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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

創作百合短編集

宇宙のさざなみにおける、耳と首について

作者: 今田椋朗


MとHに捧ぐ






 私たちは繋がっていた。


 磁石のS極とN極のように、宿命的に分かち難いモノだった。


 磁石をいくら二つに分断しても、S極だけ、N極だけの磁石が作れないように、私たちも、ひとりで学校に行ったり、ご飯を食べたり、帰りを待つ家族の家にそれぞれ帰っているとき、お互いに、心に相手を住まわせていた。


 それは、いちいち口頭で確認する必要が全くないくらい、本当のことで、明確なことだったから、私たちは私たちの愛に疑問を抱くことが全くなかった。


 人の性格や容姿といった、傾向の磁力によって、私たちは結びついているわけではない。


 その人の魅力のS極とN極のうち、S極に、自分のN極部分が引っ張られて、くっ付いた、そういうことが、私たちには当てはまらない、ということだ。


 私たちはふたりで、ひとつの磁石だということだ。


 よくある赤い糸だとかで表現されたくないとさえ、思っている。

 (糸のイメージには結ぶと切るが両方あるように感じる。糸切りバサミなんてモノがこの世界にはあるように。磁石切りバサミは、ないでしょう?つまりはそういうこと。)

 それが、宿命的な、私たちの性質だった。



 私たちは鉄道に惹かれる傾向があった。

 それこそマグネットが、裏返しでも表でも鉄に引っ付くように、そう思っていただいて構わない。


 それは、ひとくちに鉄道と言っても、ふたりの興味の矢印はかなり異なっていた。


 ありていに言えば、彼女はマニアだった。

 もっとも本人は、弟が詳しいから自分も詳しくなっただけ、と言い張っている(彼女の口癖だ)が、かなり苦し紛れだろう。


 なにせ、彼女はかなり詳しかった。

 それも、かなり偏っていて、深かった。


 それは、ほとんど呪文を唱えるように話されるものだから、私はほとんど覚えられなかった。

 なので、様子を詳しく伝えることは出来ないから、割愛させていただく。


 私は、ふたりきりの旅行が好きだから、鉄道も好きなのだ。

 午後に隣町に行くお出かけ程度のものから、県外の温泉旅行まで、ふたりの思い出の一ページを編むのが、私は好きなのだ(日記は小学生の頃から毎日つけている)。


 車での二人旅行は、むろん私たちのどちらか一方が運転手をしなければならない。

 きっと、それは何か違う、出来ないだろう、と思う。そこはかとなく。なぜかそう思う。


 それは朝焼けの仄かな淡い色合いを見て、ピタリと○色だと言えないように、もどかしく、言語化出来ないから、アプローチを変えて考えてみることにする。


 私たちは、電車に乗って、ふたり並んで座ったり、立ったり、受動的な移動中に、肩を寄せ合ったり、手を握り合ったり、頬摺りしたりするのが好きなのだ。


 運転手には、そんな集中を乱すことは出来ない。


 だから、私は交通手段として、鉄道が好きなのだ。

 たぶん。


 

 彼女は、少し年の離れた小学生の弟がいて、勉強を教え、風呂で身体を洗ってあげ、要するに面倒見の良い姉だった。


 私も妹がいて、姉だった。

 私たちは境遇が似ているところが多かった。


 私たちは背格好も似ていた。

 160センチメートル前後で、痩せても太ってもいない、そして健康的な艶の肌で全身を覆っていた。


 私たちは別々の高校に通っていたから、ふたりきりのみっちりした時間は土日休日に限られた。


 ふたりの学力に大差はなかったが、彼女がより偏差値の高い学校に合格したため、そのようになっている。

 むろん、それくらいのことで揺らぐほどの、私たちではない。


 読書をしながら音楽を聴くように、マルチタスクに、私たちは常に互いのことを想うことができた。


 物理的距離は問題にならないのだ。

 高校生の年頃の時点で、それくらい円満に達したのだ。

 それは地に足の着いた幸福である。


 私たちには倦怠期が訪れなかった。

 それを確かめるように、あるいは純粋な無色透明な欲として、私たちは土日の逢瀬で、愛撫し合った。


 彼女の部屋のベッドを背もたれにして、あるいは私の自室で。

 

