第90話
転移した先は、
「ここは……」
真境の見たところ、どこかの病室のようだった。カーテンで4つに区切られた室内には、4体の異形の怪物がうごめき、その傍には1人の少女が立っていた。
「お兄ちゃんたち、誰なの?」
真境たちを見て、少女は小首を傾げた。その容姿は、ピンクのトンガリ帽子にマント、そして右手にステッキと、まるで魔法少女そのものだった。突然現れた真境たちを不思議に思いこそすれ、瞬間移動で現れたこと自体には、さして驚いていない様子だった。
「こんな子供が、もう1人のモンスターメーカーだと?」
真境が見たところ、少女は幼稚園児か、せいぜい小学1年生といったところだった。
戸惑う真境をよそに、
「回帰」
永遠長は妖怪化した4人を元に戻すと、続けて呪文の詠唱に入った。そして、その詠唱の完成とともに、永遠長と真境、そして少女の姿は病室から河川敷へと移っていた。
「あれ?」
急に景色が変わったことの原因を察し、少女は永遠長を見た。
「今のは、お兄ちゃんたちの仕業なの?」
「そうだ」
「じゃあ、あのおじちゃんたちも、お兄ちゃんたちが元に戻したの?」
「そうだ」
「どうして、戻しちゃったの? せっかく楽楽が、妖怪さんにしてあげたのに」
楽楽と名乗った少女は、残念そうに言った。
「と、当然だろうが!」
真境は語気を荒げた。
「病人を襲って妖怪化するなど看過できるか!」
真境も他人のことを偉そうに言えた義理でなく、そのことは本人も重々承知している。しかし、たとえ他人から同じ穴のムジナと言われようと、真境自身は弱っている病人をモンスター化するほど腐ってはいないつもりだった。
「かんか?」
楽楽は小首を傾げた。
「ダ、ダメということだ!」
真境は言い直した。
「どうしてダメなの?」
「どうしてって、当たり前だろうが」
「どうして当たり前なの?」
「だから!」
苛立つ真境に、
「お兄ちゃん、どうして怒ってるの? あ、もしかして、お兄ちゃん、自分が妖怪さんにしてもらえないと思ったの? なら、大丈夫なの。楽楽、ちゃんと、お兄ちゃんたちも妖怪さんにしてあげるの」
楽楽は無邪気に微笑んだ。
「ふ、ふざけるな! 俺が、いつそんなことを言った!?」
真境は気色ばんだ。
「違うの?」
「違う!」
「じゃあ、どうして怒ってるの?」
「だーかーらー!」
真境は必死に怒りを抑えながら、
「それは、おまえが人を妖怪に変えようとしたからだろ!」
「どうして、妖怪さんにしたら怒るの?」
楽楽は、また小首を傾げた。
堂々巡りの様相を呈してきた問答に、
「あ、う、ぐ、ぎ、が、ぐ」
真境が悶絶する。
「ねえ、どうしてなの? 妖怪さんになれば、もう病気で苦しまなくて済むし、死ななくても済むの。なのに、どうしてダメなの?」
そう問いかけてくる楽楽に、
「な……」
真境は言葉を失った。
「楽楽ね。この世界に、もうすぐ妖怪さんがイッパイ現れるって聞いて、どうすれば、みんな仲良くできるか、一生懸命考えたの」
「…………」
「それでね。思いついたの。みんなで仲良くするには、この世界の人が、みーんな妖怪さんになればいいんだって」
「な!?」
真境は鼻白みつつ、
「そ、そんなわけあるか!」
なんとか、それだけ言い返した。
「違うの?」
「違う!」
「でも、ママが前に言ってたの。妖怪さんと人が仲良くできないのは、妖怪さんと人が違うからだって。だったら、みんな妖怪さんになれば、みんな同じになるから、ケンカしないで済むはずなの」
楽楽は屈託のない笑顔を見せた。
全人類が妖怪化すれば、封印されている魔物が復活しても、同じ化物同士なのだから争わなくて済む。
楽楽は本気でそう信じているようだった。
「そ、そんなわけ、ないだろうが」
「どうしてなの? どうして、そんなわけないの?」
純粋に問いかけてくる楽楽に、
「そ、それはだな」
再び真境は反論に窮した。
人類が争う理由には様々あるが、その1つである差別の根底にあるのは、人種の違い。なら、その違いをなくせば争いもなくなる。
その考えを否定できるだけの根拠を、真境は持ち合わせていなかったのだった。
