母の言葉
電話の着信に、私はしばらく気が付かなかった。
ハッとして、寝不足の体をなんとか動かしながらベッドから起き上がる。職業柄、着信音には敏感だ。深く眠っていたせいか視界が白っぽく霞む。
数度瞬きをする。机のスマートフォンを見つめると「実家」と表示されていた。電話とは少し珍しいなと思いつつ手に取る。もしもし、と聞き慣れた声がした。
「今日もお疲れさま。仕事帰り? 今電話大丈夫? 」
「お疲れさま。大丈夫。なんかあった? 」
寝起きで頭が動かず、短文的に返事をする。ふふ、と電話の向こう側で母が笑いをこぼした。
「もしかして寝てた? 」
「ああ……うん」
「声が眠そうね。後からの方がいい? 」
「や、大丈夫。変な時間に寝るとバランス狂うし……」
話しているうちに頭がはっきりしてきた。とはいえ視界はもやがかかったままだ。頭を軽く振って目をこする。
「そう? たいした用じゃないよ、そろそろお盆だからどのあたりに帰ってくるのかと思って」
あー、と唸ってベッドのすぐ下にある鞄の中からスケジュール帳を取り出した。会社から帰ってすぐベッドに寝転んだんだった、と思い出す。歯磨きもメイクも落としていない。どのみちまだ寝るわけにはいかない。明日の会議資料の手直しをしてからだ。
「んー」
「忙しい? 」
「そう、ね。ちょっと帰れるか分からないかも。休み取れても一日二日になりそうかな……」
「わかった。無理しなくていいよ」
わかった、の言葉に落胆を感じて申し訳なくなる。慌てて付け足した。
「あ、でもお盆は厳しくてもそのうち帰るよ。九月とか」
「本当? 」
「うん。お盆も帰れたら帰る。高校の同窓会もあるみたいだから、出来れば参加したいし」
「同窓会、ね。思わぬ出会いとかあるんじゃない? 」
楽しそうな声だ。
「よくあるよね。同窓会で好きな人に再会、とか」
「そうそう。あんたもそろそろ恋人とかどうなの? 」
「……そうだね、おいおい考えないとね」
ここ一年ほど交際している恋人がいることは、なぜか口に出せなかった。調子を合わせることがひどく虚しい気がした。
目覚まし時計が鳴る。どうしても眠くてベッドに入る時に一時間だけ、とかけておいたのだ。
「ん? 何の音? 」
「目覚まし時計。かけておいたやつ」
そう言えばこの目覚まし時計、中学の頃に買ってもらったものだ。というか両親が買ってきたものだ。あんたは寝起きが悪いから性能のいいやつにしたよ、とかなんとか言って。我ながら物持ちがいい。
「理香子、最近忙しいんじゃない? 体に気をつけなさいよ。仕事も無理しないで」
「うん、わかってる。ありがとね」
会話に区切りがついて時計を見る。久しぶりの電話をあまり早く切るのも悪いと思ったが、そろそろ資料を確認して今日は早めに寝たい。私が無言でいると察したのか母はこう言った。
「明日も早いんだろうしそろそろ切ろうか? 」
「あ、うん、ちょっと仕事残ってるから。ごめんね」
「ん、じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
母が切るのを待って、私は携帯電話を机に置いた。眉間を拳でぐりぐりと揉んで鞄を開ける。さあ、さっさと片付けないと。
結局、お盆は帰れなかった。
同窓会の方も参加出来なかったので行った友人に話を聞くと「やっぱり、地元離れた人はあんまり来てなかったよ」とのことだった。まあ、当然といえば当然か。
メールを開くと恋人の雅之から「こないだの件だけど、いつ頃空いてそう? 」と連絡が来ていた。一週間前に両親が会いたがってるから実家に来ないかと言われていたのだ。いよいよ「結婚」という言葉が現実味を帯びて、安堵したような複雑なような気持ちになる。父と母に、伝えないといけないことも。