 数的には彼女の部屋での方が有意に多いだろう。

 なぜなら、彼女の部屋のすぐ近くを鉄道の高架の橋脚が林立していて、高い位置を走っていても、かなり騒がしかった。


 窓を開けても閉めても、まあうるさかったが、それが私たちにとって都合が良いものだったのだ。



 私たちの接触は、やはりキスからスタートする。

 とくに決めてルールを紙に書いたわけでもないが、いつも同じ始め方だった。

 漢字ドリルで、なぞって書くように、いつも前回と同じ筋書き通りのキスをした。


 それは唇の輪郭を、唇でなぞって、漢字ドリルのように何回もなぞって形を脳に焼き付けてから、花弁を開き、舌先で、指相撲を取る、そんな感じだ。


 目は閉じたり閉じなかったり、その日によるが、私は至近距離で見つめ合うのにいつまでも慣れないから、まぶたを閉じることの方が多い、のかもしれない。たぶん。


 また、くすぐりあうのは、私たちは大好きだった。


 彼女は特に耳が弱かった。本当に分かりやすく弱点だった。


 私は首が弱かった。どうしてもダメだった。

 美容室で理髪師に触られる機会があるが、それももちろんダメだった。


 理髪師のような他人と比べるわけではないが、彼女に首を差し出すのは、どうしようもなく快かった。


 それは子猫の首を摘まんだら、しばらく甘えてくれるような動物的反射でしか、ないのかもしれない。


 弱点を預けるという本質的に危険な陶酔は、本来不快な筈のモノを完全に裏返すほどの信用を体感することに他ならないから、私たちはお互いにその渇望をぶつけ合って、受け入れ合う。


 その瞬間は本当にひとつになれる気がする。


 行為が進んで、熱が高まって、私はダメな声を出してしまう。堪えきれなくなる。

 一枚壁を挟んで、彼女の親が居る、そんな状況で出してはいけない種類の声だ。


 彼女は自室の裏を通過する電車のタイミングをよく把握していて、その騒音に合わせて、私は奏でられるので、事なきを得ている。

 

 ユニークな対処だと思う。

 その副作用として、パブロフの犬のごとく電車の騒音でドキドキしてしまうようになったことは、彼女に教えていない非常に数少ない自分の一面である。


 白状しよう、私が鉄道を好きというのは、そのような文脈があった、ということを。


 私はどうやら人間に残された僅かな動物性を、他者より多く持っているらしい。




 制服を交換してデートするのは、飽きもせず何回もしている。本当に飽きない。


 行為が進んで、脱がせ合って好意を確認した後、更衣する。


 そのとき、互いにわざと取り違えたりして、楽しむことが出来るのは、私たちの背格好、体格、身体の輪郭線がほとんど同じだからだ。

 相似というよりは、合同がイメージとしては近い。

 カラダが、同じだからだ。


 自分のために仕立てたかのように、制服もぴったり嵌まる。

 腰まわりや、袖の長さ、どこまでも。

 解き終えた知恵の輪パズルを戻すように、パチっと。


 スカートの丈は長くしたり短くしたり、どちらにせよ、ふたりで揃える。

 メスシリンダーの目盛りを注視する白衣の学生のように、神経質に裾の高さを合わせるのだ。


 髪型は、寄せることはあっても、面立ちが異なるので、根本的には同じにしない。

 私の普段の髪型は彼女には似合わないし、逆もしかりだからだ。

 お互いに、一番似合う恰好が一番好きなので、何でもかんでも同じにする必要性は感じていない。


 ただ、出来るところは、必要性を感じるところは、とことん同じにしている。


 愛撫。羊に戻ろう。

 私たちの愛撫は、キスを交えて、腕を絡めたり、マフラーあるいは蛇みたいに相手に巻き付いたり、胸に耳を当てて直接鼓動を聴いてみたり、頸動脈をぷにぷに摘まんだり、耳に吐息の筆でお絵かきしたり、そういったモノに終始した。


