第205話
文化祭も終わり、生徒会活動も平常運転に戻った11月末。
久世は休日を利用して、常盤学園に来ていた。
常盤学園は全国でも有数の私立学校で、本来久世のような庶民には一生縁のない、別世界の存在のはずだった。
そんな名門校を、久世が訪れることになったのは、学園の理事長に招待されたからだった。
使いとして訪ねて来た静火という女性の話だと、理事長である常盤という人が学園裁判所に興味を持っていて、発案者である久世の話を聞きたいのだという。
正直なところ、名ばかり発案者である久世としては複雑な心境だったが、せっかく興味を持ってくれている人の誘いを断ることもないので、招きに応じることにしたのだった。
「では、こちらへ」
送迎車で常盤学園に着くと、静火は久世を理事長室へと案内した。
「失礼します。旦那様、久世来世君をお連れいたしました」
静火が理事長室のドアをノックすると、
「入りたまえ」
常盤の声がドアの向こうから返ってきた。
「失礼します」
静火がドアを開け、久世が理事長室に入る。そのとたん、久世の目に飛び込んできたのは、部屋中にビッシリと貼られたアニメのポスターだった。
それ以外にも、棚にはフィギュアが所狭しと並べられ、書棚には漫画やラノベが、これもビッシリと並んでいた。
「驚いたようだね」
常盤は久世を見て苦笑した。
「まあ、無理もない。なにしろ、名門校と呼ばれる理事長の部屋が、漫画やアニメのグッズで埋め尽くされているのだからね」
「あ、いえ、僕は別に……」
「だがね!」
常盤は椅子から立ち上がると、
「私は、この趣味に誇りを持っているのだよ!」
久世に詰め寄った。
「皆、アニメや漫画といえば、子供が見るものだと軽視しがちだが、見たまえ! 昨今のドラマや映画を! 漫画を原作としているものが乱立しているではないか!」
常盤は、拳を握りしめた。
「これは、どういうことか? すなわち、ひと昔前の製作者には、漫画を大人が見るに値するものにまで、昇華させる才覚がなかったに過ぎないということなのだよ!」
この語りは、かつて十六夜が初めて常盤の部屋を訪れたときと同じものだった。時と場合によるが、常盤は初対面の人間には、この話をしなければ気が済まないのだった。
そして常盤のオタク話が一人称に差し掛かったところで、
ビリ!
久世の背後で、紙が破ける音がした。直後、
「ぎゃああああ!」
常盤の口から悲痛な叫びが上がり、
「え?」
久世が振り返ると、
「申し訳ありません、旦那様」
静火が破れたアニメのポスターを手にしていた。
「ポスターにゴミがついていたので、取ろうとしたら破れてしまいました」
静火は淡々と謝罪した。その言葉が真実かどうか久世にはわからなかったが、少なくとも静火の顔に悪びれた様子は微塵もなかった。というか、初めて会ったときから、静火の表情にまったく変化がないことに、このとき久世は初めて気づいたのだった。まあ、燃えるような赤毛とメイド服姿のインパクトが強すぎて、細かいところまで気が回らなかったということもあるのだが。
「ですが、形あるものは、いつか必ず滅びるもの。今日、ここで破れることが、このポスターの運命だったのでしょう」
静火は破れたポスターを握り潰すように丸めると、ゴミ箱に入れた。
「そんなことよりも、そろそろ本題に入られてはいかがでしょうか? こちらから呼び出しておきながら、く、無関係のキ、オタク談義を長々と聞かされては、久世君もいい気はしないでしょう」
「そ、そうだったね。では、本題に入るとしよう。かけてくれたまえ、久世君。それと静火君は、お茶の用意を」
「かしこまりました、旦那様」
静火は一礼すると、理事長室を退室した。
「すまないね。趣味のことになると、年甲斐もなく興奮してしまってね」
「い、いえ、それだけ、お若いと言うことですし。それだけ熱中できる趣味があるのは、悪いことじゃありませんし」
久世が軽くフォローを入れた。実際、他人がどんな趣味を持っていようと、そんなことは本人の自由だった。
「いい子だね、君は」
常盤は涙ぐんだ。
「いかんね。歳を取ると、涙もろくなってしまって。この年になると、人の優しさが身にしみてね。私の周りにいる人間は、誰も私の趣味を理解してくれなくてね。私の趣味を全否定する静火君を始め、何かと言うと「死ね、キモオタ」を連発する元ニートとか、それはもう扱いが酷くてね。私の趣味を理解してくれるのなんて、九十九君やマリー君など、ほんの一握りの人間だけなのだよ」
「はあ、そうなんですか。大企業の社長さんも、いろいろ大変なんですね」
久世は率直な感想を口にした。
「そうなんだよ。特に静火君は何かと口実を作っては、私のコレクションを処分しようとしてね」
常盤はハンカチを目に当てた。
「火炎放射器で、私のコレクションを燃やすのなんて、日常茶飯事で」
そこで静火が戻ってきた。
「この前なんて、チャリティーの名目で、私のコレクションを子供たちに全部あげてしまったりとか、本当に酷いんだよ」
目にハンカチを当てたまま話す常盤は、静火が戻って来たことに気づいていない様子だった。
「そんな性格だから、七星君にドS女と呼ばれてるっていうのに」
話し込む常盤をよそに、静火は運んできた紅茶を常盤と久世の前に置いた。自分の存在を気付かれないためなのか。一切の物音を立てずに。
「まったく改善しようという気が見られないどころか、日毎に悪化する一方で……」
常盤の愚痴はその後も続いたが、静火の行動が気になって、久世はほとんど聞いていなかった。
常盤の愚痴を聞く静火の表情には、やはり変化はなかった。しかし、その全身から放出される怒気に気づかないほど、久世は鈍くなかったのだった。
そして満を持して、静火は飾り棚へと近づくと、スカートのなかに手を入れた。
え、なんで、スカートのなかに?
