第194話
葬儀の翌日、美和家に1本の電話が入った。
相手は、祭おばさんが雇った宇津木という弁護士だったが、その用件は少なからず僕たちを驚かせた。係争中の加害者家族が、イジメの事実を認めて和解を持ちかけてきたというのだ。
話を聞いた神姉は1日考えた末、その和解案を受け入れた。
17歳の神姉には、長期間に渡る裁判に関わり続けることにはリスクが伴うし、その間に支払わなければならない弁護士費用も多額になる。
イジメ裁判は長いものだと4、5年続く場合もあるうえ、それで受け取れる損害賠償金も、下手をすると数百万円という場合も少なくない。しかも敗訴すれば、それこそ何も得られない。
元々、金のために裁判を起こしたわけではなかった以上、ここで相手の謝罪を受け入れたほうが得策と判断したのだった。
弁護士には「裁判に関しては自分に一任してくれれば大丈夫。絶対勝てる裁判だから」と継続を勧められたが、神姉の決心は変わらなかった。
そして6月半ば、原告である神姉と、被告である加害者家族の間で正式に和解が決定した。
僕たちは、そのことを2人の墓前に報告し、これで祝兄も祭おばさんも浮かばれる。
そう思い、改めて2人の冥福を祈った。
しかし1月経ち、2月に入っても、神姉の口座には加害家族からの賠償金は1円も振り込まれなかった。
不審に思った僕たちは、加害者の家に電話をかけた。すると、どこの家からも、
「今月は家計が苦しい。来月から支払う」
という答えが返ってきた。
そこで神姉は1月だけ待つことにした。だが、さらに1月待っても、やはり誰からも賠償金が支払われることはなかったのだった。
そこで僕たちは、今度は直接、加害者の家に乗り込むことにした。
まず僕たちは、今回の事件で主犯とされた香山の家を訪ねた。そして応対した母親に、改めて賠償金未払いの件について問い質した。
「ごめんなさいね。もう少し待ってもらえないかしら。うちとしても払いたいのは山々なんだけど、やっぱり払えないものは払えないのよ」
豪邸とは言えないものの、一戸建て住宅に住んでいる母親は申し訳なさそうに答えた。
「あなたも、今お金が早急に必要ってわけじゃないんでしょ。こう言ってはなんだけれど、お母様と弟さんが続けて亡くなったんだから、結構な額の保険金も手に入ったんでしょうし。だったら数百万程度の賠償金に、何もそんなに目くじらをたてる必要はないんじゃないかしら?」
香山の母親は薄ら笑った。
僕は一瞬、耳を疑った。
「な……」
僕は爆発しかけた怒りを、かろうじて押さえ込んだ。
「何を言ってるんですか、あなたは?」
神姉が毅然と言い返した。
「賠償金は、あなたたちが犯した罪に対する償いとして、支払うことを約束したものです。いわば、あなたたちが自殺に追い込んだ祝詞への贖罪を形にしたものなんです。わたしが金を持っているから支払わなくていいとか、そういうものではないはずです」
神姉の言う通りだ。自分の子供が人1人を死に追いやったことに、なんの罪悪感も感じていないのか? この人は?
