第107話
夕方、メイドとして改めて常盤家の敷居を跨いだ龍華は、用意された寝室へと案内された。しかし、そこは寝室とは名ばかりの、暗く薄汚い地下室だった。
「なんですの、ここは?」
鼻を突く異臭に、龍華はハンカチで口元を押さえた。
「こ、こ、このわたくしに、こんなところで寝起きしろとおっしゃるんですの?」
「そうです。今日から、ここがあなたの部屋です」
静火は淡々と答えた。
「ふ、ふざけるんじゃありませんの! こんなところ、人間が住む場所じゃありませんの!」
龍華は静火に猛然と食ってかかった。
「そんなことはありません。この部屋は昨日まで、ここにいる七星君が暮らしていた、立派な寝室です」
静火の説明を聞いて、さらに龍華の血の気が引いた。
「こ、このわたくしに、こんな小汚い下男が暮らしていた部屋で寝泊まりしろと言うんですの! 冗談ではありませんの!」
「むろん冗談ではありません。あなたは今日からこの部屋で暮らすのです。そして、この七星君の汚らわしい汗と垢と体毛と、性欲の発露として股間より放出された体液の染みついたベッドに身を包み、そのイカ臭さを肺の奥底まで目一杯吸い込みながら毎日を暮らすのです」
静火は小揺るぎもせずに言い募った。
「冗談じゃありませんの!」
龍華の全身に鳥肌が立った。
七星にしてみれば不本意な言われようだったが、龍華の反応が面白いので黙っていた。
「ですから、冗談ではないと言っています」
静火は十六夜を見た。
「十六夜さん、龍華さんのことは、あなたに一任します。夕食まで、まだ少し時間がありますので、とりあえず一通り屋敷を案内してあげてください」
静火は、そう十六夜に指示すると、七星とともに地下室を後にした。
「十六夜さん」
メイド服に着替え終えたところで、龍華が改めて十六夜を見た。
「はい?」
「あなた、昼間わたくしとの再試合を受けないとおっしゃっておられましたけど、その気持ちは今でも変わりませんの?」
「はい、変わりません」
十六夜は、精一杯毅然と答えた。
「どうしてですの?」
「あなたの命令を聞く義務も義理も、わたしにはないからです」
「……まあ、いいですの。ここで一緒に暮らす以上、これから先、機会はいくらでもありますの。それに」
龍華は不敵な笑みを浮かべた。
「今まで、わたくしの思い通りにならなかったことなど、1度としてありませんの」
龍華は得意気にうそぶいた。
「え? でも、今日わたしに負け」
「うるさいですの!」
龍華は目を血走らせた。
「それを帳消しにするための再戦ですの! 見てなさいの! あなたには、必ずわたくしとの再試合に応じさせてみせますの! そして、わたくしの輝かしい経歴についた汚点を、きれいさっぱり拭い去ってくれますの!」
龍華は憤然と歩き出した。
「何してるんですの?」
龍華は十六夜を振り返った。
「わたくしに、お屋敷のなかを案内してくれるんじゃなかったんですの?」
「え、あ、はい」
「だったら、さっさとなさいの!」
「は、はい。ごめんなさい」
十六夜は、あわてて龍華の前に出た。その後ろ姿を見つめながら、龍華は屈辱の味を噛み締めていた。
十六夜さん。今は、あなたに先を歩かせてあげますの。ですが、近いうちに必ずあなたをわたくしの前に跪かせてみせますの。
その日が、今から楽しみだった。
そして日が沈み、常盤家も夕食時を迎えたが、
「大丈夫かね、美姫君? 嫌だったら、いつでも辞めていいんだよ」
夕食の席に着いた常盤は、事あるごとに龍華を気遣っていた。
「君に万が一のことでもあれば、私は君のご両親に申し訳が立たないからね」
「お心遣い感謝致しますの。ですが、これしきのことで音を上げるほど、わたくし柔ではありませんの」
