タイトル未定2025/05/01 05:08
# 影商人 ―虚ろなる忍術書―
## 其の一 飢えたる術者
甲賀の山奥にある朽ちかけた庵。雨漏りのする板間に、鼠郎と呼ばれる痩せこけた男が墨をすり続けていた。四十を過ぎた彼の顔には深い皺が刻まれ、かつて忍びとして生きた日々の痕が残っていた。
「こうなれば、策を弄するしかあるまい」
彼は眼前の和紙に向かい、筆を走らせた。
『飛電流忍法帖 水蜘蛛の術』
鼠郎は苦笑した。甲賀の飛電流など実在しない。ましてや水上を歩く秘術など、この世にあろうはずもなかった。されど、もはや飢えを凌ぐ術は他になく、戦のない世で食い扶持を得るには、己の技を売るしか道はなかった。
「少々の誇張なり」と己を納得させながら、彼は続けて書いた。
『水上を行く秘術は、月の精気を足の裏に宿し、水の抵抗を無きものとする。この術、一子相伝にて伝えし者のみ知る奥義なり』
実際には、浅瀬の石を素早く踏む単純な足技を、まるで神通力のごとく飾り立てたものに過ぎなかった。
筆を置き、文章を眺めて鼠郎は頷いた。十冊目の忍術書が完成した。明日は京へ向かい、好事家たちに法外な値で売りさばく算段であった。
「飛電流秘伝か…まことしやかな名を付ければ、十両は下るまい」
彼は暗く笑った。かつての忍びが、今は嘘を記した書物を売る商人となっていた。
## 其の二 競う偽り
「何じゃと?甲賀の鼠郎が忍術書を京で売り歩いておる?」
伊賀の里にある掘立小屋の中、蜘蛛笠と呼ばれる男が怒りに震えた。かつての好敵手が金を稼いでいると聞き、嫉妬の炎が燃え上がる。
「拙者も負けてはおれぬ」
蜘蛛笠もまた、暇を持て余した元・忍びの一人であった。彼は早速、和紙を広げると、己の知る技を書き連ねることにした。
『月影流忍法帖 空蝉の術』
「空蝉の術」とは、単に樹木の陰に隠れる技にすぎなかったが、蜘蛛笠はそれを神秘的に装飾した。
『身より霧気を発し、光の屈折を操る秘術。心眼開かざる者には姿を視るあたわず』
実際には霧など発するはずもなく、ただ木陰に素早く身を隠すだけの凡庸な技であった。されど、それを奇術のごとく見せることで、値打ちは十倍にも膨らむのである。
「これで京の町人衆からは一冊三両は取れよう」
蜘蛛笠は薄ら笑いを浮かべた。戦のない世で無用となった技を、虚飾の書として売る道こそが、忍びの新たな生き方だったのである。
## 其の三 商いの繁盛
京の町、歌舞伎町の片隅にある古書肆。店主の巴屋惣兵衛は、甲賀の鼠郎から買い取った『飛電流忍法帖』を密かに好事家たちに紹介していた。
「これは秘伝中の秘伝。一子相伝の術が記されておりまする。他見無用にて」
「なんと、武家に伝わる秘術なのか」
目を輝かせた町人が問うと、惣兵衛は重々しく頷いた。
「さようでございます。三両にてお譲りいたしますが、これは甲賀の血で買いし品ゆえ、格別の扱いをお願い申し上げます」
惣兵衛は、既に同じ本を五人の好事家に売っていた。秘伝とは名ばかりであったが、その言葉に踊らされる者は後を絶たなかった。
一方、伊賀の蜘蛛笠も京へ下り、日本橋の書肆に『月影流忍法帖』を持ち込んでいた。
「甲賀の偽物には及びもつかぬ本物の伝書でございます」
そう説き伏せられた書肆の主は、高値で買い取った。他の店では既に甲賀の書が評判となっており、対抗する伊賀の書ともなれば、売れ行きは保証されていた。
こうして両流派の偽りの秘伝書は、京の町に広まっていった。
## 其の四 見破りし者
「なるほど、これは面白い」
京の豪商、屋敷屋治郎兵衛は、両方の忍術書を広げ、じっくりと読み比べていた。裕福な彼は、珍しいものを集めるのが道楽であった。
「甲賀の飛電流は水上歩行を得意とし、伊賀の月影流は姿隠しの術に長けるという。されど、この二つの書、よく読めば中身は誠に薄っぺらい」
鋭い観察眼を持つ治郎兵衛は、両書の矛盾点を次々と発見していた。飛電流が「水の精気を足に宿す」と書く一方で、月影流も「水の精気を借りる」と同様の表現を用いる。それぞれが「一流秘伝」を称しながら、実は似通った凡庸な技を飾り立てているに過ぎないことに気付いたのだ。
