第6話 アイ・ゴット・チラリズム (孫遼)
「ふわぁ。やべ、殺せなかった」
正陽の言葉に、螺旋階段を先に上っていた涼介が振り返る。
「朝から不穏な発言だな。どうした」
正陽は涙でにじんだ目の端を指でこすりながら答えた。
「アクビが噛み殺せないっていいたかったんだけど、言葉選びが悪くてスマン。どうも読んでる本に影響されがちでね」
「その様子だとちゃんと回収できたんだ、忘れ物。『緋色の研究』だっけ」
正陽はニヤリと笑う。
「ああ、ついでに伏線もいろいろ回収できたぞ」
と、おおげさに親指を立ててみる。
「なんだよ伏線って、わけわかんねーな。それとも推理小説だけに、って言いたいのか? わははっ」
事故寸前のジョークを絶妙な塩梅ですくい上げて、涼介は笑う。
大き目の口から白い歯がのぞくと、まるで歯磨きのCMみたいだ、と正陽は思った。
昨日あれほど薄暗く、陰鬱だった校舎は嘘のように明るい。縦長の窓からは、夏の訪れを感じる力強い光が差しこみ、涼介の濃い肌色を血色良く映えさせている。正陽はといえば、名前に似合わず日陰っぽい見た目をしているせいで、たびたび顔色を心配されるのが悩みの種である。
(昨日も、ちょっとだけジョリーに気を遣われてしまったし……)
そうだ、と正陽は昨日のことを思い出す。気になっていたことを涼介にぶつけてみる。
「あのさ、この学校では『帰宅命令』ってけっこうよく出るもんなのか?」
「帰宅命令?」
涼介はするりと真顔に戻った。天井の方を見上げて数秒、視線を宙にさまよわせる。
「いや? 今までそんな話、聞いたこともないが」
「昨日、ジョリーが言ってたんだよ。校長直々の命令だって」
「校長が?! だったら下校のとき、放送ぐらいあってもいいはずだけど。生徒を早く帰宅させようっていう、ジョリーの方便じゃないか?」
「……だったのかなぁ」
(いや、そんな感じじゃなかった。あの場所で感じたのは間違いなく、異変だ)
昨日のジョリーの口調や学校の雰囲気を思いつく限り、事細かに涼介に説明してみる。本能的に恐怖を感じた、ということも。
涼介はそれを聞きながら、中指、人差し指でトントンと顎を叩いた。
「なーんか、気になるな。それ」
「だろ?」
(この流れなら聞けるか……あの話)
――青博館高等学校の秘密は誰にも語ってはならない。
東夜鈴が言い放ったあの言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっている。
「なぁ、涼介……」
口を開きかけた、その瞬間。
「早く教室に行きなさい」
とつぜん女性の声が踊り場に響いて、正陽と涼介はほぼ同時に振り向いた。
スーツ姿にハイヒール。整ったスタイルの外国人の女性教師が階段を上りながら背後に声をかけている。小走りになりながら絶妙な距離感を保ち、教師の後ろから上ってくるのは吉岡だ。
「なんだ、吉岡か」
涼介は、先生の叱責が自分に向けられたものではないと気付いて、ほっとした様子だ。
「メアリー……、ぐ、ぐっもーにんぐ……えへへ」
「Good Morning、吉岡くん。授業の時以外はちゃんとミラー先生と呼びなさい。ほら、早く教室へ」
優しく背中を押され、胸を突き出すようにしてこちらに歩いてきた吉岡の表情はぐにゃぐにゃと崩れている。
「吉岡、お前……」
涼介の呆れ顔の意味はすぐに解った。
吉岡が何の意味もなく先生の背後に貼りつくわけがない。
彼の目的は、彼女の背中側にあって、彼にとって価値のあること――すなわち、尻の鑑賞。
先生はそんな吉岡の企みに気づく様子もなく、『早く行きなさい』と言わんばかりに教え子たちをにらむ。
「あ、吉岡は僕らが責任もって教室に連れていきます」
正陽がそう約束する横で、涼介が吉岡の襟をつまみあげるフリをしたのを見て、ミラー先生は満足げに頷いた。きっと三年の教室に向かうのだろう、踊り場から階段を上り始めた彼女の後ろ姿をうっとりと見ながら、吉岡は小声で言った。
「タイトスカートって控えめに言って最高だよな? あんな美人、ハリウッドにもそうそういねぇよ。あー、メアリーが担任にならないかなぁ……」
「ジョリーだって別に悪い担任じゃないだろう」
正陽が思わず擁護に入ると、吉岡はキッと鋭く睨み付けてくる。本人はいたって真面目にやっているのだろうが、気を抜くと笑ってしまいそうだ。
さらに吉岡は、左手を腰に当て、右手人差し指をこちらに向けた。
「いーや、君は心に本音を隠しているね。あんな青髭より、金髪美女の方がいいにきまってる。実際のところどっちよ? ほら、ジョリー? or メアリー?」
吉岡は左右に尻を振りながらにじり寄る。その珍妙な動きに、正陽は笑いを堪えられなくなった。
「ごめん、俺……ギブ」
呼吸を維持するために膝を折ってうずくまると、何かに気づいたかのようにハッと息を飲む吉岡の声がした。
「お前天才か! こうして具合悪いふりをして顔を上げればそこには絶景が……ぐっふ」
正陽が気配を感じて顔をあげた時には、吉岡の背中にピンクラメのスニーカーを履いた足がめり込んでいた。手を伸ばしたが当然間に合わず、吉岡は前につんのめって床にしたたかに顔を打ち付けた。
涼介は両手で体を抱くようにして、裏声で呼びかける。
「西荻麗……選手? いくらなんでも階段でハイキックはやめたほうが」
西荻と呼ばれた女子生徒は片足立ちのまま、無言で中指を立てた。その態度の悪さたるや、髪をシニヨンに結った上品な見た目にまったくそぐわない。螺旋階段という不利な地理条件でもためらいなくキックを繰り出し、まったく上半身がぐらつく様子がないのはフィギュアスケートで鍛えた体幹のおかげなのだろう。
「いてぇ……スケートゴリラめ……」
「吉岡ぁ。その頭頂で三回転半されたい?」
西荻麗の切れ長の目がさらにすぅっと薄くなる。その凍りつくような視線には『ギャン』という擬音がぴったりだ。一方、頭の上で手を合わせて許しを乞う吉岡には『キャン』という犬の鳴き声がアテレコされるべきだろう。
西荻麗は「バカ、バカ」と罵倒を続けながら吉岡の背中を手刀でつつき、早く踊り場から廊下へ移動するよう促す。吉岡の背中には、くっきりと下足痕がついていた。
二人を見送りながら、涼介はやれやれと肩をすくめる。
「あの子、無茶するなぁ……怪我でもして大会に出れなくなったらどうする気なんだろう、なぁ?」
正陽は無言で首を振った。
涼介は自覚があるのかないのか、どうやら西荻麗のファンらしいので、コメントは差し控えさせてもらうことにする。たとえば、どさくさに紛れてスカートからちらりと覗くものが見えたなどと、うっかり口を滑らせようものなら誰にとっても不幸な未来が待っているに違いない。
「行こうぜ、点呼始まる」
正陽はパタパタとスラックスの膝を払いながら立ち上がった。涼介と連れ立って教室に駆け込んだとき、タイミングよくチャイムが鳴る。
(秘密のこと、結局聞けなかったな……まぁ後でもいいか)