高校まで地元を離れるつもりはなかった。本命が落ちて滑り止めの大学に行く、という段になって初めて私にも関東で暮らす選択肢があったのだと思い出したくらいだ。四年間東京の大学に通って、就職はどうしようと思った。帰るか、留まるか二つに一つだった。
私は地元で公務員試験をいくつか受けた。そして東京では大学でやった情報デザインが生かせる会社を二社ほど受けた。その会社は大手で、私がやりたい仕事ができる場所だった。昔からそういう仕事がしたかった。やりたいことをするなら地元ではだめだった。実際はどうにでもなったのかもしれないけれど、少なくともその時の私はそう思った。でもきっと私の学歴では受からないだろうと思った。
言ってみれば賭けだった。私が、夢を諦めるための小さな賭けだった。
そして私は賭けに勝った。
ビルが建ち並ぶ街中で私は一人ぼっちだった。
足が鉛のようだった。パンプスのヒールがグラグラ揺れる。一緒にビルも揺れるような酩酊感がある。目眩だろうか。私は目を固く瞑ってうつむいた。
「お疲れ」
顔を上げると雅之が私をのぞき込んでいた。
「……うん」
「疲れてる? 」
「ちょっと」
二人で街並みを歩く。街灯や店の明かりが目に眩しくてずっと目を細めていた。私の故郷とは何もかも大違い。久しく感じていなかった疎外感を喉の奥へ押しやる。二人でいるのに、どうして寂しいんだろう。
「そうだ、うちに来る話なんだけど今週でいい? 」
店に着いて早々、彼はそう聞いた。空いている日をあらかじめ伝えておいているのだから、確認のようなものだ。いいよと言おうとして、つっかえた。
彼の両親に会ったら、今度は私も彼を自分の親に紹介しなくてはいけないだろう。恋人の紹介、なんて結婚を前提にしたことと同義じゃないか。
「あ、」
なにか言おうとして、言葉は出ないままだった。居心地の悪い沈黙が場を支配してますます焦って声が出ない。リリリリ、とスマートフォンが鳴った。
「ごめん、ちょっと出るね」
「うん」
ホッとした。電話をしながらでも考えようと外に出た。表示を見ると父の携帯からだと気がついて首を傾げる。父から電話なんてされたことがないような気がする。
「理香子か」
ひどく焦ったような声だった。
「お母さんが」
本命が落ちた時のように、あの賭けに勝った時私は、賭けに勝つことを考えていなかったのだ。いや、考えてはいた。けれどそれは子供が将来の夢を夢想するような他愛のないものだった。会社に入るということは転職しない限り一生、その場所で働くということだ。もう戻らないと、決めるということだ。
恋人ができた時何を思っただろう。このままここで結婚して仕事を続けて、もう帰らない未来を私は見ていただろうか。遠い場所で両親の訃報を聞く覚悟をしていたか。
新幹線の扉が開き、数人と一緒に外へ出た。懐かしい風景を素通りして、タクシーを捕まえる。在来線へ乗り換えるのがいつものパターンだが、一時間後の電車を悠長に待ってはいられない。
母が事故に遭ったのだ、と父は言った。救急車に運ばれたことと病院の名前を聞いてすぐに電話を切った。駅に向かい新幹線に飛び乗った。
両親が、特に母が、地元で就職し結婚することを望んでいたと知っている。今だって地元の人と結婚することになればひょっとしたら戻ってくるのではと、期待していることも。
私の小さな頃の夢には、必ず両親がいた。大きくなったら好きな仕事をして、好きな人と結婚して、子供が生まれる。両親が私の子供を抱き上げて、だらしないくらいにこにこ笑う。それを見て私と私の夫は顔を見合わせて笑う。
タクシーで三十分ほどの距離に病院があった。父がヘルニアで入院した時に使った病院だと思い出した。あの時は、母と二人で来たのだ。
