第9話 密室と正陽と緋色 (羽野ゆず)
「おーい! 南見」
吉岡の異常な様子に呆然としていた正陽は、はっとして顔を上げる。
礼拝堂に小走りでやってきたのは、校門で別れたはずの涼介だった。
しばらく息を弾ませていたが、こちらを真正面に見るなり、ぎょっとした表情になる。
「どうしたんだよ。ゾンビみたいな顔して」
驚かれるのも無理はない。
礼拝堂のランプに照らされた正陽は、もともと顔色が悪いのも相まって病人のように見えた。
「涼介。帰ったんじゃなかったのか」
「いや、お地蔵さんのところまで行ったあたりで引き返してきた。お前とミラー先生の仲が気になってさ――なんてな!」
本気か冗談かわからぬ調子で笑い飛ばした後、「それより」と庭の方向を指し、
「今あっちへ走っていったのって、吉岡? いつにもまして尋常じゃない感じだったけど。とうとう本格的におかしくなったか」
「――涼介」
“この学園の秘密って何だ?”――問いつめようとして、ふいに正陽はためらう。
『青博館高等学校の秘密は誰にも語ってはならない』
『語ってはならない。か、語ったものは……』
東夜鈴と吉岡の台詞が頭の中をよぎったからだった。
ふたりの、なにか得体の知れぬモノを畏怖するような雰囲気も。
――間違いない。この学園には何かがある。
そう確信していたが、涼介がどんな反応を示すのか怖くなったのであった。しかし、これ以上自分だけが知らない状況には耐えられない。
「教えてくれよ。『ナツ』って何者だ?」
「……」
「バナナの皮と関係があるのか」
焼けた肌にポーカーフェイスを浮かべている涼介。だが、眼にはあきらかに動揺の色が伺えた。
「はっ! バナナの皮ってなんだよ。コントじゃあるまいし。ああ、吉岡に漫才の練習でも付き合わされた? それにな、キリスト教は唯一神だぞ」
「やっぱり……涼介もナツを知っているんだな」
「あ? 知らねえよ」
「嘘吐くな。僕はナツが『神』だなんて一言もいってないのに……。『キリスト教は唯一神』だなんて。まるでナツを信仰するのを咎めているみたいじゃないか」
「――なるほど」
小さく舌打ちをした涼介は木製の椅子に腰を下ろす。ぎし、と乾いた音が響いた。
「さすが。推理小説なんかを読んでいるだけあって、名探偵みたいだ」
「はぐらかすなよ」
「怒るなって。――なぁ、南見。どこにでもそういうのってあるだろ?」
「……え?」
「口に出すのもタブーみたいな、お約束事がさ。青博館で上手くやっていきたいなら、これ以上それについては口にしないことだ」
最後に、煩わしそうに溜息を吐き出す涼介。
こんな投げやりな態度をする彼を、正陽は初めて見た。同時に、一番親しいと思っていた友人が遠い存在に感じられた。わけのわからない理不尽さに苛立ちを覚える。
「――じゃあ、六年前、校長の『帰宅命令』を無視して残っていた生徒が死んだって話は?」
「ミラー先生から聞いたんだな」
すがるように尋ねた正陽へ、涼介は諦めたように吐息して、
「俺は当時小学生だったから詳しくは知らないよ。兄貴から聞いた話だと、ひどい有り様だったらしい」
「バナナの皮で滑って頭を打ったとか」
「さあ。そんな噂もあったかな」
あきらかに口が重たくなった相手を前に、正陽は考え込むように腕組みした。
そして、言う。
「なぜ密室だったんだろう?」
「なに?」
「すべての出入口が内部から施錠された礼拝堂の中で死んでいたんだろ、その生徒。そもそも礼拝堂の戸締りってどうなっているんだ」
「戸締り? 下校時刻を過ぎたら、用務員さんが施錠しているけど」
「教会ってのは、ずっと開いているもんだと思ってた」
「防犯上の問題もあるしな……この礼拝堂は学校の敷地内だし」
「どちらにしても――密室の礼拝堂で生徒がひとり死んでいたって状況、不自然だと思わないか? 用務員が施錠する前に、生徒は礼拝堂にいたってことになる」
下校時刻より前に忍び込んでいた……? いったい何のために?
その上、当日は校長の帰宅命令とやらが出された日だったというのに――。
「だいぶ暗くなってきたぞ。もう帰ろうぜ、ホームズ」
探偵ごっこをたしなめるような涼介の声音。
腕時計に目を落とすと、下校時刻が迫ってきていた。ステンドグラスの大窓から射し込んでいた陽も陰り始めている。にもかかわらず、礼拝堂の奥へと進む正陽へ、涼介は痺れを切らしたように叫ぶ。
「おい! いい加減に」
「――あの扉」
正陽が注視しているのは、祭壇を過ぎて東側の角にある地下室へと続く鉄製扉だった。ふだんは施錠され固く閉ざされているのに、微かに開いているように見えたのだ。近づいてみると、やはりわずかに隙間がある。これには涼介も首をひねる。
「変だな。どうして開いているんだ……?」
重い扉を手前に引くと、ひんやりしたカビ臭い空気が鼻をつく。
地下への階段は石造りの壁に挟まれていた。
導かれるように、正陽は地下へと降りていった。不思議だった。こんな状況だというのに、妙に思考が冴えている。
東夜鈴と出逢った日から、彼女が奏でていた『悲愴』が脳内でリピートしている。
彼女は初対面ながら、学年が違う正陽のことを知っていた。編入生は数十年ぶりで、めずらしい存在ゆえに覚えてくれていたのだろう、と考えていたが。
はたして本当にそうだろうか――?
今思えば、青博館にやって来た経緯もかなり特殊だった。
二年生に進級するという半端な時期に、自宅を出て親戚の家に下宿してまで、無理やり転校させられた。なんだか全てが仕組まれていたような気がしてならない。
もしや、僕は学園中から監視されているのかも? ……いや。
正陽はかぶりを振った。
さすがに考えすぎか。だって、ほんの数日前までは平穏な生活を送っていたではないか。あの日、『緋色の研究』を忘れて、放課後の校内に迷い込むまでは――
そのとき、ぱっと周囲が明るくなった。
涼介が地下の照明を点けてくれたらしい。正陽のスニーカーの右足は、階段の最後の踏板に下りたところだった。
「……っ!?」
視界に飛び込んできたものに、正陽は息を呑む。
スニーカーの爪先が緋色に染まっている。階段の先、地下の床の一部が緋色の液体で染められていた。