 たぶん、あと二十年くらいはやっていると思う。

 つまりは、衣服の上の行為だけで、十分満たされていて、それ以上を求めていなかった。現時点では。


 私たちは、ふたりとも、本当にそれらだけで事足りていたし、それ以上をやろうものなら、爆発するか溶解するか、どうなるか分からないので、それ以上先に進むことが出来なかった。


 ふたりとも、刺激が強すぎるモノは苦手だったので(辛い食べ物とかも)、お互いにそれ以上の刺激は忌避していた。

 時期尚早だと、認識を共有していた。


 

 なのでこの話は、キスや愛撫などそういう行為に主眼が置かれ、いわゆる本番的な行為については機会を改めることを了承願いたい。



 それは精神的なモノを兼ねていた。

 というより、それら愛撫は、肉体的なモノと精神的なモノがぴったり重なっていて、時間差が無かった。


 楽しいことと寂しいことが背中合わせなように。



 それらは、あくまで自然体で行われた。

 肩肘張らずに、最もリラックスした状態で行われた。

 いや勿論、瞬間的な筋肉の緊張はあった。

 くすぐったさから肩や肘が、びくっとバッタが跳ねるように弾けるときは、ままあった。


 緊張、弛緩、緊張、弛緩。

 潮の満ち引きのように、規則的に繰り返した。


 月の引力が及ぼす地球の潮汐のように。

 そう、私たちの接触は、星のように大きい一つの愛の引力の所作なのだ。



 具体例を挙げていこう。そろそろ、皆様お待ちかねだろうから。


 スイッチ。

 例えば、内腿を摘まむのでさえ、私たちは火傷のように、相手の指が熱く感じる。

 私だけではなくて、彼女も、天ぷら油がはねたときみたいに一瞬、眉根を寄せるので、きっと私と同じ触感を味わっているだろう。たぶん。


 むろん、いつもそうなるわけではない。

 それはドライヤーのホット・クールのスイッチのように明確に切り替えられた。

 それはたぶん、いつもの始めのキスがスイッチをホットにしているのだと思う、お互いに。


 だから儀式的にいつも同じ筋書きをなぞるようなキスをするのだと思う。


 儀式。

 それこそ、漢字ドリルをしこたまなぞらされた小学生時代から、大まかな様式が出来上がっていた。

 積み木遊びで、なんとなく完成した城のように、そして案外整っていた。


 それを始めるための条件は、いくつかある。

 一つ、部屋でふたりきりで居ること。

 一つ、お互いに体調が良いとき。

 一つ、意図的、恣意的ではなく、偶発的で、どこからともなくやってくること。


 勉強の合間、一段落、一呼吸のときに、ふたりの視線が編み上げる火花が、引き金だったりした。


 ふと、肘や手が当たったとき、肝臓か何か、背中側の臓器までくすぐったいと、お互いに感じたときだったり、どこからともなくやってくるというのは、そんな感じだ。

 彼女は左利きで、私は右利きだから、手が偶然当たることは、多いのだろう。


 

 まず、序奏といえる、頬摺りや、鼻先と鼻先のノック、そして首筋に顔をうずめて、整える。準備する。

 それから、口付けをする。例のキスだ。


 書き順を間違えることがない、キスのとめ、はらい。

 


 耳。

 彼女のツボであるそれは、吸血鬼やエルフのそれに、まあまあ似ていて鋭いカーブを描いていた。

 そしてスマートに側頭部に張り付いていて、簡単に髪の中に隠れていた。

 きっと、泳ぐとき、水の抵抗を受けないだろう──もっとも、私たちは不特定多数に肌を見せることを忌避していたから、海水浴やプールなどには行かなかったし、何よりふたりとも致命的に泳ぎが下手だった──と思う。


 だから私たちが水着を着るのは、学校の授業や、プライベートな室内でコスプレを楽しむような機会に限られた。


 脱線した。羊に戻ろう。


 耳。

 私は彼女の耳を知り尽くしている。


 彼女は、耳の付け根の周囲をぐるっと撫でられるのが良いようで、私は五つの指で包むようにして、ドアノブを回すように、あるいは黒電話のダイアルを回すように、刺激していく。