龍華は、澄まし顔で料理を口に含ませた。今辞めたら、静火に屈伏したことになってしまう。そんなことは、彼女のプライドが許さないのだった。
「そ、そうかね。だが、くれぐれも無理はしないようにね」
常盤は、それ以上この話題には触れなかった。というよりも、龍華と静火の間に流れる不穏な空気が、彼にそれ以上の領域侵犯を許さなかったのだった。
「そ、それはそうと、七星君」
「なんだよ?」
「昼は色々あって聞きそびれてしまったが、君は十六夜君に一体どんなコ-チングをしたのかね?」
「どんなって、前に話したろーが。チェスの問題集解かせて、名人の試合見せただけだ」
「本当に、それだけかね? 本人を前にして言いにくいが、それだけで一般人の十六夜君が美姫君に勝てるとは思えないのだが。本当は、別にもっと凄い秘策があったのではないかね?」
「ねーよ。けど、まー、攻略法とはちょっと違うけど、そのお嬢様の棋譜を見てて気づいたことはあったな」
「ほう、それは何かね?」
「このレベルの相手なら、攻略法なんてなくても、普通に勝てるってことだよ」
「な!?」
龍華は気色ばんだ。
「最初は気づかなかったけどな。何試合か見てるうちに、あれ? これなら普通に勝てるんじゃね? て思えてきてな。じゃあ、攻略法なんていらねーじゃんてことになって、そのまま試合に臨んだんだよ」
「ふ、ふざけるんじゃありませんの! 下男ごときが、何をわかったようなことを言ってるんですの!」
「別にふざけてねーし。実際それで勝ったし」
七星に揺るがぬ事実を突きつけられ、龍華は絶句した。
「あ、あんなの、ただのまぐれですの!」
「まぐれね。でも、棋譜見てて思ったけどな。これで優勝はないわー。これならオレでも勝てるわーて」
「な……」
「これで優勝できたとか、裏で対戦相手に金でも握らせなきゃ無理」
「無礼者! わたくしは、そんな姑息な真似など断じて致しておりませんの! 優勝したのは、あくまでわたくしの実力ですの!」
「どーだかなー」
「そこまで言うなら勝負なさいの! わたくしの実力が本物であることを、あなた自身の目で確かめさせてあげますの!」
「まー、いーけど」
「決まりですの!」
龍華は憤然と言い放ち、夕食後、龍華と七星のチェス勝負が居間で行なわれた。
十六夜に不覚を取ったとは言え、龍華は全日本チェス選手権の優勝者。のぼせ上がった執事見習いごとき、一蹴して身の程を思い知らせてやる。
龍華はそう思っていたのだが、
「チェックメイト」
実際に一蹴されたのは龍華のほうだった。
「……あり得ませんの」
龍華には、この状況が理解できなかった。いや、認めたくなかったというのが本当のところだった。十六夜のみならず、こんな名もない下僕にまで負けるなど、昨日までの自分には考えられないことだったから。
しかし、どんなに否定しようと、目の前に置かれたチェス盤が、否応なく龍華に現実を突きつけていた。
「ど、どういうことですの?」
龍華は七星を睨み付けた。
「1回戦での十六夜さんとの試合を拝見しましたけど、あなた確かチェスで十六夜さんに惨敗したはずですの」
「あーあれね。あれ、面倒臭くなったから、適当にやったんだよ」
「い、いい加減なことを」
「つーか、今それ関係ねーし。十六夜に負けたオレに、テメーは負けた。てことは要するに、テメーがオレたちのなかで1番弱いってだけの話だろ」
七星の指摘に、龍華は気色ばんだ。
「い、1度勝ったぐらいで、何を調子に乗ってるんですの。今のは慣れない環境と相手が下僕ということで、ちょっと調子が狂っただけですの。次やれば、絶対負けませんの」
「ほー、じゃあ、もう一勝負やるか?」
「望むところですの」
龍華は鼻息荒くリベンジマッチに臨んだが、
「……ありえませんの」
そのリベンジマッチでも、やはり完敗してしまったのだった。