「お兄ちゃんもなの? お兄ちゃんも、楽楽が間違ってると思うの?」
楽楽は永遠長にも尋ねた。すると、
「間違っている」
永遠長は迷わず即答した。
「どこが間違ってるの?」
「まず第一に、人が復活する魔物と同じになれば、争わなくて済むという前提が間違っている」
「どうしてなの? 人が妖怪さんと仲良くできないのは、人と妖怪さんが違うからなんだから、みんな同じになれば」
「簡単な話だ。人、たとえば日本人は皆、同じ姿をしているが、それでも日本人同士で争っているからだ。それと同じことが妖怪同士では起こらないと、どうして言い切れる」
「でも、ママはずっと言ってたの。楽楽は、みんなと仲良くできない。会ってもいけない。家でジッとしてなくちゃいけない。だって、楽楽は化け物だからって」
「…………」
「だから楽楽、ずっと思ってたの。みんなと同じになりたいって。でもママが、そんなことは無理だって。化物は、どんなことをしても化物なんだからって」
楽楽は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻った。
「だから楽楽、みんなを妖怪さんにすることにしたの。そうしたら、みんな楽楽と同じになるから、仲良くできるの。でね、そう言ったら、ママも褒めてくれたの。いい子ね。がんばりなさいって」
楽楽は嬉しそうに言った。すると、
「ええ、その通りよ、楽楽」
突然、楽楽の隣に1人の女性が瞬間移動してきた。年の頃は40代半ばで、顔立ちは楽楽に似ていた。
「ママ!」
楽楽はそう言うと、現れた女性に抱きついた。
「ママ?」
瞬間移動で出現した女に、真境の警戒心が高まる。
「あのね、ママ。楽楽、病気で苦しいって言ってる人たちを、妖怪さんにして助けてあげようとしたの。なのに、このお兄ちゃんたちが邪魔したの」
「ええ、わかってるわ、楽楽」
母親は楽楽の頭を撫でた。
「せっかく、楽楽が、みんなと仲良くするために頑張ってるのに、本当、悪いお兄ちゃんたちだこと」
母親は当てつけがましく言うと、真境たちを一瞥した。
「だから楽楽の力で、うんとお仕置きしてあげてちょうだい」
「わかったの、ママ」
楽楽は元気よくうなずくと、
「ラン、ラン、ララーン」
回転しながらステッキを振った。すると、楽楽の周りに次々と人が転移してきた。
「あれ!?」
「え!?」
「どこ?」
突然、強制転移された人々の口から戸惑いの声が漏れる。だが、楽楽はお構いなしに再びステッキを振ると、
「ラン、ラン、ララーン。みんな、妖怪さんになるのー」
強制転移させた人々を、鬼、一ツ目入道、火車、ガシャドクロへと変化させていく。そして、
「みんな、悪いお兄ちゃんたちを、メッ! してあげてなの」
楽楽の命令を受けて、妖怪化した人々が永遠長と真境に襲いかかる。それに対して、
「ちい」
真境はフォルムチェンジで応戦する。
その一方で、永遠長は守り一辺倒。「反射」で作り出した結界のなかに閉じこもっているだけで、一向に参戦する気配はなかった。そんな、見るからにやる気のない永遠長に、
「貴様も少しは戦え!」
真境の罵倒が飛ぶ。
「もう1人のモンスターメーカーを止めると息巻いていたのは、おまえだろう。だったら、それぐらい1人でなんとかしろ」
「簡単に言うな! 相手は妖怪じゃなく、人間なんだぞ!」
殺さずに無力化させることは、ある意味殺すよりも難しいのだった。
「ならば、なおさら、おまえの見せ場だろう。全員をおまえの支配下に置けば、それで片が付くのだからな」
「そ、そうか!」
永遠長のアドバイスを受けて、真境が「境界」を展開する。そして全妖怪が境界内に入ったところで、
「止まれ!」
魔物使いの力を発動させる。しかし、
「なに!?」
妖怪化した人間たちは止まらかった。
「ど、どういうことだ!?」
「おまえより、あの子の力のほうが強いということだろう。あんな子供にまで力負けするとは、それでよくモスを守るとか、ほざいたものだと感心する」
「くっ!」
この男、絶対いつか殺す!
