第10話 緋色と少女とデュオの相手 (葵紀ノ未)
血。
大量の、血。
正陽は、咄嗟にそう思った。
「なんかあったかよ、ホームズ先生?」
スタッカートの足音とともに、涼介はのんきに揶揄うような声色で呼びかける。しかし、正陽には答える余裕がない。
本の中ではいくらでも血を見てきたが、現実で見るのは初めてである。気分が悪くなってくるし、頭が痛くなってくる。気のせいと言われれば気のせいとも思える。落ち着こうと息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。
しかし、何度やっても落ち着かない。むしろ心臓の鼓動が耳元できこえるようになり、深呼吸したことを後悔した。
酷くなってくる頭痛への対抗手段を探すが、見つからない。やがて視界が歪む。
――あ、やばい……
「南見!」
友人の異変を感知した涼介が叫ぶ。その声が聞こえてきたのを最後に、正陽は意識を手放した。
「ん……」
意識が戻ってくると、正陽は、まず額に湿り気を感じた。
「お前、運とかコスパとか最強だな。色々と羨ましいよ」
呆れたような涼介の声が聞こえてくる。
額に乗せられた濡れたハンカチに手が触れた。右手で握っても水滴は垂れてこない。涼介がきつく絞ったのだろう。
問題は、それが白いレースのハンカチであることだ。涼介が持つには、違和感しかない。
違和感といえば、今、頭部が柔らかい何かに乗せられていることにも思考が移る。
「大丈夫ですか、南見先輩?」
沈黙。
繊細な指先が、髪の毛に触れている。
天井を見上げると、こちらを見下ろす東夜の顔も視界に入った。
「わぁああああ!?」
状況を理解し終えるや否や、正陽は勢いよく飛び起きた。その拍子に床に尻もちをつく。
「……わぁ」
「何してんの?」
東夜と涼介の驚いたような呆れたような視線に晒されながらも、気絶する前の光景を思い出した。勢いよく涼介に詰め寄った。
「あの、階段下に、血が!」
「残念、ありゃワインだ」
思考が停止し、数秒後にようやく涼介の言葉の意味を理解した。
「は?」
「赤ワインだったんだよ、階段下の赤い液体は。何人か先生が来て確認したから間違いない。
で、お前はアルコールの気体を深く吸い込んでぶっ倒れたってわけ。気体で酔えるなんてコスパ最強だろ?
プ・ラ・ス、女子高校生の膝枕。男の夢だね、さっすが南見正陽。マジでふざけんなよコノヤロウ」
「……赤、ワイン。そっか、良かっ……」
木のいすに座りなおした正陽は安堵したが、先ほどの状況を思い出し、東夜に視線を向けた。
「良くない。なんで東夜さんがここに?」
「え、すみませんでした」
「言葉足らずなんだよ、南見」
正陽の頭頂部に手刀が炸裂する。
そんな先輩らの様子に苦笑しつつ、東夜は話し始めた。
「今月は毎日、放課後に礼拝堂で吹いてます。先客として変な先輩がいらっしゃる日は、校舎内で待っているんです。外だと暑い日もありますし、だいたい一時間もすると満足なさって帰宅なさるので」
「そんなのわかるんだ。あ、そういえば、俺が戻る前にもうここにいたよね」
「校舎の階段のところから、この礼拝堂の出入りが分かるんです。あの扉を開閉すると、窓やガラスに光が反射して階段のステンドグラスの光り方が変わるんです。
今日もそれを確認したのであの変な先輩がご帰宅なさったと思ったんですけど……南見先輩がダウンなさっていたので驚きました」
「良かったな、南見。そういうわけで膝枕だとさ」
「涼介くん、あまり言わないでくださいっ……!」
「来月は?」
思わぬ問いにより視線を集めたが、気に留めず正陽は東夜にもう一度尋ねた。
「来月は、もうここでフルートやらないの?」
「あ……」
言い淀んだ少女に、涼介は「今日はどうすんの?」と咄嗟に助け舟を出した。その言葉の意図を受け取った東夜は答えた。
「吹きます。南見先輩の意識も無事に戻りましたし」
「マジ? 久しぶりに聴いていい?」
「構いませんが……評論家にはならないでくださいね?」
「わかったわかった」
楽器の用意をする東夜から離れた木のいすに腰を降ろした涼介。正陽はその隣に座った。
「ねえ」
「んあ?」
緊張感を消し去る意図があると思わせるような気の抜けた返事だが、正陽は表情をこわばらせたまま問いかけた。
「あの子と知り合い?」
「当たり前だろ。兄貴とあの子の姉さんが同級生じゃなくても、こんな人口の少ない片田舎の人間はみーぃんな知り合いだよ」
「じゃあ、その……東夜さんのこと、どう思ってるの?」
「鈴のこと? かわいいと思うけど」
「なんっ、呼び方!」
残念ながら、涼介が呼ぶ前に東夜も彼を涼介くんと呼んだことは正陽の耳には届いていなかった。
「……お? もしかして? え、マジ? 内面重視じゃなかったっけ? あっれれーぇ?」
「そ、そんなじゃないから。聞いてみただけ」
「またまたーぁ。素直になったらどうかね、少年」
「そういう涼介はどうなんだよ」
「恋愛対象外だね、黒髪ロング派だし。
かわいいとは思うけど、妹って感じかな。わかる? 成長を見守りたいこの気持ち。人見知りで同年代の友達作れなくっても、あまり外で遊びたがらなくても、なんでもいい。とりあえず真っ直ぐ育ってくれることしか望んでねぇよ」
「人見知りな割には、僕、初めから普通に話してもらってたんだけど」
「あー、俺が話してた。転校生いるって。そのおかげでしょ、たぶん。
それにしても、愛のキューピッドか。悪くない役割だな」
「否定してるじゃないか!」
「はいはい」
ひとまず涼介の言葉を信じることにした。それだけの説得力を、そのまなざしは有していたからだ。しかし、現状、涼介がどう思っていようと東夜が涼介をどのように思っているかはわからないのだ。
考察を進めていると、曲が始まる。
先日、動画で聞いた『悲愴』の第一楽章だった。
「ピアノ、弾ける?」
「いや、全く」
「お兄さんは?」
「いや、兄貴もムリ」
「じゃあ、この曲知ってる?」
「……何が聞きたい?」
「ピアノソナタ第八番。名前からしてフルートのソロじゃなくて一緒にピアノでも演奏されるべき曲だよね。つまり、す……東夜さんがフルートなら、誰かピアノを弾く人がいるはずだ。
同年代の友達でも、親しそうな涼介でも、お兄さんでも無い。だったら、人見知りなす……東夜さんが気兼ねなく演奏を一緒にできる相手、デュオで演奏できる相手は、もう一人しかいないよね?」
東夜と非常に親しく、ピアノを演奏できる可能性がある人物。それは、東夜鈴の姉以外に該当者は存在しないのである。
「さっすがホームズ先生。
じゃあ、ここで問題ね。俺はなんて答える?」
「残念ながら、証拠はないよ。あくまでも、僕の想像」
「だろ? まあ、そういうことだからさ。
鈴の前では、こういう話題出さないで欲しいんだよ」
いつもの晴れやかな笑顔でもからかうような笑みでも無い。東夜鈴のソロ演奏も相まって、正陽には、その表情がなんとも言えない苦味を持つ笑みに見えた。




