第3話 フルートの音色 (葵紀ノ未)
ただ目的地へ向かっているだけ。
しかしながら、フルートの音色に導かれているような不思議な感覚だった。
「あ。聖書、家だ」
今朝、隣に座る吉岡は自分の通学カバンを探りながらつぶやいた。
毎朝のミサが始まるまでに礼拝堂で着席している必要がある。ただ、遅れなければ何も言われないから正陽はその日に読みたい本と聖書とともに早い時間に着席し、読書の時間を確保していた。
一方、吉岡は教室に荷物を置く暇もなく礼拝堂へ来る。時間を気にしてもっと早く登校するようにジョリーが注意しようとも「重役なんです、実は」とよくわからない言い訳をしている。
「南見。いい感じの本、持ってない?」
(毎朝必要なのに、どうやって忘れたんだろう?)
そう思ったが、代わりに小声で「教科書は?」と尋ねた。
「だめだめ、大きいから。フツーにバレる。なんか、こう、さ。あ。文庫本とか、ない?」
「これでいいなら」と。
その際、彼に渡したのが『緋色の研究』だった。
無駄な抵抗だと思っていたが、案外バレないものだと朝から感心してしまった。
この後、正陽は返してもらうのを、吉岡は返すのを忘れた。したがって『緋色の研究』は礼拝堂にあるのではないか。そう結論を導いた。
『うっかりさん』や『おっちょこちょい』を否定できるようになるにはどうすればいいか考えつつ、ジョリーから聞いた帰宅命令に急かされて礼拝堂へ駆けこんだ。
普段から運動しないことがたたりだいぶ息が上がっていた。
「南見先輩、ですか?」
人がいるとは思っていなかったので、肩で息をするのを忘れて顔を上げた。
両サイドに木製の椅子が配置された真ん中の通路。そこには、顔を包み込むように黒髪を短く切りそろえた小柄な少女が立っていた。両手でフルートを大切そうに抱えている。
正陽は、知らない女の子に名字を呼ばれた理由を見つけられず、ぽかんと彼女を見つめた。
「すみません。わたし、アズマヤスズと言います。東の夜にリンリンって、あの鈴です。
こんな片田舎の校則が厳しい学校に編入する方なんて、ここ数十年では先輩のほかにはいらっしゃいませんから、つい」
「あ、いや、構わないけど。その、東夜さんはここで何をしていたの? 早く帰らないと」
「まだ部活の時間のはずですけど」
「そうなんだけど、校長直々の帰宅命令らしいから」
「ああ、帰宅命令ですか。わかりました。
あら、それでは南見先輩はなぜここへいらしたのですか?」
「それは、ちょっと忘れ物を」
すると、はっとして東夜は、たたた、と軽い足音とともに前の方の椅子に駆け寄った。ちょうど、今朝、正陽が座った椅子だった。
その椅子の上から文庫本を取り上げるなり、たたた、と戻ってきて「どうぞ」と差し出た。
「ありがとう」
彼女は柔らかく微笑むと、片手に持っていたフルートを速やかに分解し始めた。直後、何か言おうとした東夜の言葉を夕焼け小焼けのチャイムが遮る。
「先輩、帰らないのですか?」
「いや。なんか、待った方がいいかなって」
吉岡に動かされていた栞の位置を直しながらそう答えた。
東夜は、ぱたりと手を止めた。それから逡巡して静かに告げた。
「青博館高等学校の秘密は誰にも語ってはならない」
正陽は何のことかわからず、数度だけ瞬きをした。
「秘密って?」
「知りません。語ってはならないので」
東夜はフルートケースと通学カバンを肩にかけて正陽に向き直った。
「すみません、お待たせいたしました。さ、先生に叱られてしまう前に帰りましょう」
礼拝堂を出て自転車を起こした正陽は東夜と並んで正門をくぐった。
「なんだか、聞いたことある気がするなって。有名なやつ?」
「ええ、ピアノソナタの一つです」
「フルートなのにピアノ?」
「ピアノとフルートのデュオってよくありますから。アンサンブルはご存じですか?」
淡々としているものの、わかりやすく丁寧に、そして楽しそうに話してくれる。
音楽に昏い正陽だったが、彼女の解説を楽しく聞いていた。
天才モーツァルトが作るのは長調が多かったが、ハ短調も好んでいたという内容にまで話が発展するころには、二人は地蔵菩薩あたりへ差し掛かっていた。その先の分かれ道の直前、東夜は突然立ち止まった。
振り向くと、まっすぐ見据える瞳とかち合った。
「礼拝堂で吹いていたのは、ベートベンが作曲した『悲愴』という名前を持つ曲です。
でも、ハ短調なだけで譜面上は題名みたいな悲しくて痛ましいものではありません。第一章は情熱的で彼らしくて、第二章はある冬の晴れの日のように情緒的で。なので……いえ、ええっと、うまく言えなくて申し訳ないです。ですけど、わたし…………」
あと数言ほど言いたそうにしていたが、結局言葉を見つけることは叶わなかったらしい。
「推理小説がお好きなら……なんて。都合がいいですよね」
困ったように微笑みを浮かべ「送ってくださり、ありがとうございます。それでは」と一礼して背を向けた。
正陽はそんな後輩にかけたい言葉もかけるべき言葉もついに見つけられず、彼女の姿は遠のくばかりだった。




