第96話
大陸の中央部、アーリア帝国に隣接するセオドア王国の人々は、今日も穏やかな朝を迎えていた。
かつて、この国を襲った悲劇は逆巻く時流に押し流されて、深い水底に追いやられた。しかし、そのことを知る者はこの世界には存在せず、皆これまで通りの生活を当たり前の日常として謳歌していた。
そして、それは王都にほど近い、小さな農村で生きるモナも同じだった。
「それじゃ、行って来るね、母さん」
弓を手に、褐色の少女は元気よく扉を開けた。
「気をつけてね。あまり無理するんじゃないよ」
気遣う母親に、
「はーい!」
モナは元気よく返事をすると、家を飛び出していった。
その光景を物陰から眺めていた真境は、
モナ……。
かつての恋人に声をかけたい衝動を抑えながら、彼女に背を向ける。
そして、その足で村を出た真境に、
「確認は取れたようだな」
待っていた永遠長が声をかける。
「ああ。あれは、間違いなくモナだった」
「では、返事を聞こう」
異世界ギルドの運営として働くか否かを。
「そんなこと決まっている」
改めて聞かれるまでもなかった。
「俺は、これからもこの世界を守るために戦う」
真境は迷わず答えた。
「モナが生きるこの世界を、クズどもの好きにはさせん」
「本人が覚えていなくてもか? おまえの言い草だと、自分のことを忘れてしまった人間のために行動することは、無駄なのだろう?」
永遠長の皮肉に、
「貴様のバカが移ったんだろうよ」
真境はフンと鼻を鳴らした。
「たとえ、あいつが俺のことを忘れてしまっていようとも、それがどうした? 俺は、モナがこの先も幸せに暮らしていけさえすれば、それでいいんだ」
「そうか。おまえがそれでいいなら、俺が言うべきことは何もない」
永遠長はそう言い捨てると、
「だが」
背後に目を向けた。直後
「どうやら本人は違うらしい」
永遠長の背中からモナが姿を現した。そして、
「ツカサ」
モナは絶句している真境に歩み寄ると、
「バカああああ!」
横っ面を思い切り殴り飛ばしたのだった。
そして殴り倒された真境は、
「なん? え? は?」
ひたすら混乱していた。
「何が「あたしがこの先も幸せに暮らしていけさえすれば、それでいい」よ! あたしの幸せを、あんたが勝手に決めるな!」
モナは、呆けている真境の襟首を掴み上げた。見ると、その目からは涙が零れ落ちていた。
「え? あ? いや? なんというか、その……」
真境はモナを抱きしめると、
「すまん」
その手で、頬で、唇で、彼女に宿る生の息吹を確かめる。そしてモナとの熱い抱擁を終えた後、
「これは、どういうことだ?」
真境は永遠長に向き直った。
モナは、永遠長の「回帰」によって生き返った。しかし、それは同時に、この2年間の出来事もなかったことになった、ということでもあった。なのに今目の前にいるモナには、明らかに自分と出会ってからの記憶が残っている。
これは普通に考えると、ありえないことだった。
「その女に、もう1度「回帰」をかけた。ただ、それだけの話だ」
永遠長は事もなげに言い、
「は?」
真境から間の抜けた声を引き出した。
「いやいや、ちょっと待て」
真境が眉間を押さえた。
「2年前に戻ったモナに、さらに回帰をかけたところで、さらに過去に戻るだけだろう?」
2年前から、仮に3年前に戻ろうと、それで真境のことを思い出すことなどないはずだった。
「それはあくまでも、その女を主軸とした時間軸での話だ」
だが時間とは、常に何者にも捕らわれることなく、客観的に流れている。
「これまでの出来事を、日付を入れて考えればわかりやすい」
永遠長の説明は、次のようなものだった。
まず、仮に1ヵ月前にモナが死んだとする。
そして、その1カ月後、回帰によって2年前の状態に戻った。
しかし実際のところ、昨日の段階ではモナは死んでいたわけであり、生き返ったのは数時間前に過ぎない。
ならば、その数時間前まで時間を巻き戻せば、理論上、モナは回帰を受ける前の死体に戻るはず。
そして同じ理屈で、モナが死ぬ1日前まで時間を戻せば、記憶を取り戻させることも可能なのではないかと考えた。
ただ、この場合、肉体を含めて1ヵ月前まで戻すと、体内の血液や水分の不足により、また死亡する可能性が高い。
そこで永遠長が考えたのは、シェイド化による肉体からの魂の分離だった。
常盤学園でのやり取りを間接的に聞いていた永遠長は、その中で羽続が「不老不死となった「契約者」を「分離」のクオリティで魂と肉体を分離することで無力化した」ことを知り、それが天国の治療にも応用できるのではないか? と、考えたのだった。
魂は肉体と違い、脱水症状になることもなければ、新陳代謝することもない。だから、まず肉体から「分離」で魂を取り出し、魂にだけ2年分の回帰をかければ、ノーリスクで天国の意識を取り戻すことができるのではないか? と。
