策を強化していった。犬の保護施設「小塚原御囲」の設立、動物を傷つけた者への厳罰、捨て子や間引きの禁止、そして最も重要なことに―切り捨て御免の事実上の制限であった。


江戸城、綱吉の執務室。老中の柳沢吉保が進言していた。


「殿、世間では『犬公方』と揶揄する声も。このままでは御威光に関わります」


「噂など気にせぬ」綱吉は静かに答えた。「町の様子はどうか」


「犬や猫が溢れ、不便を強いられております。されど…」


「されど?」


「町人が斬り殺される事件は激減。切り捨て御免を行使する武士は、ほとんどおらぬと」


綱吉は静かに頷いた。


「それが狙いよ、吉保。命の大切さを説くなら、まず弱き者から始めねばならぬ」


「なるほど…犬猫の命を大切にせよと極端に命じれば、人の命は自ずと軽んじられぬと」


「そうだ。直接、切り捨て御免を制限すれば、武家の反発は必至。されど、すべての命を尊べば…」


「表向きは仏の教え、実は民の命を守る策と」


綱吉は窓辺に立ち、江戸の町を見渡した。


「我が政にやりすぎもあろう。されど、この世に命の軽重なし。切腹も死罪も、命は命。それを忘れた世は、いずれ滅びるのみ」


「殿、深き御慮りにて」


柳沢は深々と頭を下げた。綱吉の政治は、表面的には極端な動物保護政策に見えた。されど、その本質は人の命をも大切にする社会への変革であったのだ。


## 其の五 武士の葛藤


元禄四年、江戸城下の武家屋敷。

下級旗本の榊原源之助は、昨夜の出来事に顔を曇らせていた。


「父上、なぜあの無礼者を斬らなかったのですか」


源之助の息子・十郎は、なお怒りに震えていた。昨夜、酔った町人が源之助の駕籠に泥を跳ねかけ、罵詈雑言を浴びせたという。


「切り捨て御免の権があるのに」


源之助は重々しく答えた。


「確かに無礼であった。されど、酔いに任せた言葉ゆえ、命を奪うほどのことではない」


「ですが、武士の名誉が」


「名誉か…」源之助は立ち上がり、庭を見つめた。「名誉とは何か、十郎。人を殺せることが武士の名誉か」


「父上」


「わしも若かりし頃は、そう思っていた。されど、生類憐みの令以来、多くを考えさせられた」


源之助は息子に向き直った。


「犬の命すら大切にせよという御触れは、極端かもしれぬ。されど、人の命を粗末にする世は、本当に正しいのか」


「将軍様の御趣意は、そこにあったのか…」


十郎の目に、初めて理解の色が浮かんだ。


「切り捨て御免の権を持つなら、なおさら慎重であるべき。命を奪う重さを知る者こそが、真の武士ではないか」


その日から、十郎の中にも何かが変わり始めた。生類憐みの令は、一見すると極端な動物保護政策に見えた。されど、武士の心にも静かな変革を促していたのである。


## 其の六 命の重み


元禄七年、江戸城。

綱吉は、重臣たちを前に静かに語っていた。


「この国に生きとし生けるものすべてに、命の重さは変わらぬ。これが、生類憐みの令の本質」


老中たちは黙して聞いていた。発布から十年、当初の反発は次第に理解へと変わりつつあった。


「犬猫の命も、人の命も、命には変わりなし。命ある者への慈しみなくして、どうして人の世は安らかならんや」


綱吉は書物を開いた。仏典の一節である。


「我が政に、行き過ぎもあったろう。されど、命の大切さを忘れた世を変えるには、時に極端な手段も必要」


「殿、確かに町方では、切り捨て御免による死者は激減いたしました」と老中の一人が報告した。


「それこそが、我が真の目的」


綱吉はゆっくりと頷いた。


「世は我を『犬公方』と呼ぶ。嘲りかもしれぬが、構わぬ。犬の命を大切にする者は、いずれ人の命も大切にする。それが分かれば良い」


老中たちは、改めて将軍の深慮に感服した。極端な手段ではあったが、その根底には確固たる理念があったのだ。


「殿、このたびの政策により、武士の心にも変化が」


「ならば、それで良い」


綱吉は微笑んだ。人々が命の大切さを知ることが、真の目的だったのだから。


## 其の七 廃令の後に


正徳元年、綱吉の死から二年後。

六代将軍・家宣によって、生類憐みの令は正式に廃止された。


江戸の町には、かつての喧噪が戻ってきた。犬小屋は取り壊され、過度な動物保護政策は姿を消した。


幕府評定所にて、家宣は老臣たちに問うた。


「生類憐みの令は廃止されたが、町の様子はどうか」


「犬の数は減り、町はすっきりといたしました」と老中が答える。


「人々の振る舞いは?」


「これが不思議なことに」と目付が言った。「切り捨て御免の権を行使する武士は、ほとんど見られません。廃令の前と変わらぬのです」


家宣は静かに頷いた。


「綱吉公の真意は、そこにあったのかもしれぬ。極端な手段で民の命を守り、そして我ら武士の心をも変えた」


「殿のご慧眼にて」


家宣は立ち上がり、窓から江戸の町を見た。切り捨て御免の権は法的には残ったものの、実際にそれを行使する者は激減していた。武士の名誉は刀の切れ味ではなく、命への慈しみにこそあると、静かに理解されるようになっていたのだ。


「綱吉公、あなたの行き過ぎた政策は、この国に大きな変化をもたらした」


家宣はそう呟いた。やがて「犬公方」と揶揄された将軍の治世は、実は命の価値を知る社会への転換点だったと、後の世に認められることになる。


極端な政策は去っても、その本質―命への尊厳―は人々の心に残り続けた。それが、綱吉の残した真の遺産だったのである。


【了】

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