第2話 ここに居てはならぬ (羽野ゆず)
「……なんだよ」
正陽は強張っていた肩の力を抜いた。
二年A組の教室には人っ子ひとりおらず、ただただ静寂が落ちていた。
としたら、あのフルートの音色は一体どこから響いていたのだろう?
不気味で、物悲しい。どこかで耳にしたメロディだった気がする。
(そんなことより、早く本を)
本来の目的を思い出した彼はわざと大きく足音を響かせ、最前列中央――自分の席に歩み寄る。
背後左右にはクラスメイト。眼前には教師。教室中から監視されているようで落ち着かない席ではあるが、最近視力が落ちてきた正陽にとっては黒板の文字が読みやすくありがたくもあった。
高校二年生になって、突然の転校。
前の高校の友人たちに『青博館高等学校』の名を告げると、(あの厳しいミッション系の学校かよ)(ご愁傷サマ)など不吉な言葉をかけられた。
しかしながら、当初抱いていた厳粛なイメージとは違い、クラスメイトらは(一部クセの強い生徒がいるものの)馴染みやすく、意外にも校内は活気に満ちていた。
これなら何とかやっていけそうだ、と安心しかけていたのだが――
(にしても、静かすぎないか?)
ふいに寒気がして、正陽はぶるりと身震いした。
いつもと何かが違う。何かがおかしい。
もはや否定のしようもなく、本能が警告を発している。
この教室にしても、だ。放課後は部活動に励む生徒らの鞄が机の上に置きっぱなしになっているのが馴染みの光景なのに、それらもない。空々しいほどに整然としている。
「ん?」
机の中に差し込んだ手が空を切った。
当然あるはずの感触がなかったからだ。眉根をよせた正陽は、椅子を引いて机の中をのぞきこむ。そこには空洞が広がるばかりで、肝心の『緋色の研究』が見当たらなかった。
正陽は困惑する。
なぜ? 移動教室の際、持ち運んでどこかに置き忘れてきてしまったとか……? 必死に記憶をたどろうとしたところ、
「何をしている」
背後から投げられた声に心臓が縮み上がった。喉の奥のほうで息が詰まる感覚。
「その、くせっ毛頭は――南見か?」
男性にしては甲高い声。
おそるおそる振り向くと、開いた扉の前に立っていたのは、ジョリー先生だった。
正陽は脱力して息を吐く。ジョリーは、つい先刻まで部活動の指導をしていたのか、上下ともジャージ姿である。彫りの深い顔立ちをしかめて、
「君はまだ部活動に所属していなかったよな。こんな時間にどうして教室に?」
「先生……ちょっと忘れ物をしてしまって」
「忘れ物だって? 見た目の印象と違って、おっちょこちょいだな」
おっちょこちょい。正陽はかっと頬が熱くなるのを感じた。涼介からも『うっかりさん』とからかわれたばかりなのに。今後は忘れ物に気を付けよう、と固く誓う彼であった。
濃い顎髭を擦りながら、ジョリー先生は続けて言う。
「用が済んだら、早く帰った方が良い。校長先生直々の『帰宅命令』が出たからな」
「帰宅命令……?」
「運動部の生徒たちも全員帰したところだ。いま校舎に残っているのは君と、生徒会役員が数名だけだぞ」
だから校舎に全く人気が感じられなかったのか。正陽は納得する。
(でも、どうして帰宅命令が? そもそも校長先生直々の帰宅命令って?)
次々に疑問が浮かんだが、授業中のくだけた雰囲気とは違い、ジョリー先生の口調には有無を言わさぬ威圧感があり、質問するのはためらわれた。
結局、居心地が悪そうにくせの強い髪を何度か撫でつけて、
「……じゃあ僕は帰ります」
教室を出ようとした途端、「あ、南見」と呼び止められた。
「最近どうだ? 学校には慣れたか」
ジョリー先生は社会科の教師であると同時に、二年A組の担任教師でもある。
この春に転入してきた正陽のことを何かと気にかけてくれていた。正陽は少しだけ表情をゆるめる。
「はい。だいぶ慣れてきました。毎日楽しいです。とくに先生の授業が」
「おお! そうか」
満足げに頷くジョリー。
正確なところを言えば、彼と吉岡のやりとりが愉快なのだが、そこは伝えなかった。言わぬが花というものだろう。
もう一度軽く頭を下げて、正陽は教室を出た。ロボットのような動きで廊下を直進し、螺旋階段を二階まで降りたところで立ち止まる。
早く帰れといわれても、肝心の忘れ物が見つからないのに……。
ステンドグラス窓から夕陽が射し、七色の光が足元に落ちている。ステンドグラスは葡萄と十字架をテーマにしたデザインで、おそらく聖書の一場面を描いたものだろう。
(――そうだ! もしかすると、『緋色の研究』はあそこにあるかも)
ふと、思い付いた正陽であった。
早く帰らなければという焦りと、ホームズの物語の続きが読みたい。二つの気持ちがせめぎ合う。
「ちょっと寄っていくだけならいいだろ」
そこで見つからなければ今日は諦めよう。
心のなかで呟きながら、正陽は階下へと足を踏み出す。
次の瞬間、再び――どこからかフルートの音色が聞こえてきたのだった。