「だから、支払わないとは言ってないでしょ。もう少しだけ待ってって言ってるのよ」
香山母は憮然と答えた。
「でもね、保険金が入ったのは事実なんでしょ? だったら、それで十分だと思えないのかしら? イジメだなんだと、うちの子を散々悪者に仕立て上げたうえ、裁判まで起こして他人様からお金を巻き上げようなんて強欲にも程があるわよ、実際」
香山母は邪悪な本性を現した。
「まあ、子供は親の鏡って言うから、仕方ないのかしらね。自分の教育のいたらなさを棚に上げて、他人の子供に言いがかりをつけて、他人様からお金をかすめ盗ろうとする女の子供なんだから」
「なんだと!」
僕は椅子から立ち上がった。黙って聞いていれば、好き放題言いやがって。
だが激昂した僕の手を、神姉が掴み止めた。
「お話はわかりました。しかし、あなたがなんと言おうと、賠償金は裁判で支払うことが決められたお金です。それを支払わないというのであれば、こちらとしても、それ相応の対処を取らせてもらうだけです」
そうだ。裁判所に訴えれば、財産や給料の差し押さえだってできる。今の時代、子供にだってそれぐらい調べればわかるんだよ。
「あ、そう。好きになさいな。なんと言われようと、払えないものは払えないんだから」
香山母は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「では、これで失礼します」
神姉も立ち上がり、僕たちは玄関に向かった。
「ほんと、親が親なら子も子ね。こんな社会不適応者の引きこもりしか育てられないような人間だから、罰が当たって早死にしたのよ。ほんと、いい気味だわ」
玄関での別れ際、香山母はそう捨てゼリフを吐いた。
僕たちは不快感を押し殺して、次の加害者宅に向かった。しかし、その加害者宅での対応も香山家と同じだった。それどころか回った5軒すべてで、香山家と同じ反応が返ってきた。
どこの家の者も払えないの一点張りで、最後には逆ギレして自分たちを正当化してきたのだった。
事ここに至って、僕たちはようやく気づいた。連中には、最初から賠償金を支払うつもりなどなかったということに。
僕は、連中が和解を持ちかけてきたのは、祝兄だけじゃなく母親まで過労死に追い込んでしまったことへの罪悪感からだと思っていた。
だが、事実は違った。
連中が和解を持ちかけてきたのは、大人である母親がいなくなったことで、子供の神姉だけなら、どうとでもあしらうことができる。そうタカをくくってのことだったのだ。
つまり連中には、本当の意味で祝兄の死に対する反省も、謝罪の意志もなかったのだ。
「くそ」
できれば、連中を1人残らずブチのめしてやりたかった。
だが、当時の僕にそんな力はなかったし、仮にあっても手を出せば奴らの思う壺になってしまう。
もし僕が手を出せば、奴らは被害者面をして賠償金の反故どころか、それ以上の賠償金を請求してきたに違いなかったからだ。
当時の神姉も、そう考えた。そして正規の手続きを踏み、連中にきっちりと賠償金を支払わせるために、改めて弁護士に連絡を取った。しかし和解金の強制徴収手続きを求める神姉に、弁護士から返ってきた答えは予想外のものだった。
「無理? 無理って、どういうことですか?」
「言葉通りの意味ですよ。今回の案件で、あなたの言う強制徴収を行なうことは不可能なのですよ」
横から漏れ聞こえる弁護士の声は、冷淡で機械的なものだった。
「どうしてですか? 裁判で決定した和解金が支払われない場合、裁判所に訴えれば強制徴収できるはずでしょう?」
「確かに、裁判上の和解の場合はそうです。しかし、今回あなたがたの間で交わされた和解は、裁判上の和解ではなく、あくまでも民法上の和解、わかりやすく言うと示談だったんです」
「示談?」
「そうです。これは裁判上の和解とは異なり、当事者同士の間で行なわれる私的な取り引きであり、たとえそこでいかなる取り決めがなされようと、そこには法的拘束力はないんですよ」
「どうして、そんな大事なことを前もって言ってくれなかったんですか? そうすれば」
「何を言ってるんです。わたしは何度も忠告したはずですよ。この和解はするべきではないと。そのわたしの意見を聞かず、和解を強行したのはあなたでしょう、美和神楽さん」
僕は神姉から受話器を取り上げた。
「ふざけんな! そんな内容だって知ってたら、神姉だって和解になんか応じなかったんだよ! こんなことになったのは、まともな説明をしなかったあんたの責任だろ!」
「誰だ、君は? いきなり大声で。それに、説明責任を果たさなかったと言うのも言いがかりだ。わたしは何度も説明したはずだよ」
「嘘だ!」
この弁護士が和解について神姉に話す間、僕もずっと側にいた。だが、この弁護士からそんな説明は1度もなかった。
「本当に失礼だな、君は。そこまで言うなら、証拠を見せてもらおうか」
「しょ、証拠?」
「そうだ。わたしが和解に関して、依頼人に正確な説明をしなかったという証拠だ。わたしを嘘つき呼ばわりするからには、あるんだろう? 裁判に持ち込んでも勝てるという、確実な証拠が?」
「け、契約書が残ってるよ!」
「あれは、あくまで示談契約書に過ぎない。わたしが言っているのは、わたしが依頼人に嘘をついたことを証明する証拠のことだ」
「そ、それは……」
「ないんだろう? あるはずもない。なにしろ、わたしはちゃんと説明したのだから。わかったら、彼女と替わってもらえるかな、坊や」
この!