しかし、ぶっつけ本番で行って、予期せぬ事故が起こらないとも限らない。そこで、まず異世界選手権で見せしめとして選んだスケープゴートに試した後で、天国に実行するつもりでいたのだった。
「そして俺の意思などおかまいなしに、モナにも試してみたらできた。ただ、それだけの話というわけだな」
真境は、永遠長に非難がましい目を向けた。
モナが自分のことを思い出してくれたことは嬉しい。だが、それは同時に、モナに過去の凄惨な出来事を思い出させるということなのだった。
たとえ過去がリセットされ、戦争がなかったことになったとしても、1度心に受けた傷まで消え去るわけではない。
まして、これから自分がやろうとしていることを考えたら、モナの記憶を取り戻すかどうか、当事者である自分の意見を聞いてから行うべきだったろうに。
その憤りが、ついつい口をついて出てしまったのだった。
「まだ、そんなこと言ってんの、ツカサ」
モナが右手に握り拳を作る。
「ち、違う! 誤解だ!」
真境が、あわてて弁明する。
「戻すなら戻すで、当事者である俺に一言あってよかっただろうという意味だ。別に、戻したことに文句を言ってるわけじゃない」
「ホントに?」
疑いの眼差しを向けるモナに、
「ほ、本当だとも」
真境は重々しい雰囲気で、すっとぼける。そんな真境の不満を、
「何を勘違いしている」
永遠長が切り捨てる。
「俺が、その女の記憶を取り戻させたのは、おまえたちのためじゃない」
「なんだと?」
「その女の記憶を取り戻させたのは、あくまでも、そのほうがモスの治安を守る上でプラスになると判断したからだ」
「き、貴様という男は……」
「それに、その女の言う通り、その女がどう生き何を幸せと考えるかは、その女の決めることであり、おまえが口を差し挟むことじゃない」
「え、偉そうに言うな」
真境が負けじと応戦する。
「だいたいそれを言うなら、貴様は今日のことで、どれだけの人間の人生を変えたと思ってるんだ。確かに、貴様によって多くの人間は救われたのだろうが、中には、あの戦時下だからこそ生まれた絆や命もあったかもしれんのだぞ? それを己の一存でなかったことにしてしまった貴様に、偉そうに説教される筋合いはない」
真境は底意地悪く反撃に出たが、
「話をすり替えるな」
難攻不落の要塞は微動だにしなかった。
「俺が言っているのは、個人の生き方は個々人が決めるということだ。それを奪うことの善悪の話などしていない」
そして力のない者が、力のある者によって大切なものを奪われることなど、今に始まったことではない。
「家族、恋人、友人を、唐突に、理不尽に奪われる。それは病気でも事故でも戦争でも起こる。これは、その1つの形に過ぎない」
「開き直りも、そこまで行くと褒めるしかないな」
真境は苦い顔で皮肉った。
「言ったはずだ。それが嫌なら強くなるしかないと」
「言われなくてもわかっている」
今度こそ、モナを失わずに済むように。そして、この世界で誰も何も奪われなくても済むように。
「俺は強くなる!」
「ならば、これを持っていくがいい」
永遠長は手提げバッグから、赤い弓と銀の盾を取り出した。
「それは?」
「現時点で、おまえたちを自分の使い手と認めた魔具だ」
永遠長は盾を真境に、弓をモナに手渡した。
「性能は知らん。これから自分たちで確かめるがいい。それと……」
永遠長は手提げバッグから、今度は1冊の本を取り出した。
「これも持っていくがいい」
「今度はなんだ?」
「光の書という魔導書だ。女神の話では、この本に選ばれると人智を超えた力と不老不死が手に入るらしい」
「不老不死?」
真境とモナは顔を見合わせた。
「せっかくだが、断る」
真境はキッパリ言った。
「見たところ、その本は1冊しかないのだろう。ということは、どちらがその本の使い手に選ばれても、いずれは片方だけが年老いて死に別れることになる」
そんなのは、ごめんだった。
「誰も、おまえたちに使えとは言っていない」
「なに?」
「女神の話では、この本は、この世界の守り、この世界のことを何より最優先に考える人間しか選ばないらしい。その意味で、お互いを1番に考えているおまえたちは、不適格ということになる」
「…………」
「そして、それは俺も同じことだ」
女神は以前、この魔導書は永遠長を使い手に選ぶかどうか見定め中と言っていた。しかし魔導書の意思以前に、この世界に縛られ続ける気など、元から永遠長にはないのだった。
「だから、俺が持っていたところで宝の持ち腐れでしかない。ならば、おまえたちが持っていたほうが、この本が使い手を見つける確率も、それだけ上がることになる。そして、もし見つけ出すことができれば、その人物はモスを守ろうと考えているおまえたちにとっても、大きな助けとなるだろう」