真境はそう思いつつ、
「ちょっと油断しただけだ! 見てろ!」
河童に触れると、直接「魔物使い」の力を注ぎ込んだ。すると、河童の動きが止まった。
「見ろ! 止まったろうが!」
真境は永遠長にドヤ顔を向けた。
「たかが1匹止めたぐらいで、何を喜んでいる。油断していただけだと言うならば、さっさと全部片付けろ」
コンチクショウが……。
真境は永遠長の勝手さに憤慨しつつも、1人黙々と妖怪たちを倒していく。
「そんなことを言って、本当は戦えないのではなくて?」
結界内に引きこもっている永遠長を見て、楽楽の母親が挑発する。
「なにしろ、ここには、あなたがいつも頼みにしている魔剣もなければ銃もない。だからと言って、召喚獣を呼び出せば人目につきかねない。今のご時世、誰がどこで動画を撮影しているか、知れたものではないのだから」
楽楽の母親は微笑した。
「この世界で目立ちたくないあなたとしては、極力戦いは避けたい。それが本音ではなくて? でも戦いが長引けば長引くほど、むしろ、そのリスクは高まるのではないかしら?」
そう楽楽の母親に指摘された永遠長は、
「……回帰」
全妖怪に向けて「回帰」を発動。全妖怪を人間に戻すと同時に、元の場所へと送り返した。
「さすがは「背徳のボッチート」と言ったところかしら」
楽楽の母親は拍手した後、
「でも、それで勝ち誇るのは早計というものよ」
楽楽の母親は娘を見た。
「楽楽、ママに、あなたの本当の力を見せてちょうだい」
母親にそう言われた楽楽は、
「はーい、ママ」
ステッキを振り上げると、
「雷なのー」
ステッキの先から百近い雷を乱れ撃った。
「うお!?」
真鏡は全身をゴーレム化することでなんとか凌いだが、生身で食らっていれば死んでいるところだった。
一方、永遠長はというと、やはり結界の中で悠々としていた。
く……。
怒りを押し殺しながら、真鏡は楽楽に向き直った。
「じゃあ、次は炎なのー」
楽楽はステッキを真鏡に向けた。すると、ステッキの先から今度は炎が渦を巻いて飛び出してきた。
「うおおおおおお!?」
真鏡は炎から逃げ回りながら、
「フォルムチェンジ!」
右手を霜の巨人に変化させると、
「アブソリュート・ゼロ!」
炎を凍りつかせた。
「お兄ちゃん、凄いのー」
楽楽は素直に感心すると、
「楽楽もするのー」
ステッキの先から今度は無数の氷柱を撃ち出した。
「ア、アブソリュート・ゼロ!」
真鏡は霜の巨人の力で氷壁を作り、なんとか氷柱を凌いだが、どの攻撃も一歩間違えれば致命傷となる攻撃ばかりだった。
「あらあら、このままでは埒が明かないわねえ」
楽楽の母親はそう言うと、
「楽楽、ママも少しだけ協力してあげる」
日本の伝説にある牛頭と馬頭を召喚した。
「さあ、楽楽、ままにあなたの本当の力を見せてちょうだい」
母親にそう言われた楽楽は、
「はーい、ママ」
牛頭と馬頭を体内に取り込んでいった。
「な……」
その異様な光景に真境は鼻白み、
「2体の妖怪を、自分に憑依させたのか」
永遠長は冷静に分析していた。
「残念。惜しいけど、少し違うわ」
楽楽の母親は唇の片端を曲げた。
「それは、その子の力よ。その子のクオリティは「同化」なの。その子はその力で、その妖怪たちと1つになったのよ」
「同化だと?」
真境が気色ばむ。
「そう。ボッチート君はすでにご存知でしょうけど、クオリティっていうのはね。本人が、心に強く思っていることが具現化したものなの。その子は、ずっとみんなと仲良くしたかった。そして、そのために、みんなと同じになりたいと思い続けていたのよ。結果、その子のクオリティは「同化」になったというわけ。でも、その力で化け物と化したんじゃ、本末転倒もいいところだけれど」
楽楽の母親は微笑した。
「……貴様、それでも母親か」
真境は怒りを剥き出すが、
「まあ、怖い。だとしたら、どうするというのかしら?」
楽楽の母親は涼しい顔で受け流す。そして、
「楽楽、助けて。このお兄ちゃんたちが、ママのことをイジメるの」