「これは明らかな詐欺よ。大袈裟に見せかけた粗末な技の羅列。無知な者から金を巻き上げる浅ましき商いではないか」
治郎兵衛は決心した。この偽りの商いを町奉行所へ訴え出ることにしたのである。
## 其の五 影の協定
「由々しき事態になったぞ」
京郊外の寺の片隅で、鼠郎と蜘蛛笠が密かに顔を合わせていた。二人は本来なら敵対する間柄であったが、今は共通の危機に直面していた。
「屋敷屋が我らの商いの虚を見破り、町奉行所へ駆け込もうとしておるという」
蜘蛛笠は憮然とした表情で言った。
「あの男、もし奉行所に証拠の書を見せれば、我らは詐欺の罪に問われる」
鼠郎も顔を曇らせた。かつての忍びの名が地に落ちるのみならず、牢に繋がれる恐れもあった。
「かの者の口を封じるしか手はあるまい」
二人は顔を見合わせ、暗黙の了解に達した。屋敷屋治郎兵衛を葬り去ることで、忍術書の実態を隠し通す―そう決意したのである。
「されど、昔のような技は今や錆びついておる。うまくいくか…」
蜘蛛笠の呟きに、鼠郎は薄ら笑いを浮かべた。
「姿隠しの術も、水蜘蛛の術も、所詮は小細工。されど、人を葬るに今一度は使ってみるとしよう」
こうして二人の元・忍びは、最後の「仕事」に向けて動き出した。
## 其の六 術の現実
月のない夜、屋敷屋治郎兵衛の屋敷に二つの影が忍び寄った。
「水蜘蛛の術、開!」
鼠郎が池を渡ろうとしたが、足元は沈み、水音が響く。かつての技は既に衰え、今や見せかけだけのものとなっていた。
「愚か者め、物音を立てるな」
蜘蛛笠が叱りつけるが、彼もまた「空蝉の術」を使おうとして失敗。庭の木陰に隠れたものの、月の光に姿が浮かび上がってしまう。
「こんなものか、忍びの術とは」
治郎兵衛の声が闇から響いた。彼は二人の気配を察知し、既に警戒していたのだ。
「粗末な技を大袈裟に飾り立てる詐欺師め。術の実態など見透かしておるわ」
窮地に陥った二人は、もはや術などという虚飾を捨て、ただの悪漢のごとく剣を抜いた。それこそが彼らの真の姿であった。
「討ち取れ!」
荒々しい叫びとともに、二人は治郎兵衛に襲いかかった。術ではなく、単なる暴力による卑しい暗殺が始まったのである。
## 其の七 闇の暴露
「これは何とも浅ましい所業」
屋敷屋殺害の調査に当たった同心・森部加兵衛は、現場に残された忍術書を手に取りながら呟いた。
治郎兵衛は二人の刃に倒れたものの、臨終の際に真相を記した書状を残していた。そこには忍術書の虚偽と、甲賀・伊賀の者による詐欺的商いの全貌が記されていたのである。
「いわゆる忍法とやらは、所詮は見せかけの技。凡庸なものを神秘に装い、金を貪る商売に過ぎぬ」
加兵衛は上役に報告書を提出した。
「飛電流も月影流も、名のみ高き虚構にて、その実態は粗末な小細工に過ぎません。彼らは神秘を装うことで、愚かな者から金を巻き上げていたのです」
町奉行は溜息をついた。
「世も末じゃ。かつて影に生きた者たちが、今や詐欺まがいの商いに手を染めるとは」
しかし、既に甲賀と伊賀の偽忍術書は京中に広まり、人々はそれを珍重していた。虚構は時に真実より強い力を持つもの。たとえ中身が粗末でも、人は神秘を求め、高値を払い続けるのであった。
## 終章 継がれる虚飾
それから半年後、京の町に新たな忍術書が出回り始めた。
『鞍馬山蜃気楼之術』
発行者の名は記されず、ただ「秘伝」の二文字が踊っていた。内容は相変わらず大袈裟な表現で飾られた凡庸な技の寄せ集めであったが、人々はこぞって求めた。
実は、この新たな書の著者こそ、甲賀と伊賀の偽術者を捕らえた同心・森部加兵衛であった。彼は忍術書の実態を知り尽くした上で、より巧妙な偽書を作り出したのである。
「衆愚を欺くは易し」
加兵衛は懐に重い銭袋を抱えながら、暗く笑った。
世に名高き忍術の多くは、このような虚飾の連なりであった。人々が求めたのは真実ではなく、粗末な現実を隠す美しき虚構であったのだ。
そして忍術書は、時代を超えて人々の心を惑わせ続けるのであった。
【了】