「わかった」と母は言った。私が東京に留まると言った時だ。
帰ってこいとは決して言わなかった。そばにいてほしいとも言わなかった。ただ「わかった」と言った。私は今まで何度、母に同じ台詞を言わせてきたのだろう。
タクシーの窓から見た景色はほとんど変わっていないようで少し変わっていた。私がこの十年、いなかったからだ。初めて東京の街へ出た時疎外感を覚えた。今、ここでも同じような感覚を味わっている。でもなぜだろう。あのときよりずっと寂しい。
息を切らして看護師に場所を聞いて小走りで向かう。面会時間はとっくに過ぎていて、暗い。恐る恐る診察室の扉を開けて、母がいた。
「あ、理香子」
軽く目を見張って、母は声を上げた。最近会えていなかったけれど、ほんの少し髪が減ったことを除けばあまり変わらないように見えた。とにかく無事だったことが分かってその場に崩れ落ちそうになった。
「ごめんね、大変だったでしょ。さっき電話したんだけど」
「え……」
「一時間前くらい? お父さんがね、例のごとくパニックになっちゃって。事故に遭ったって聞いてすぐにあんたに電話したみたいなのね」
「電話って……」
「お父さんに電話したって聞いたから、心配しなくていいよって電話。事故っていっても見ての通りたいしたことないから」
気が抜けた。さっきとは違う意味で崩れ落ちそうだ。立っている気力もなかった。だが唯一の椅子には父がちょこんと座っているので壁に寄りかかる。ごめんな、と決まり悪げな父にも何も言う気が起きない。
「……無事でよかった、よ」
「うん」
ちょっと笑った母は笑いをこらえているような、少し嬉しいような顔をした。こっちの気も知らないでと思うと同時に鼻の奥がツンとした。悪いと思いつつ娘が帰ってきて嬉しいのだ。戻ってこないと知って落胆した母を知っている。寂しいと思わせているのも、年老いた二人を置いて離れて暮らしているのも、私だ。
「すぐ来られなくて、ごめん」
「そんなこと言ってすぐ来てくれたじゃないの。それより大丈夫だったの? まったくお父さんは仕方ないんだから」
いつもの調子に笑いがこぼれて、拍子に涙が滲んだ。慌てて口を引き結ぶ。泣いたら絶対からかわれる。
「後ろでドンッ! って凄い音がしてね。揺れるし何事かと思った。首とか鞭打ちになってなきゃいいけど」
「ねぇ、お母さん」
いつになく饒舌な母を見て、思わず聞いた。
「私、帰った方がいい?」
ずるい聞き方だった。
「家に戻った方が、いい?」
母がなんと答えるかわかっていてそう聞いた。 言葉を発した瞬間にそれを自覚して死にたくなった。
「あんた、仕事もあるでしょうが。お母さんたちは大丈夫だから気にしないでいい」
母は呆れた風だった。たぶん、そう聞こえるように意識していた。言われるだろうと思ったことをそのまま言われて、言わせてしまったことに後悔した。「わかった」と言われた時と同じように。
私が無言なことを気にしたのか、母は眉尻を下げる。
「帰ってきたってしょうがないでしょうが。そんなのはいつだって出来るんだからやるだけやって、もう嫌だってなったら」
「わかった」といった時と同じ寂しいような嬉しいような、愛おしくて仕方ない、そんな顔をして。
「そしたら帰ってきたらいいよ」
進路に迷って、それでも選択したとき、後悔しなくて済んだのは母の言葉があったからだ。そして今、私は後悔しないために母の言葉を聞いている。やっぱりずるいと思う。でも、やるだけやってみようという気になる。いろんなことを先延ばしにしても。
「あのね、会ってほしい人がいるんだけど……」
たぶん、母は嬉しそうな顔をする。ちょっとだけ寂しそうな顔をする。
そして、どんな人なの? と聞くだろう。……きっと。