「も、もう1度勝負ですの!」
「やだよ、メンドクセー」
「うるさいですの! このままでは、わたくしの気が済みませんの!」
「テメーの気なんか知らねーし。ここはテメーのお屋敷でもなければ、オレはテメーの召使でもねーんだ。なんの得にもならねー勝負を、そう何回もやってられるかってーの」
「勝負に見返りを求めるとは、しょせん下男は下男ですの」
龍華は忌ま忌ましさに歯噛みした。
「わかりましたの。では、もう一度勝負してわたくしが負けたときは、わたくしの……」
龍華は覚悟を決めた。
「わたくしの足の裏に、キスさせてさしあげますの」
「いらねーし」
「ならば、頭を踏みつけて」
「なお、いらねーし」
「だったら」
「あーもー、わかった、わかった。そんなに言うなら勝負してやるよ」
「本当ですの?」
「ああ、ただし明日な」
「そんなの嫌ですの! わたくしは、今すぐしたいんですの!」
「駄々っ子か。てか、オレが集中力切らさずに勝負できるのは、1日2回が限度なんだよ。テメーだって、疲れて本調子じゃねー相手に勝っても、しょーがねーだろーが」
「そ、それは、そうですけれども……」
「つーわけで、勝負は明日までお預けだ。それと、オレに勝つまで十六夜との再戦もなしだからな。オレにさえ勝てねーのに、十六夜に挑もーなんて、おこがましいってもんだからよ」
「わ、わかりましたの。では、今日はもう休みますの」
龍華は渋々地下室へと引き上げていった。
「さて、んじゃ、オレたちも部屋に引き上げるか。次の対戦相手のことも調べなきゃなんねーし」
七星も腰を上げると、十六夜とともに居間を離れた。
「七星君、どうしてあんなこと言ったの?」
自分の部屋に入ったところで、十六夜が七星に尋ねた。
「あんなこと?」
「2回戦のチェス戦のことだよ。あの試合、本当は七星君が、龍華さんがどう指すか教えてくれたから勝てたのに」
龍華には無策と言ったが、実のところ七星は対策を講じていたのだった。
具体的には、まず龍華の公式戦での棋譜を分析。それを基に、十六夜と龍華の試合展開を百通りほど予測して、十六夜に覚えさせた。そして龍華は、本当にそのうちの1パターン通りに指したのだった。
加えて言うと、十六夜が序盤慎重に指したことにも、七星の意志が働いていた。龍華に時間的余裕を与えることで、彼女が「普段通りの実力」を発揮できるように、お膳立てしたのだった。
「オレは、あいつが取る可能性がある手筋を、いくつか書き出しただけだ。よーするに下手な鉄砲が数撃ったら当たっただけで、本当に凄いのは、あれを全部覚えて実践したおまえだよ」
「でも……」
「まー、本当のこと教えてもよかったんだけど、そーしたらあのお嬢様、おまえのこと軽視しかねなかったからな。それに、あー言っとけば、オレに勝つまでは、おまえに再戦再戦うるさく言わねーだろーし。なにより、なんでも自分が1番だと思ってるお嬢様には、い-薬になっただろ。ま、おまえがお嬢様との再戦を受けねーのと、似たよーなもんだ」
「…………」
「そんなことより、問題は次の対戦相手だ。相手次第で、セットゲームも変更しなきゃなんねーからな」
七星は、パソコンで3回戦の相手を確かめた。すると、次の対戦相手は幸恵という同年代のフリーターだった。
プロフィールを見ると、幸には際立った賞歴や資格もなく、次の試合は楽勝と思われた。しかし、その考えは幸の2回戦を見て一変した。
幸の2回戦の相手は田沼という数学者で、その肩書を見る限り、幸に勝ち目はなさそうだった。そのうえ、堅実に戦略ゲームでセットゲームを固めてきた田沼に対して、幸のセットゲームは、すべて運頼みのギャンブルゲームで占められていた。
これで、どうやって幸が田沼に勝てたんだ?