これみよがしに、楽楽に呼びかける。その声に応じて、
「うん。ママを…イジ…悪い……ちゃん…助け」
楽楽が真境へと襲いかかる。その速度は、人間の身体能力をはるかに超えていた。そして妖怪化した楽楽の右手が、
「ぐう!」
真境の胸を貫く。が、真鏡はスライム化することでダメージを回避した。
あの母親は許せない。だが、あの母親を攻撃するためには、あの子を倒さなければならない。
どうすれば……。
真境は永遠長を一瞥した後、あわてて首を振った。
窮地になると「背徳のボッチートなら、なんとかする」という思考に陥っている自分に気づいたのだった。
この俺、いや私としたことが……。
真境は深呼吸すると、右手の中指で眼鏡をかけ直した。
「私は、この世界の「救済者」にして「モンスターメーカー」にして「必要悪」! この世界を守るためには手段を選ばず、この手を血で汚す覚悟など、とうにできている!」
はずだったのだが、その後色々とありすぎて、その「設定」を今の今まで、すっかり忘れてしまっていたのだった。
「たとえ、それが幼気な少女であろうとも、我が「必要悪」を阻むならば容赦はせん!」
原点に立ち返った真境が反撃に転じようとしたとき、
「マ、ママ…イジメる…こらし…ああああ!」
楽楽が頭を押さえて苦しみだした。どうやら同化した2体の妖怪の力が大きすぎて、体がオーバーヒートしてしまったようだった。
「あらあら、これぐらいは耐えられると思ったのだけれど。2体の妖怪を取り込むのは、さすがに無理があったかしら」
楽楽の母親は微笑した。
「わかっていてやらせたんだろう」
永遠長が冷静に切り返す。
「私は親心から、あの子をパワーアップさせてあげようとしただけ。耐えられなかったのは、あの子自身が弱かったからに過ぎないわ」
楽楽の母親は冷ややかに言った。
「私に文句を言っている暇があったら、あっちをなんとかするほうが先でなくて?」
「文句など言っていない。事実を言ったまでの話だ」
「あっそ。で、それはそれとして、あっちはどうするのかしら?」
楽楽の母親は、苦しむ娘を指さした。
その楽楽の体内では、今も妖怪の力が暴走を続けていた。
「早く助けないと、本当に死んでしまうわよ」
「誰が、そんなことを言った?」
「あら、でもあなた、その子に今死なれると困るのではなくて?」
楽楽の母親は微笑した。
「なにしろ、あなたが、もう1人のモンスターメーカーを探してたのって、ヤクザ殺しの犯人に仕立て上げるためなんでしょう?」
「なに? どういうことだ?」
真境は永遠長を見た。
「簡単に言うと、彼、ヤクザを1人、内部抗争に見せかけて殺したんだけど、そのことを不審に思った兄貴分が、義理の娘である彼の彼女の周りを嗅ぎ回りだしたの。で、それを目障りに思った彼は、その兄貴分を組事務所もろとも始末することにしたのよ。モンスターメーカーの仕業に見せかけてね」
「本当か、貴様?」
真境は永遠長を見た。
「知らんな」
永遠長は、すっとぼけた。
「そんなことは、その女が言っているに過ぎない。俺が、そのヤクザの殺人計画を企てていると言うのであれば、その証拠を出してから言え」
「証拠と言うなら、今この場にあなたがいることが、その証拠ではなくて? いずれ異世界に旅立とうとしているあなたにとって、この世界がどうなろうと知ったことではないはずでしょう? なのに、あなたはもう1人のモンスターメーカーを捕まえるために動いた。それ自体が私の話を真実とする、何よりの証拠ではなくて?」
「そんなことは状況証拠でしかない。俺が言っているのは、俺が殺人を計画しているという明確な物証だ」
永遠長は動じることなく切り返した。
「確かに、それはないわね。それに、ここに来たのも「突然、人類愛に目覚めたから」と言われたら、それまでだし。ホント、食えない坊やだこと」
楽楽の母親は肩をすくめた。
「まあ、それはそれとして」
楽楽の母親は、娘を指さした。