 あたたまってきたら、吐息の出番だ。

 耳の凹凸一つ一つに向けた、針先のような風を、当たるか当たらないか、出来る限り曖昧にするのが私の技巧だ。


 そして、油断しきった彼女の鼓膜を震わす。


「……すき」


 彼女の骨格の関節という関節から力が抜けてしまうので、あらかじめ背中に手を回して、抱く準備をしておかなければならない。

 ベッドの柱の角に、頭をぶつけて、たんこぶを作ったことがあるから、気を付けている。

 

 陸揚げされた蛸か烏賊のように、ヒタっと崩れる彼女の全身の肌は、やはり蛸か烏賊を茹でたように赤く染まる。


 しかしそれは、変な闘争心の燃え上がる色でもあった。

 その変というのは、それは私たちが闘って争っているわけではない、便宜的な意味だということ、つまり赤色の感情だということだ。


 私たちはコイントスのように、五十パーセントの確率で能動と受動を交代する。


 赤色に染まった彼女は、私をベッドに押し倒す。

 私は、まないたの上の鯛のように期待で瞳が潤む。



 首。

 私の弱点である首は、彼女の白百合の花弁のようにきれいで滑らかな両手によって、そっと包み込まれる。

 それは命綱を差し出す行為に他ならない。


 私はお腹をお日さまに向けて、ひっくり返されて身動きの取れないカメのように、四肢を空に泳がせる。

 ヒトなので、カメのように首を甲羅に引っ込めることは出来ない。

 彼女は腿や膝で、私の心の窓の鍵穴を確かめる。

 熟練のサッカー選手のように視界の外で、四肢の感覚だけで彼女は私を巧みにいざなう。

 

 人が水深数センチメートルで溺死することは、ニュースを全く見ない人でなければ、知っているだろう。


 彼女のふたつの親指が、顎の下を伝って、私の喉仏を確かめる。

 既に興奮して息が上がっている私の喉も、数センチメートル押し込むだけで事足りる。

 そのとき、私は主体を可能な限り手放すことになるのだ。

 私が可能な限り客体に近付くことが、彼女の所有物になるということ、つまり、彼女という主体に帰ることになる。

 

 ところで、母体で脈打つ胎児は、母からみて客体なのだろうか、主体なのだろうか。

 非常に曖昧だと私は思う。

 考え方次第だろう。


 そもそも、私たちの意思と無関係に拍動する心臓も、主体の一部だと言い切れるのだろうか?


 羊に戻る。

 私は生死のスイッチを彼女に預けることで、愛をこの上なく具体的に感じている。

 彼女の親指の重みは、直接的に信頼の重みとして味わえるのだ。

 私を奏で終えた彼女はコンサートピアニストのようにはにかみながら、形式的なキスで句読点を打った。


『生還』することで、彼女から切り離されたように寂しくも思うが、次は彼女が私のものになる番だと思うと、その輪廻が私を天上に押し上げる。

 

 句読点とは言ったが、私たちが刻むのはピリオドではない。

 私たちは永遠に読点だけを使い続ける。

 テトラポッドが砂浜になるまで。

 いいや、天の川がアンドロメダと出逢うまで。



 ひと通り終えたあと、私たちはお互いをほめることにしている。

 それは例えばドボルザークの第九『新世界より』の最後の余韻に似ていて、起承転結の『結』に辿り着いた感慨深い充足感と、『まだ物足りない』を誘いだす無限の穴の淵に漂うケモノのにおいとの、反復横飛び、その振り子時計が刻むチクタク音だった。


「あなたの肘は、ええと、『興福寺阿修羅像』のようにキレイだわ」


「なあにそれ」

 彼女が目を細めてくすくす笑うのにつられて、私も微笑む。

「六本の腕で触られているみたいだった」


 彼女は美しい滑らかな両手で、愛おしそうに私の頬を撫でながら言う。

「あなたの胴のくびれは、『223系電車』のように艶めかしいわ」


「なにそれっ、いみわかんないっ」


「写真で見たら分かるからね?」



 私たちの笑う声のさざめきは、やはり星のように巨大な愛の引力による、規則正しい潮騒なのだ。




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