結果を知っている七星たちでさえ、不思議に思うほどだった。
しかし、幸は完璧な計算で勝負に臨んだ数学者相手に、ギャンブルゲームで連戦連勝を重ね、その勢いのまま試合も押し切ってしまったのだった。
「ありえねーだろ。こんなこと」
七星は眉をひそめた。この試合で、幸が行なったギャンブルゲームは全部で8つにもなる。そのすべてで勝ち続けるなど、それこそイカサマでもしなければ不可能だった。
「これ、絶対裏でデータいじってるだろ。でなきゃ、ここまで勝てるわけがねー」
「でも静火さんは、それは絶対ないって。この大会は、専門のセキュリティーが厳重に管理してるから、ハッキングされることなんてないし、もしあったらすぐわかるって」
「……まー、確かに、これだけあからさまな真似してたら、運営のほうでもチェックし直してるだろーしな。それでお咎めなしってことは、マジで当ててるってことか」
「でも、もしそうだとしたら、どうしたら……」
「それは、どーする必要もねーよ。おまえは今まで通り、ただ普通にやればいい」
「え?」
「今の試合を見る限り、こいつは相手が仕掛けた戦略ゲーは、ほとんど負けるかパスしてる。つまり、こいつは運頼みのゲームでしか勝てねーんだ。たとえ、どんなに優秀なハッカ-だろうと、実際に相手が動かす駒までは、勝手に操作できねーからな」
「それは、そうだろうけど」
「だったら話は簡単だ。おまえはセットゲームを、逆に全部戦略ゲーにすりゃーいーんだよ。イカサマ臭いギャンブルゲーで、いかに勝つかってことなら難しい話になるが、これは別にギャンブル勝負じゃねーからな。前にも言ったが、たとえ相手のゲームを全部負けても、自分のゲームで負けさえしなければ、後はチェスが強いほーが勝つんだよ。このクソゲは」
七星は、最後に幸のコメント欄を読んだ。そのなかで、幸は自分をラッキーガールと称していた。
実際、幸の1回戦は不戦勝だったし、2回戦も運による部分が大きかった。
幸のギャンブルゲームでの連勝は、確かに強烈なインパクトがあったが、それだけで田沼の牙城を崩すことは難しかった。それでも幸が勝てたのは、ありえない確率を目の当たりにした田沼が動揺し、戦略ゲームでもミスを連発したことにあった。その意味でも、数式や確率を重んじる数学者と対戦した幸は、強運の持ち主と言えるかもしれなかったが。
「ラッキーガールねえ」
七星は、うさん臭そうにつぶやいた。
「本当なのかな?」
「さーな。ただ1つだけ言えることは、もしこいつの言っていることが本当だとしても、こいつは本当の意味でのラッキーガールじゃねーってことだ」
「どうして? もし本当に、あのゲームを全部運で勝ってるんだとしたら、それこそ凄い強運の持ち主だと思うんだけど?」
「まーな。けど本当の強運の持ち主ってーのは、そーゆー次元を飛び越えて、そもそも運試しなんかする必要もねーほどに、最初からすべてを持って生まれてきた奴のことをゆーんだよ。あのお嬢様みたいなな」
「…………」
「だから、どんだけ強運を誇ろーが、こんな大会に出場してる時点で、その強運度はタカがしれてんだよ」
七星はパソコンの電源を切った。
「そしておまえは、その超絶強運の持ち主である、お嬢様に勝った人間なんだ。自信持て」
「う、うん」
「とはいえ、油断は禁物だがな。次の試合は後攻になるし」
ここまでの平均タイムは、十六夜が15秒なのに対して幸は5秒と、トリプルスコアをつけられていた。この差は、十六夜が前の試合で序盤に時間をかけたこともあったが、2人のセットゲームの違いによるところが大きかった。特に幸は、ギャンブル勝負でも直感だけで即決しているため、1手にかける時間が極端に短いのだった。
「つーわけで、これから試合までは、チェスをメインに、全体的に戦略ゲーのレベルアップを図っていく。千里の道も一歩から。地道だが、これが1番確実な勝利への道だからな」
今の十六夜の地力なら、間違いなく勝てる。
七星は、そう確信していた。
しかし、このときの七星はまだ知らなかったのだった。
ラッキーガールを自称する幸の強運が、どれほどのものかということを。