「ソレなんとかしないと、そろそろ本当にマズそうなのだけれど?」
楽楽の母親の言う通り、今や楽楽の体は肥大化し、今にも爆発しそうだった。
「おまえに指図される筋合いはない」
そう言いながらも、永遠長は楽楽に歩み寄ると、
「回帰」
楽楽の体から2体の妖怪を分離した後、
「リフレクトソード」
反射板で形成した剣によって瞬殺した。そして「回帰」を受けた楽楽は、
「はーい、ママ」
牛頭と馬頭の代わりに永遠長を取り込みにかかったが、
「リフレクトバリア」
永遠長は楽楽を「反射」の結界内に閉じ込められてしまった。
「あらあら、そうなっては、もうその子もおしまいね」
楽楽の母親は、あっけらかんと言った。
「もう少し、いい勝負になるかと思ったけれど、やっぱり子供じゃダメみたいね。やっぱり魔法少女にするなら、最低でも中学生以上にしないと。本番前の、良い教訓になったわ」
楽楽の母親は満足げに言うと、
「あ、そうそう、その子、あなたに進呈するわ。もういらないから、煮るなり焼くなり好きにしてちょうだい」
娘を見て、
「じゃ、そういうことだから、あなたとも、ここでお別れよ、楽楽ちゃん」
笑顔で手を振った。
「ママ?」
状況が飲み込めず、ほうけている楽楽に、
「もうママじゃないわ。ていうか、あなたのママは、もう死んじゃったでしょ。あなたが化け物にしたせいで」
楽楽の母親を名乗っていた女は、無慈悲な事実を突きつけた。
「え?」
「あ、そっか。突然思い出されても面倒だから、あのときの記憶は封印しちゃってたんだったわ。いいわ。思い出させてあげる」
女は、楽楽の眼前に瞬間移動すると「反射」でできた結界を突き破った。そして楽楽の額に人差し指を当てると、封じていた記憶を蘇らせた。
魔法少女になった自分が、母親と仲良くなりたくて、眠っている母親を妖怪にしたこと。
だが自分の姿を見た母親は、喜ぶどころが半狂乱になって部屋から飛び出したこと。
そしてマンションの階段で転落し、そのまま動かなくなってしまったことを。
「え? でも、ママは、ここ、にいて」
楽楽は、焦点の定まらない目で母親を見つめた。すると、
「ああ、そうそう、もうこの姿でいる必要もないのよね」
女の髪が黒から白銀へと変化し、目も黒から銀色に、四十代半ばだった容姿も二十代前半へと若返っていった。
「これでわかったでしょう。あなたのママは、もうどこにもいないってことが」
壮麗の美女へと変化した女はそう言うと、
「ママ?」
楽楽が伸ばしてきた手を振り払った。
「もっとも生きていたときから、あなたのことなんて、お荷物としか思っていなかったようだけれど」
女は、楽楽の頭に生えている小さな角に触れた。
「まあ、それも当然よね。あなたに化物じみた力があると知ったとたん、父親はさっさと逃げちゃうし、残された母親は女手一つで、あなたみたいな化物を育てなくてはならなくなってしまったのだもの。いつ自分が襲われるかわからないという恐怖。もし娘の正体がバレたら、自分までが化物扱いされてしまうという強迫観念と戦いながら。なのに周りからは理解されず、反対に児童虐待を疑われる始末。これで、あなたのことを邪魔だと考えないほうがおかしいわ」
「ママ?」
「いい加減、理解しなさいな。あなたが、いらない人間だってことを」
「いい加減にするのは貴様だ!」
我慢の限界を超えた真境は、ゴーレムハンドで女に殴りかかった。しかしゴーレムハンドが当たる前に、女は再び転移してしまった。
「嫌ねえ。レディーを殴りかかるなんて。男として最低だわ」
「俺が最低の男なら、貴様は最低の人間だ。クソ女」
真境は女を睨みつけた。
「本当、粗野で下品なこと。あ、でも、そういえば、まだ名乗ってなかったわね。名前がわからないのは、それはそれでミステリアスで面白いのだけれども、今日は気分がいいから特別に教えてあげる」
女は物腰柔らかに宣うと、
「私の名は風花。また会いましょう。背徳のボッチート君」
永遠長たちの前から姿を消したのだった。