僕は怒りを抑え、神姉に受話器を返した。
「もっとも、その示談書がまったく役立たずと言うわけでもありません。その示談書により、被告人は自分たちの非を認めた形となっておりますので、改めて裁判を起こせば、今度こそ確実に勝訴できるんです。どうですか、美和さん。もう1度、裁判を起こしては? すべてわたしに任せてくだされば、今度こそ、確実に勝」
僕は神姉から受話器を奪うと、問答無用で電話を切った。
後で調べたところ、この手の詐欺まがいの弁護士は、宇津木だけではないことがわかった。
悪徳弁護士でネット検索してみると、耳を疑うような弁護士の悪行が、いくつも書き込まれていた。そして、それらを読んだ僕は、あの弁護士の不可解とも言える言動の理由をようやく理解した。
要するに、あの宇津木という弁護士にとって、美和家は金ヅルだったのだ。
最初、僕はあの弁護士をいい人だと思っていた。なぜなら祝兄が死んだとき、あの弁護士が真っ先に祭おばさんのところに駆けつけ、裁判でイジメ加害者を断罪することを勧めたからだ。
その行動を、僕は正義からの行動だと信じて疑わなかった。
だが、真実は違った。あの弁護士が熱心に裁判を勧めたのは、イジメ裁判が金になるから。ただ、それだけのことだったのだ。
イジメ裁判は長いものだと、10年以上に及ぶことになる。そして、それは裏を返せば、その裁判が開かれている間、弁護士は定期収入が見込めるということなのだ。
そこで、イジメ裁判を受け持った弁護士のなかには、明白にイジメの事実が認められているにもかかわらず、あえてイジメの存在を認めない者もいるらしかった。
そうすることで相手親の憎悪を煽り、和解に持ち込ませないようにしているのだ。裁判が長引かなければ、弁護士が受け取るのは手付け金のみとなり儲からないから。
おそらく、宇津木も同じことを考えていたのだろう。あえて和解には持ち込ませず、わざと裁判を長引かせることで弁護費用を巻き上げ、あわよくば勝訴慰謝料の分け前を狙っていたのだ。
子供である神姉なら、口先三寸でどうにでもごまかせる、いいカモだと思ったのだろう。
だが宇津木の思惑は外れ、神姉は和解に応じてしまった。
そこで宇津木は、裁判上の和解ではなく、あえて強制力のない民法上の和解契約を取り交わしたのだ。そうすれば和解金を徴収できない神姉が、また依頼してくると踏んで。
いや、もしかしたら和解を強制力のない示談に留めることで、被告人から賄賂を受け取った可能性すらある。
今思えば、会いに行ったときの、あの被告家族たちには不敵と言えるほどの余裕があった。あれは、裏で宇津木と結託していたからだとすれば納得がいく。
せめて、うちの親がもう少し積極的に関わっていれば、結果は変わったかもしれない。だが2人とも仕事で休日すらまともに取れない状態が続いていたうえ、神姉の遠慮もあって、ほぼノ-タッチだったのだ。
せめてもの救いは、あの弁護士の言う通り、和解書が存在するということだった。これさえあれば、もう1度裁判を起こせば必ず勝訴できる。もちろん、その場合の弁護は、宇津木以外に頼むのは言うまでもなかった。
そして、僕は神姉も同意見だと思っていた。でも、
「もう裁判にはしないわ」
それが神姉の結論だった。
「ど、どうしてだよ? あの弁護士じゃないけど、今度やれば絶対勝てるんだよ? それなのに」
「もう1度裁判なんてしたら、またお金がかかるからよ。母さんと祝詞の残してくれたお金を、これ以上そんなつまらないことに使いたくないの」
「そ、それはそうだけど……」
「それに、母さんがあの裁判を起こした理由は、祝詞の死に関する事実の究明と、祝詞を死に追いやった加害者たちの断罪と謝罪だったんだから、これ以上裁判を続けることに意味なんてないのよ」
「そ、それはそうだけど……」
それ以上、僕に言えることはなかった。
神姉の言う通り、もともと祭おばさんが裁判を起こしたのは、あくまでも事実の究明にあった。そして、あの和解によって加害者連中が自分たちの加害責任を認めた以上、もう1度裁判を起こしたところで、時間と金の無駄でしかない。また、あんな悪徳弁護士に引っかからないとも限らないし。
僕は納得し、祝兄の自殺を発端とする1連の事件は終結を迎えた。
そして、僕たちは日常に戻った。失ったものは大きく、すべてが昔と同じというわけにはいかなかったが、それでも僕たちにできることは2人の死を乗り越え、前に進むことだけだった。
そして、神姉も僕と同じ気持ちだと信じていた。
だが、そうじゃなかった。
そのことを、僕は半年後に知ることになったのだった。