久世がそう思った直後、静火はスカートのなかから洗面器を取り出した。
なんで、そんなものがスカートのなかに?
困惑する久世をよそに、静火は、再びスカートのなかに手を入れると、今度は一升瓶を取り出した。そして一升瓶の中身を洗面器に注ぐと、棚に飾ってあったフィギュアを洗面器に放り込んだ。
その音で、ようやく常盤も静火の存在に気づいたらしく、
「し、静火君!」
常盤は青くなった後、
「……何してるの、君?」
いぶかしげに尋ねた。
「ここにある人形が汚れているようなので、お手入れをしているところです」
「お、お手入れ?」
「はい、硫酸に漬け込んで」
何食わぬ顔で静火が一端直後、
「ぎゃあああああ!」
常盤の口から再び悲痛な叫びが上がった。
「やめてええ! ボクのフィギュアが溶けちゃうううう!」
常盤は涙目で訴えた。
「ご安心ください、旦那様。プラスチックは硫酸では溶けませんので」
「そ、そうなのかね?」
「はい、多少、変形するかもしれませんが」
「多少、嫌あああああ!」
「それと、塗装も少々」
「やめてええ! お願いだから、やめてええ!」
静火に取りすがる常盤を見ながら、久世は思っていた。
もしかしたら、僕は軽い気持ちで、とんでもないところに来てしまったのかもしれないと。
そして静火の硫酸地獄から、なんとか人形たちを助け出した後、
「重ね重ね、すまないね、久世君。こちらから呼びつけておきながら、何度も見苦しいところを見せてしまって」
硫酸に漬けられていたフィギュアをなでながら、常盤は申し訳なさそうに言った。
「い、いえ、気にしてませんので」
実際、久世は気にしていなかった。というか、ツッコミ所が多すぎて、そんなことを気にしていられなかったのだった。
「ありがとう、久世君。君は本当にいい子だね」
常盤は涙ぐんだ。すると、静火の手が再びポスターに伸びた。
「で、では、本題に入ろう。実は、私もかねてより、君と同じようなプランを立てていたのだよ。各学校に「相談センター」を設け、そこで学校関係の苦情を一括して対処させるというものだったのだが、完璧を期する余りに、発表が先送りになっていたため、結果的に君の後塵を拝すことになってしまったのだがね」
「そ、そうだったんですか」
「そうなのだよ! 決して君の後追いをしたわけではないので、そこのところを、特に留意しておいてくれたまえ!」
常盤は真剣な眼差しで、身を乗り出して念押しした。
「は、はい。わかりました」
「ま、まあ、それはそれとしてだね」
常盤は、ひとつ咳払いをすると話を続けた。
「その後で、君の学園裁判所にかける熱演を聞き、私は実に感銘を受けた。それに、結果こそあんなことになってしまったが、君の学園裁判所構想そのものが間違っていたとは、私には思えなくてね。君もアレが廃止になると決まったときには、内心忸怩たる思いがあったのではないかね?」
「それは……」
なかったと言えば嘘になる。
「そこでだ。私は君の学園裁判所構想を、ぜひ我が校に取り入れたいと考えているのだよ」
「え?」
久世にとっては、思いも寄らないサプライズだった。
「ついては、その発案者である君の協力を仰ぎたいと思って、今日はお越し願った次第なのだよ」
「僕の協力ですか?」
「うむ。君の学校では閉鎖が決まったし、あの事件で公立校はどこも二の足を踏んでいる。国や教育委員会の風当たりも、気になるところでもあろうしね」
常盤の申し出は、久世にとっても願ってもない話だった。
「だが、私立である我が校には、そんな権威は関係ない。それに、あの事件が起きたのも当事者間のトラブルが原因であって、システムの問題ではなかったと私は考えている。いや、むしろ大人側が故意に学園裁判所を貶めにかかったがために起きた悲劇であるとさえ思っている。もし、あそこで彼らに正当なる裁きが下されていたならば、あのような結果にはならなかったであろうとね」
その通りだと、久世も内心では思っていた。しかし、
「君も、本当はそう思っているのではないかね? そして、できることならば、もう一度学園裁判所を、自分の手で復活させたいと思っている。亡くなった友人のためにも。違うかね?」
