第100話
翌日、十六夜は荷物鞄を手に常盤邸を再訪問した。
常盤の住まいは東京と千葉の県境に位置していたが、郊外とはいえ、その豪邸は十六夜に改めて住んでいる世界の違いを思い知らせることになった。
「ようこそ、十六夜さん。話は、旦那様から聞いています」
再訪問した十六夜を出迎えたのは、昨日も応対した赤い髪と瞳をした、二十代後半の女性だった。
「改めて自己紹介させていただきます。わたくしは静火・アークライト。メイド長として、このお屋敷の家事全般を取り仕切らせていただいている者です」
自己紹介する間も、静火は常に稟とした空気を身に纏い、その起居振る舞いには一部の隙もなかった。
「まずはあなたの部屋へ案内しますので、ついてきてください」
静火は穏やかな物腰で、十六夜を2階へと案内した。眉目秀麗を体現したような静火の容姿は、同姓の十六夜でさえ目を奪われるほどだった。
「今日から、ここがあなたの部屋となります」
静火に案内された部屋は、十六夜のアパートよりも広かった。
「では荷物を置いたら、まずそこにある服に着替えてください」
「わかりました」
十六夜は荷物を部屋の隅に置くと、急いで用意されていたメイド服に着替えた。
「お待たせしました」
部屋から出てきた十六夜のメイド服姿を、静火が瞬時に観察する。
「サイズはピッタリのようですね」
「あ、はい」
「結構です。では、ついてきてください。最初に、屋敷のなかを一通り案内しますので」
静火の案内で、十六夜は台所、大広間、地下室、客室、書庫と、屋敷内を一通り見て回った。
「では、これより仕事に取りかかってもらいますが、その前に、あなたに言っておかねばならないことがあります」
静火の瞳が真紅の輝きを放った。
「な、なんでしょうか?」
「当家の労働に従事する者として、わたくしの見たところ、あなたには決定的に欠けているものがあります」
「え?」
静火の突然のダメだしに、十六夜は困惑した。
「それは危機管理能力です」
静火は淡々と言った。
「危機管理能力?」
「そうです。あなたは初対面の人間の誘いを、なんの疑いもなく受け入れ、1人のこのこと、この館に来てしまいました」
「…………」
「これで、もし旦那様が悪人で、あなたを人身売買や奴隷にする目的で誘いをかけたのであれば、あなたはこの屋敷に踏み込んだ時点で自由を奪われ、散々に弄ばれたうえで海外に売り飛ばされていたかもしれないのです」
静火は、そこで軽く咳払いした。
「むろん、旦那様にその種の邪な考えはありません。それに、あなたにはそれしか選択肢がなかったのですから、そこは仕方がないでしょう。ですが、あなたはここに来るに当たって、今わたくしが言ったような可能性を少しでも考慮しましたか?」
「い、いえ」
「そうでしょう。わたくしが見る限り、ここに来たあなたに、その種の警戒心は微塵も感じられませんでした。わたくしが問題としているのは、そこです。あなたは、よく言えば今時珍しい純朴で素直な子ですが、悪く言えば考えなしの世間知らずの甘ちゃんなのです」
「す、すいません」
「もし、わたくしがあなたと同じ立場に置かれたならば、誰か親しい人間に自分の勤め先を教えておき、もし一週間連絡がなければ警察に連絡するよう頼んでおくでしょう。そうすれば、たとえ旦那様が何か悪事を企んでいたとしても、最悪の事態は避けられる可能性がありますし、いざというとき取引にも使えるからです」
「…………」
「これが、あなた個人のことであれば、問題はあなただけに留まります。ですが、常盤家のメイドとなった以上、あなたの判断は旦那様の命に直結する可能性があるのです。その危険を回避するためにも、あなたにはもう少し他者への警戒心と思慮深さを身に付けてもらわねばなりません。その点も含めて、これからわたくしが心身ともに、常盤家のメイドとして恥ずかしくないよう教育してまいりますので、覚悟しておいてください」
「は、はい、よろしくお願いします」
十六夜は深々と頭を下げた。
「では、さっそく仕事に取りかかってもらいます。最初は部屋の清掃です。まずは、わたくしが手本を見せますので、よく見ておいてください」
「はい、よろしくお願いします」
十六夜は、もう一度深々と頭を下げた。
そして十六夜が一日の労働を終えた夕暮れ、仕事を終えた常盤が帰宅した。
「お帰りなさいませ、旦那様」
十六夜は静火とともに、常盤を玄関で出迎えた。
「ああ、ただいま」
そう応えた後、常盤の十六夜を見る目が険しくなった。しかし、それも一瞬のことで、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
「そう畏まらなくていいのだよ、十六君。君を雇ったとはいえ、それはあくまで君にここに留まってもらうための方便なのだから。むしろ客人のつもりで、もっと気楽にやってくれたまえ」
「は、はい、ありがとうございます」
「それと食事を済ませたら、私の部屋に来てくれたまえ。例の大会のことを、もう少しくわしく説明しておきたいのでね」
常盤はそう言うと、自室へと引き上げていった。そして十六夜は常盤の言いつけに従い、夕食後に主人の部屋を訪れた。
「入りたまえ」
常盤の許可を得て、十六夜は部屋のドアを開けた。すると、部屋の壁には客室同様アニメのポスターが貼られ、書棚には漫画やラノベが、飾り棚には様々なフィギュアが、その存在感を燦然と誇示していた。