「なるほど。確かに世界の守り手は、多いに越したことはないからな」
真境は永遠長から魔術書を受け取った。
「そういうことだ。だから、もしおまえたちに急ぎの用がないのであれば、残る魔導書も探し出し、その使い手と引き合わせるがいい」
「わかった。どうせ動くなら、俺たちも何か明確な目的があったほうが張り合いが出るからな」
「それと……」
永遠長は異世界ナビを取り出すと、画面から新たな異世界ナビを召喚した。
「これを渡しておく。使用法は、そいつから聞くがいい」
永遠長は、モナに新しい異世界ナビを手渡した。
「……それは、そこから出すのか? どこで製造してるんだ?」
真境はマジマジと永遠長のナビを観察した
「知らんし興味ない。が、おそらく創造主とやらが、どこぞで手下に作らせてるんだろう」
「創造主? さっきも、そんなことを言っていたが、一体?」
「創造主は創造主。この世界を創った者のことだ。後、異世界ギルドの運営になったことで、おまえのナビでも同じことだできるようになっているはずだ。確かめてみるがいい」
「俺のナビでも?」
真境は自分のナビを取り出した。
「そこのメニュー欄に、運営の項目が増えているはずだ」
「これか」
永遠長の言うとおり、確かにメニュー画面に運営サイトの文字が増えていた。
「そこを押して、次に異世界ナビの項目を押せば、今俺がやったように運営権限で異世界ナビを召喚することができるはずだ。誰に異世界ナビを渡すのか。その判断はモス方面の担当者である、おまえに一任する」
「わかった」
「では俺は行くが、最後に1つ教えておくことがある」
「なんだ?」
「おまえはすでに知っているだろうが、俺は他人の力を使うことができる」
「ああ、そのことは、この前嫌というほど理解した」
あれは、未だに思い出すのも忌々しい、まさに悪夢そのものだった。
「そして、その力は俺と連結している人間も、同様に使うことができるようになっている」
「なに!?」
真境が眉をひそめた。
「すると、何か? 貴様と連結していれば、俺にも貴様と同じことができるということか?」
「そういうことだ」
「そして不測の事態が生じたとき以外、俺は常におまえたちと連結しておく。つまり、よほどのことがない限り、おまえたちは俺と同じ力をいつでも使えるということだ」
「つまり「回帰」や「反射」「改変」も思いのままということか?」
「そういうことだ。この世界を守る上で、少しは役に立つだろうから覚えておくがいい」
「確かにあれば、何かと便利そうだ」
真境がうなずいた後、
「だが断る!」
カッと目を見開いた。
「誰が貴様の力など当てにするか! この世界は俺たちの手で、俺たちの力だけで守ってみせる!」
真境は、ムフーと鼻息を荒げた。
「ならば、やってみるがいい。できるものならな」
「言われるまでもない」
「話は以上だ。用があれば、また異世界ナビで連絡する」
永遠長はそう言い残すと、その場から姿を消した。
「……なんか、変わった人だったね」
永遠長が消えた後、モナが正直な感想を口にした。
「超! 変人だ!」
真境は言い捨てた。
「でも、どこかツカサに似てた」
モナの何気ない一言に、
「どこがだ!」
真境は語気を荒げる。
「俺は、あんな陰険でもなければ人でなしでもない!」
今まで見たこともないほど感情を顕にする真境を見て、
「……ツカサ、ちょっと変わったね」
モナは苦笑した。
「当然だ。人は日々進歩するものだ」
真境は胸を張った。モナと死に別れてから約1月。数々の試練を乗り越えてきたという自負が、真境にはあった。
「前より怒りっぽくなったっていうか、子供っぽくなった」
「な……」
真境の顔が苦虫を噛み潰したように歪む。
「お、俺のどこが子供っぽくなったというんだ!?」
真境がムキになって言い返す。
「ほら、そういうとこだよ」
モナが笑顔で切り返し、再び真境が仏頂面になる。
「まあいい。それより、まずは村に戻って、おまえのご両親に挨拶しないとな」
真境は気を取り直した。
「きっと、2人ともビックリするよ」
そのときの両親の顔を想像して、モナがニヤける。
「でも、その前に、これのこと教えてよ。なんなのさ、これ」
モナは異世界ナビをヒラヒラと振った。
「ああ、それはだな」
真境は、モナに異世界ナビについて説明した。
かけがえのない女性との、かけがえのない時間。
それは真境にとって何物にも代えがたい、まさに至宝の輝きだった。
そして、その輝きを取り戻してくれた人物に対して、真境は本心では感謝していた。
それこそ、言葉では言い尽くすことができないほどに。




