第1話 青博館高等学校 (Kan)
青博館高等学校の秘密は誰にも語ってはならない
影の校長
*
高校生の南見正陽は放課後、自転車を引っ張り、曲がりくねった田舎道をのろのろと歩いていた。
正陽の隣にはクラスメイトの北川涼介が並んで歩いている。
正陽は一見すると病弱なのではないかと思える色白の美少年である。身長は172センチで、黒髪が洗い髪のようにくしゃくしゃになっているのを気にして、何度も自分の頭を撫でている。これに対し、クラスメイトの涼介は髪を刈り上げていて、肌が浅黒い骨格のしっかりとしたスポーツマンタイプの少年だった。
「今日のジョリーの授業、面白かったな」
とさも可笑しそうに涼介は言った。
「そうだね。でもあれはさ、吉岡の態度も見事だったんだよ。ジョリーと吉岡はお笑いコンビ、組めるよ」
と正陽も、本日中一番面白かった授業の一コマを思い出して笑った。
ちなみにジョリーと言うのは、社会科の教師だった。顎鬚が濃いという理由から「ジョリー」とあだ名されている。吉岡というのはクラスでもおっちょこちょいで有名な男子生徒で、ジョリーは度々、吉岡の態度を正そうと指摘するのだったが、吉岡の性格があまりにも無頓着で間が抜けているせいもあって、そのやり取りは側からは滑稽な漫才のように見えるのだった。
「漫画読んで、弁当食べながらジョリーの授業受けてる吉岡も吉岡だよな」
と涼介はもう一度笑った。
「説教されている最中に、ソーセージを口に放り込んだあいつの神経がよく分からないよ」
と正陽は笑いながら、そこに平和な日常を感じていた。
二人が歩いている道の右側には、日本の原風景とか世間で妄想されているような広々とした田んぼが新緑の丘の方まで続いていて、足元の水路を流れる清らかな水は、鏡のように空を映している。
道の分かれ目に地蔵菩薩像が立っている。ここまで来て、正陽はあることに気が付いた。
「いけね」
「どした」
「僕さ、学校に忘れ物があるみたいだ」
「またかよ。毎日じゃねえかよ」
「いやいや、そんなことはないよ。今日はたまたまだよ」
「お前のうっかりさんなところは治らねぇなぁ」
そう言って、涼介は微笑むと正陽の肩をポンと叩いた。
正陽は、二年生になってから東京の学校から転校してきた生徒だった。そして今は六月の中旬、これから夏が始まろうとしているところである。
正陽もはじめのうちは学校の雰囲気にも慣れることが難しかったが、どうにか同じクラスで隣の席だった北川涼介と打ち解けることができて、今に至る。
そして正陽は現在、親戚の家に住まわせてもらっていて、ようやく新しい生活に慣れてきたところなのだ。
「僕さ、忘れ物を取りに教室に戻るよ。一緒に行く?」
「悪いな。俺には俺の用事がある。今日は先に帰らせてもらうよ」
「ああ、わかったよ」
「ところで何を忘れて来たんだ?」
「図書室で借りたコナンドイルの『緋色の研究』だよ」
「お前、それってシャーロックホームズが主人公の推理小説じゃねえか。へえ、そんな小説読むんだ」
と涼介は意外そうな顔をした。
「そんな意外かな。今夜はどうしてもその小説を読みたいんだよ」
正陽はそう言うと、何の意味もなく、地蔵菩薩像の陰影を見つめた。
「じゃあ、学校に戻るから……」
「ああ」
正陽は、涼介とその場で別れると自転車に乗り、一人で学校に戻った。
学校のあるあたりに来ると、新緑の草木が道を挟むように生い茂り、清涼な川が堀の下を流れている。その堀の向こう側には刑務所のような塀が続き、その先には正陽がいつも利用している校舎がいくつも並んでいる。
(急ごう……)
正陽が、古めかしい煉瓦造りの橋を通り、巨大な正門をくぐると、夕暮れの中に赤く染まった古めかしい教会のような校舎が建っているのが見えてきた。
この学校の名前は青博館高等学校。明治時代からの伝統がある田舎の私立高校で、この時刻なら、まだ部活動の生徒たちが残っているはずだ。
しかしそれにしては静かで人気がなく感じられるのはこの学校の敷地が異様に広いからだろう。
敷地内には、戦前からあるのではないかと思える古風な洋館もあれば、一面ガラス張りの現代アートのような建物もある。
正陽は名前が分からないキリスト教の聖人の銅像が見下ろしている道の横の茂みに、自転車を放り出すと自分の教室へと走った。人気のない庭には噴水がサラサラと水音を立てていて、それとつながっている水路の付近に、水車がまわっているところがある。
空を突き刺すようにそびえる、荘厳な礼拝堂が今は血のように真っ赤に染まり、陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
正陽はなんだか心細く感じられた。まるで人が死に絶えてしまったように思えるのだが、正陽は下らないことだとも思った。
(なににビクビクしてるんだ。自分が通ってる学校だろ……)
と正陽は心の中で呟いた。あまりにも人気が無くて、不気味な感じがして、自分を励まさずにはいられなくなったのだ。
正陽は校舎に飛び込むと、三階の教室へと通じる螺旋階段を登っていった。縦長の形をした窓からは紫色になりつつある夕暮れ空が見えている。
その時、階段の上の方から、不思議な音が聞こえてきた。
それはフルートの音色だった。そして、それは廊下を進むにつれて、正陽が向かっている教室から聴こえてきているように感じられてきた。
「誰か、いるのか……?」
と正陽は、自分の教室の前に立って、薄気味悪く思って一人呟いた。
もうフルートの音色は聴こえなくなっていた。正陽は思い切って、その教室の引き戸を開けた……。