桜を見て、我思う
いつもの帰り道ではなく、少し遠回りをしてみる。運動不足の自分にとって億劫でしかないこの道だが、思いのほか足取りは軽い。いつもの道を、いつも通りうつむきながら歩いて家路につくときには感じない、高揚感を確かに感じていた。
やけに長い歩行者用信号の赤信号。待たされるためにこの道を選んだのではない。赤から青に変わる瞬間、私は一歩を踏み出した。車通りの多い道から一本外れて少し歩くと、川の流れが聞こえてくる。たどり着いたのは小さな川が流れる一本の道。地元民しか使わないような細い道の傍ら、静かに流れる川を見守るように沿って並ぶ枯れ木の列があった。この木の名前はよく知っていた。といっても、この木たちにとって本番はもう少し先になる。
まだ3月の上旬。彼らの晴れ姿を見に来る客もいるはずがなく、私の横を原付が通り過ぎていく。いくらこの木が「サクラ」だろうが、皆が求める姿でなければ目もくれずに通り過ぎていくのだ。しかしこの木の行列は焦る様子もなく、じっとその場で待っている。そんな彼らに一言、言いたかった。
「もうすぐ君たちの番。」
もちろん声には出さなかったが、じっと時期が来るのを待つサクラの木を見て私はふと思った。
サクラの木は春になると必ず注目される時が来る。いわゆる晴れの舞台が、必ず来る。だからこそ立っていられるのではないか?この木はサクラとして生まれたことで、年に1度は必ず注目される存在として君臨している。サクラとして生まれただけなのに。私がもしもサクラとしてうまれたとしたら、こんなに楽なことはないと思った。自分の持って生まれたポテンシャルだけで、目立ち称えられ美しいといわれる。自分の存在自体が他人に認められ、求められているのだ。私はサクラがうらやましい。そしてそんな風に思っている私のことを、また少し嫌いになった。
あの日からもう一度あの道を通るまで、少し時間がかかった。そして人通りが増えたあの道にまた戻ってくる。軽自動車がゆっくりと川沿いの道路を走っていく。運転手の動きは嫌でも目に入ってくる。明らかによそ見運転といった様子だが、この光景を見に来たのだろうから仕方がないと思ってしまう。それほど、今のサクラは見事に咲き乱れていた。
少しの間、目を離すことができなかった。サクラを見に来た近隣住民に交じって、私も一時、サクラの魅力に酔いしれる。考え事や悩みはその瞬間だけ、吹き飛んでくれた。初々しい制服姿の学生が、母親に半ば強制的に写真を撮られている。嫌そうで恥ずかしそうな顔をして立っていた学生を、私はとても微笑ましく思っていた。静かに透き通った私の胸の中に、ふとこんな疑問が生まれる。
卒業や入学、といった節目の時期の象徴として描かれることが多いサクラ。それは目の前の親子が証明している。しかし、この事実をサクラはどう思っているのだろうか、と思った。卒業やら入学やら、人間が勝手に決めたルールに人間が縛られるのはつゆ知らず、たまたまその時期に咲いているというだけでサクラまでがその馬鹿げた影響でこの時期の象徴としてまつり上げられる。私がサクラの立場だったら、本当にいい迷惑だと思うだろう。他所で決めたルールをさも常識かのように振りかざす人間という生き物は、本当に不思議だ。
満開の日から数日たったある日、この近辺は強い雨風に見舞われた。サクラたちが必死に耐え忍ぶ姿を見たいと思ったが、ガタガタと震える窓が私を家にとどまらせた。彼らは大丈夫だろうか。ただの植物にここまで感情移入しているなんて馬鹿みたいだったが、それはそれでいい。少し思ったのは、今私が持っている感情や持て余している妙な情熱を、あのサクラ以外では持ちえなかったということだ。こんなに不安なのは、自分が見守ってきた「あのサクラの木」だからであって、どこか遠くの地で同じように雨に耐えるサクラには何の思いもない。そして、サクラの木のすぐそばで生えている雑草に対して、そんな思いを持てるはずもない。これはものすごい不平等なのではないかと感じた。同じサクラでも身近なものだけが大事であり、それ以外は知ったことじゃない。そして身近であってもサクラという存在でないものは興味がない。人間とは自分勝手なものだ。そして自分のそのうちの一人。少しだけ、自分が恥ずかしくなった。
雨は2日続いた。天気が落ち着いた次の日、私は彼らの様子を確認するため足早にあの道へ向かった。サクラの木は気丈に立っていたが、足元には奮戦むなしく花弁がびっしりと濡れて散り落ちている。せっかくの晴れ姿が、雨のせいで台無しだった。あのきれいな姿に戻るのはまた1年も先のこと。この世の中は理不尽だ。でも私はまた来年もこのサクラの木を見に来ると心に誓った。必ず、あの光景をもう一度見るのだと。
この小さな決意が、なぜか自分を不安にさせた。自分が1年連絡を取らなかった人間は、ほとんどといっていいほど疎遠になり、会う理由もなくなり、連絡先の一覧を見て思い出すだけの存在になっていた。友人にはちょくちょく会うし、たまに集まって遊んだりもしている。でも、1年連絡を絶ってしまったらもう一度この関係を続けていく自信がない。自分にとって1年間連絡をしなくても自分のことを思って、気にかけてくれる存在を、私は指折り数えてみた。身内も入れる卑怯な手に出たが、それでも8人程度のものだ。一応片手では足りなかったことを安心したが、向こうがこちらのことをそう思っていない可能性を考えると不安が膨らむ。両親に会いたくてたまらなくなった。
サクラはまた1年後、見事に美しい姿に戻り、人々から注目を集め、そして散っていく。散る姿が美しいとよく言われるが、それはまた咲くことがわかっているからで、そうでなければ散る姿に不安を感じずにはいられないだろう。花を散らすサクラたちを見て、この姿をもう一度見れたらいいなと、素直に思った。