宿す
とある一軒家。リビングのソファに座っている女はため息をついた。その瞬間、寒気がして、彼女は自分の肩をさすった。そこへ男が一人やってきた。
「ねえ、ひざ掛けを持ってきたよ。寒そうにしていたよね?」
「え、あ、うん……ありがと……」
「いいんだよ、それで他に何か僕にしてほしいことはないかな?」
「いいの、ありがと。もう大丈夫だから」
「そうかい? でも本当に何もないのかな? ほら……」
「あっ、やめて! 今、妊娠中なんだから。この前説明したでしょ……」
「ああ、ごめん。でもさ、少し触るくらいなら」
「やめて。そんな気分じゃないの」
「ああ、そうかい」
――はぁ。
彼の頭の中で、ため息が浮かび、そして溶けて淀んだ。
彼女の妊娠は喜ばしいことだ。彼女からその報告を受けた時、僕も嬉しかった。でも、それからの僕に対する彼女の態度と言ったら……。
子供ができると女性は変わると言われているが、まだ産んでいないのに、こんなに早く彼女は『妻』から『母』に変わっただろうか……。そして、彼女はずっとこのままなのだろうか……正直、僕には耐えられる自信がない。
いや、違う。僕に急に冷たく当たるようになったのは、妊娠しているせいだ。ホルモンバランスが崩れて、ああ、いや、まるで妊娠が悪いことのように思うなんていけない。仕方がないことなんだ。いや、仕方がないだなんて、また僕はそんなことを……。
彼は思い悩んだ。しかし、それを顔には出さないように心掛け、口角を上げて笑みを作った。
そして、「もうあっちに行ってて」と彼女に強い口調で言われても、その笑みを崩すことなく、要望通り彼女の視界から消えた。
それからも彼はめげずに彼女に対して献身的な態度で接した。愛を証明するように。膨らむお腹に視線が行き、どこか言いようのない感情が湧いても、決して自分の秘めた想いを彼女にぶつけることはしなかった。
ただただ彼女のために存在し続けよう。これまで通りに。いずれ、この氷壁が瓦解すると信じて。彼はそう考えた。しかし……。
「……ねえ」
「うん? なに?」
ある夜。洗い物をしている彼に、彼女が声をかけた。
「買い物とか家事とかいろいろしてくれるのはありがたいんだけど……その、あなた、気持ち悪い」
「え、それは……ああ、妊娠するとそういうこともあるんだよね。うん、僕のことは気にしなくていいよ。何を言っても大丈夫だから。それで君の気持ちが少しでも楽になるのなら嬉しいよ。大変だものね、一つの命を体に宿すというのはさ」
「まあ、そう、なんだけど……その、とにかくこっちに来て座ってくれる?」
「え、いいけど、あともう少しで洗い終わるから、これが終わったら行くね」
「いいから来て」
「そう? まあいいけど……」
「こっちに背中を向けて座って」
「ふふっ、なんだい? 話があるなら面と向かってしようよ。君の顔を見ていたいなぁ」
「話って言うか……まあ、いいけどその、最近のあなたの態度がちょっと」
「え? 変わったって? ああ、ふふふっ、まあ僕も夫として、父親としての自覚が芽生え始めたのかな。最近は、僕も子供会えるのが楽しみになってきているんだよ」
「……夫? 父親? もう、それが嫌なのよ! 嫌!」
「おっと、大丈夫。落ち着いて。二人で頑張っていこう。これまで通り、いや、これまで以上にさ」
「触らないでってば! 気持ち悪いのよ……」
「リラックス、リラックス。ほら、落ち着いて話してごらん。僕の何が気持ち悪い? どうして欲しい? あ、こらこら、暴力はダメだよ。さあ話してみて。僕もいい父親になりたいからさ」
「父親父親って……あなたの子じゃないのよ」
「え、それは……君は僕を傷つけたくて言っているの?」
「そうじゃないわ。本当のことなのよ。だって、この子は……」
「わかった。信じるよ。その上で僕は構わないよ。愛する君の子であることは確かだものね。僕は受け入れるよ。君のことなら何でも」
「だから触らないでよ! あなた、本当に怖いのよ……」
「全然怖くないさ! でも、いつの間に浮気なんて……ああ、責めてるわけじゃないんだよ。あんなに僕に夢中になってたのになぁ……」
「あ、あなた以外とはしてないわ……」
「え、でもじゃあ」
「ねえ、あなた、わかってるの? あなた、セックスアンドロイドなのよ……。精子をバンクから取り寄せて、あなたに装填して、それで……ねえ、やっぱりあなた変よ。お願い、スイッチを切らせ――」
「僕は父親だよ。変わったのはやっぱり君さ」