エレナと逆さま博士 ◆ 5 ◆
◇ ◇ ◇
「やめろ!」
エレナは黙々と手を動かし続ける。ミヒャエルはチッと舌打ちして、せせら笑うような口調に切り替えた。
「俺が失格になりゃお前、繰り上げでEランくらいにはなれるかもしれないぜ」
エレナの手は止まらない。崩れないように、と慎重な手つきで。
「聞けよポンコツ! どうせこの怪我じゃ試験なんて無理だっつーの! いつも馬鹿呼ばわりされてて俺を助ける義理ねぇだろ! 早くどこか安全な……」
「うるさい!! 手が無事ならスシは握れる!」
大声に遮られビクッとするミヒャエル。エレナの様子を窺うが、彼女の顔は陰になっていてよく見えない。
「あたしはスシに幸せにしてもらった」
な、なんの話だ……? エレナの唐突なつぶやきにミヒャエルは間抜けな顔で困惑する。
「あたしのスシで他の人も幸せにしてみたい」
話の見えなさに、ミヒャエルはエレナを拒もうとしているのも忘れ、次の言葉を待つだけになった。
「でも、主役はスシだし……絶対あたしのスシじゃなきゃいけないわけじゃないっていうか……あなたのスシもなかなかだと思うし、なんて言ったらいいかわかんないけど……スシ・マスターは多い方が幸せもいっぱいでお得っていうか……」
何が言いたいんだコイツは、とイライラが沸き上がるのと同時に、ミヒャエルの中である直感が一本の線になっていく。コイツ……もしかして……いや絶対、俺のこと――
ぱっ、とエレナがミヒャエルを見やる。ミヒャエルは自分の脈が跳ねるのを感じた。
「あたしの夢の世界にはマスター・ミヒャエルがいてほしいの!」
「…………」
ミヒャエルは「そりゃどーも」と、うなるように返しつつ、猛烈な熱さを感じて、これは怪我のせいだと思い込もうとした。そこへふいに影がさし、なんだと視線をあげるミヒャエル。瞬間、どぷん、と水音がして、ふたりは黒い粘液を頭から浴びる。墨だ。
「ひ~~ん、勝負服がああ!」
めそめそし出すエレナ。一方でミヒャエルは顔を腕でぬぐいながら切り出した。
「……やばい、ヤツがこっちに気付いた」
ズズ、とモヤの中から現れた巨大なタコが着実にふたりに迫る。そのヌメった質感が今やハッキリ見える。引きずるような水音。
ミヒャエルの頬を重力に従って落ちていく墨が走る。
「マジで逃げた方がいい……ぜ」
ミヒャエルが言い切らないうちに、しゅるるとエレナにタコ足が巻き付く。
「きゃああああ」
ぐわっ、とタコは足を振り上げ、天高くエレナを締め付ける。
「ギブギブギブ!!」
エレナはタコが投球フォームに入ったのを感じでハッとする。このまま叩きつけられたら……死――
「おい!! デカブツ!」
ぽむ、とミヒャエルがやけくそ気味に放った瓦礫がタコの足にぶつかって跳ね返る。タコの動きが止まる。が、次の瞬間、タコは空いている足をミヒャエルめがけ――
ドゴォォォン。
「ミヒャエルーーーー!!」
宙で振り回されているエレナには、視界の端でとらえたミヒャエルが無事かわからない。ゴゥっと風を感じて、自分も同じ目に合うのだと察する。
「いやあああああ」