「はい、そう思っています」
それは、嘘偽りない久世の本音だったが……。
「でも、あの学園裁判所構想は、本当は僕の考えではなくて」
「それも、すでに承知しているよ。本当の発案者は、羽続翔という大学生なのだろう?」
「ど、どうして、それを?」
そのことは、久世と羽続しか知らないはずだった。
「我が常盤グループの情報収集能力を、侮ってもらっては困るね。その程度のこと、調べ上げることぐらい、たやすいことなのだよ」
「そ、そうですか。でも、だったらおわかりでしょう? もし本当に学園裁判所を、あなたの学園に導入したいなら、必要なのは僕ではなくて羽続さんだということを」
悔しいが、自分が羽続の足元にも及ばないことを、久世は誰よりもわかっていた。
「むろん、彼にも協力願おうと思っているよ」
「そ、そうなんですか?」
ならば、なおさら自分の出番などないはずだった。
「だがね、誰が発案したのであれ、それを実現まで漕ぎ着けたのは、紛れもなく君の力だ。君の行動力があったればこそ、学園裁判所は陽の目を見ることができたのだよ。そうではないかね?」
「…………」
「考えるだけなら誰にでもできる。大事なのは、誰が実行したかなのだよ。それこそ、かつて歴史に名を残した偉人たちと同じことを考えた者は、もしかしたら他に何人もいたかもしれない。だが歴史に名を残す偉人にはなり得なかった。それは、なぜか? 彼らは思うだけで、それを実行に移さなかったからだ。歴史に名を残すのは、いつの時代であろうとも、勇気を持って一歩を踏み出した者だけなのだよ。君や私のようにね」
それは、かつて永遠長が天国に言った言葉を流用、ではなく、本人曰くアレンジしたものだったが、久世が知る由もなかった。
「そして私は、君のその行動力を見込んで、協力を願い出ているのだよ。その力を、ぜひ我が学園のために役立ててほしい。この通りだ」
常盤は久世に頭を下げた。
「あ、頭を上げてください」
久世はあわてて言った。
「僕でよければ、喜んで協力させていただきます」
「ありがとう。君なら、そう言ってくれると思っていたよ」
常盤は安堵の笑みを浮かべた。
「ただ、そのためには、君に我が学園に編入してもらわねばならないのだが……」
常盤の困り顔を見て、久世が真っ先に思ったのは学費のことだった。 確かに、久世の家は胸を張れるほど裕福ではなく、有名私立校の授業料を払えるか微妙なところではあったが。
「学費のことなら問題ない。頼んで来てもらうのだ。当然、全額免除だ。大学を出るまでね」
常盤はそう言って、久世の懸念材料を取り除いたところで、本題に入った。
それは、今常盤学園にいる学生たちは、皆なんらかに特殊能力を持った人間ばかりということだった。
結界の弱体化は人間にも影響を与え、結果として今世界各地で超能力者や獣人の力が目覚めている。そして常盤学園は、それらの子供たちを学生として受け入れているのだと。
そのため、たとえ学園裁判所を設置したとしても、うまく機能するか不透明だし、普通の環境下で運用するよりも何倍も苦労する可能性がある。
「それでも引き受けてくれるかね?」
そう尋ねる常盤に、
「はい!」
久世は迷わず答えた。
「ありがとう。設置にあたり、何か入り用な物があれば、なんでも言ってくれたまえ」
常盤の申し出に、
「でしたら、ひとつだけお願いがあるのですが」
久世は甘えることにした。
「なんだね? なんでも言ってくれたまえ」
「もう1人、この学園に転入させて欲しいんです。もっとも、本人が望めば、の話ですけど」
「なんだ。そんなことか」
常盤は快諾した。
「こんな大事業、君も1人では心細いだろうからね。1人と言わず、必要なら何人でも呼ぶといい。むろん、その子たちの学費も全額免除させてもらうよ」
「あ、ありがとうございます」
久世は自宅に戻ると、さっそく朝比奈に相談した。そして、この誘いを朝比奈も快諾し、久世たちは新学期から常盤学園に転入することになったのだった。




