第8話 礼拝堂の吉岡 (Kan)
(バナナの皮で転んで死ぬなんて他人事じゃないな)
と正陽は、ミラーの話を聞いて、背すじが冷たくなる感じがした。もしかしたら自分も死んでいたかもしれないのだ。そう思うと、正陽はいてもたってもいられなくなった。
ミラーと別れてから正陽は一人で、礼拝堂に向かった。礼拝堂には、過去の事故死にまつわる、重大な秘密が隠されていると思ったからなのだが、実はそれだけではなく、彼の心の片隅には、東夜鈴とまた会えるかもしれないという期待があった。
彼女が放課後、必ずそこに来るわけではないだろうに、正陽は、ただ昨日の出来事に想いをめぐらし、東夜鈴の面影を求めて、礼拝堂に向かったのである。
礼拝堂の荘厳な外観は、この時刻になると昨日と同様に、陰気なオーラを醸し出している。
正陽が、ぎいと音を立てて重い扉を開くと、ひんやりとした堂内の空気が感じられた。眼前に、木製の長椅子が奥に向かってずらりと並び、それらがランプ型の琥珀色の灯りの下に照らされている光景があった。
その先の壇上に誰かが立っているのが見える。金色の祭壇の前で、奇妙な動きをしている。
(誰だ……?)
東夜鈴でないことは確かだ。
礼拝堂のアーチ形の天井は、あまりにも高く、見上げると首を痛めてしまいそうなほどで、高くなるにつれ、左右の装飾的な壁がだんだんと真ん中に迫ってゆくあたり、逆さまになった渓谷の底を眺めているかのようである。
壁には、キリスト教の聖典の場面を描いているのだろう、赤や緑など色とりどりの衣をまとった人々の様子が描かれ、さらに随所に金色に輝く装飾が施されているので、冷たい石の印象を与える天井と比べて、華美で暖かな印象である。
このような堂内に、美しいステンドグラスの大窓から外の日光が忍び入ってきている。しかしそれも、この時刻になると頼りない。代わりに、壁に取り付けられているランプ型の灯りが、ぼんやりとした琥珀色の光を、木造りの机や金色の祭壇に投げかけている。
「吉岡……?」
正陽は、壇上で奇妙な動きをしている人物が、クラスメイトの吉岡であることに気が付いた。
吉岡は、神妙な表情で、落語を語るような軽妙な口調で、誰もいない座席にべらべらしゃべっている。
「吉岡、何してんの」
と正陽は、壇上の吉岡に近づきながら尋ねた。
「南見? 練習の邪魔してもらっちゃあ困るね。文化祭で漫才の発表をする予定だからさ。今からこのでっかい礼拝堂に慣れとかないと、客の雰囲気に呑まれちゃうよ」
「漫才なんて、やってたんだっけ」
「失敬だな、君は。え? 僕はこれでも漫才同好会の会長だよ」
そんなことを言ってたっけな、と正陽は以前、クラスで交わした会話を思い出した。
「ああ、君がいつか自称していたやつね。でも、たった一人の同好会なんでしょ。学校に同好会として認められていないらしいじゃん。そんなことよりさ、この礼拝堂に、僕たちの知らない抜け穴があったりしない?」
吉岡はその言葉を聞いて、あからさまに不機嫌になった様子だった。
「知らないよ、そんなことは。いいから、漫才の邪魔をするなよ。こっちは一人なんだぞ。君が相方になってくれるのならいざシラス。釜揚げしらす、生しらす、美味しいねぇってオイ!」
突然、訳の分からない一人ノリツッコミを目の前で見せられて、正陽は笑いどころが分からず、ただ気分を悪くした。
「ああ、練習はどうでもいいからさ、何か知っていることが一つでもあったら教えてほしいんだけど、この礼拝堂はいつ頃、建てられたものなの?」
「分からないんですぅ、わたしにはぁ」
と吉岡は、滑稽な身振り手振りを交えて、誰のモノマネをしているのかさっぱり分からない奇妙なイントネーションで返事をした。
「まあ、知らないならいいよ」
こいつとは話ができないな、正陽は思って、自分で調査をするため、壇上に上がり、金色の祭壇を眺めた。
(アルセーヌ・ルパンであれば、こういう祭壇がギイっと横に開いて……)
妄想がたくましくなる。しかし日常はそんな妄想を打ち壊すかのように何も起こらない。
「はあ、笑いのネタないし、クラスの奴には俺のギャグが受けないし、漫才もほんと大変だぜえ? お前にはこの苦しみが分からないだろう?」
と吉岡が背後から、上から目線の物言いで話しかけてきた。さっきまで、練習の邪魔をするな、と言っていたくせに、正陽はやれやれと思った。
「ネタねぇ……」
なにかアドバイスをしてやらなければならないのか、と思った正陽の脳裏に、昨日のバナナの皮で滑って転んだ自分の姿がありありと浮かんできて、一人で可笑しくなった。あらためて考えると、なんておかしい光景だろう、と思って、正陽は笑いをこらえながら、
「バ、バナナのさ……皮ですっ転ぶなんて、ど、どう?」
と言った。
ところが、その言葉を聞いた瞬間、吉岡の表情は凍り付いた。正陽は、まるで化け物か、幽霊を見るような鋭い眼差しで見つめられることになった。そして正陽がその異変に気が付かぬまま、その場から離れようとすると、吉岡は彼の背中にある言葉を浴びせた。
「ナツ……」
正陽は、またなにか冗談でも言うのかと思い、振り返った。ところが、吉岡の表情が鬼気迫るものに変貌していることに気づいて、驚愕のあまり、言葉が口から出なかった。
「まさか……お前……信仰しているのか……?」
吉岡はそう問いかけてきた。二人の間には静寂が生まれた。しばらくして吉岡は、正陽の表情から何かを察したらしく、我に返ったように、手を振ると、
「いや、違うならいいんだ。さっきの言葉は、忘れてくれ」
と言って、焦っているらしく正陽から視線をそらした。
しかし正陽は吉岡の急変を目の当たりにしてしまった以上、このまま意味を知らずに引き下がるにはいかない、と思った。
「ナツってなんだ。お前、何か知っているのか。信仰しているのかって言ったな。それってキリスト教の神みたいなものか。教えてくれよ。自分だけ何も知らないみたいで、すごく怖いんだよ」
すると吉岡は、弾かれたように正陽の方を向き、おびえているらしき声をさらに震わせ、
「語ってはならない。か、語ったものは……」
吉岡は、そんな意味の分からない言葉を、口の中で呪文のように繰り返した。自分の発言を心から後悔している様子である。正陽はそれにも関わらず、吉岡から情報を引き出そうとする。
「吉岡……」
「近づくな!」
吉岡は、恐怖に歪んだ表情で叫んだ。
「誰にもこのことは言わないでくれ。いいか。この学園では口にしてはいけない言葉が、あるんだ……」
「それが、ナツなのか?」
「やめろ!」
吉岡はそう叫び、突然、走り出した。彼は、教会の机の間を駆け抜け、重い扉を開け放ち、外に飛び出した。扉は勢いよく閉まって、鈍い音を響かせた。正陽は驚いて、吉岡の跡を追う。正陽がその扉を開けた時、もうそこに吉岡の姿はなかったのである。
「吉岡ぁ!」
正陽の声は、闇に包まれた校内に虚しく木霊するかのようだった。
しかし、正陽は確信した。
……間違いない、この学園、何かある!