「では、さっそく説明を。といいたいところだが、その前に1つ確認しておきたいことがあるのだが、いいかね?」
机に腰を下ろしたまま、常盤は真っ直ぐに十六夜を見据えた。
「なんでしょうか?」
「これは、とても重要なことなので、できれば正直に答えてほしいのだが」
常盤の目は、今までになく真剣だった。
「君が、その、メイド服に着替えるとき、他にも何か一緒に置いてなかったかね?」
「他に、ですか?」
「そうだ。たとえば、その、猫の耳……のよ-な形をした何かとか、その、猫のしっぽ……のような形をした何か、とかなのだが」
「いえ、なかったですけど?」
「そ、そうかね」
常盤は、あからさまに肩を落とした。しかし、すぐに復活すると机の引き出しを開いた。
「こんなこともあろうかと、ここに……あれ?」
常盤は鼻白み、さらに部屋中を物色し始めたが、
「ない。ない。なーい!」
やはり目当てのものは見つからず、やむなく静火を呼んだ。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「うむ、君に1つ聞きたいことがあってね」
「なんでしょうか?」
「うん、その、今十六夜君の着ているメイド服のことなのだがね」
「はい」
「確か、私はメイド服の他に、その、別のオプションも用意してあったはずなのだが、十六夜君はそんなものはなかったというのだよ。静火君、君、何か知らないかね?」
「あのネコ耳とシッポでしたら捨てました。今日、ちょうどゴミの日でしたので」
静火は涼しい顔で答えた。
「……ワンモアプリーズ」
「捨てました」
「ホワイ?」
「あんな汚物をつけさせられるのは、十六夜さんも嫌でしょうから。今までも、それで何人ものメイドが辞めていったというのに、まったく懲りていないようでしたので」
静羽は淡々と続けた。
「しかも十六夜さんの場合、他のメイドと違い、嫌になったからといって、おいそれとここを去ることはできませんし。その弱みにつけ込んで、旦那様が無理難題を押し付けることができないよう、あらかじめ対処させていただきました」
「な、何を言っているのかね、静火君。彼女たちが辞めたのは、みんな君の指導の厳しさに耐えられなくなったからじゃないか」
「あと、旦那様のコレクションの一部も、一緒に処分させていただきました」
「ええ!?」
常盤は、あわてて部屋を見回した。
「ななななな、何を捨てたとですとぴあ!?」
「旦那様が、いつもごらんになっていたヌイグルミの写真集です」
「えええええ!?」
常盤は本棚に飛びつくと、最上段に並んだ本を調べた。
「ない! ない! なーい! 私の「怪獣スタンプ」がない! ない! ない! なあああい!」
「だから処分したと申しあげたはずです」
「どーして捨てちゃうの!? あれ、ボクが大切にしてたの知ってたよね!?」
常盤は涙目になって訴えた。
「はい、毎日、毎日、ニタニタしながら、アレをごらんになっていたので、よく覚えています」
「それで、どうして捨てちゃうの!?」
「それは、うざ…いえ、十六夜さんを旦那様のパワハラから守るためです。旦那様が十六夜さんにまであのボロクズを見せびらかして、この怪獣があーだこーだと無駄にうんちくをひけらかしたり、このアルバムを完成させるために自分がどれだけ苦労したとか、無駄な自慢話を延々と聞かされる危険が出てきた以上、放置しておくわけにはまいりませんでしたので。部下に快適な職場環境を提供することも、上司の務めですから」
「そ、そんな……」
常盤は膝から崩れ落ちた。
「酷い、酷いよ、静火君。いくらなんでも、あんまりだよ」
常盤の目に涙がにじむ。
「あのアルバムは、今となっては2度と手に入らない、国宝級コレクションなのに」
「あんなものは、子供から金を巻き上げるために企業が作った、ただの集金ツールの成れの果てです」
「あのアルバムは、毎日シールをコツコツ買い集めて、やっとの思いでコンプリートした、ボクの宝物だったのに」
「そうやって企業に踊らされるまま、金をドブに捨て続けたのですね」
「どうして、こんな……。あの子たちが、君に一体、何をしたというんだ……」
「旦那様の成長を促すためにも、涙を飲んで処分させていただきました」
「いらないからー! そんな善意の押し売り、いらないからあ!」
常盤は泣きわめいた。が、突然その顔が明るさを取り戻した。
「そうか、わかったぞ、静火君」
「おわかりいただけましたか」
「君、ボクには捨てたと言ったけど、実はどこかに隠してあるんだね」
「は?」
「そうしてボクをビックリさせようとしたんだね。もー、静火君たら、おちゃめさんなんだからあ」
常盤は静火の頬を突いた。
「…………」
静火は常盤のパソコンを起動させると、録っておいた動画を再生させた。見ると、机の上に置かれている常盤のコレクションアルバムが映っていた。
「おお、僕の怪獣スタンプ! やっぱりあったんだね! どこ!? どこにあるんだい!?」
常盤は目を輝かせて部屋中を見回した。
「もう少し、ご覧になっていればわかります」
静火に言われるまま、常盤は画面を食い入るように見入った。すると間もなく、静火がコレクションアルバムを手に取った。かと思うと、ゴミ袋のなかへと放り込んでしまった。
「ぎゃあああ! 僕の怪獣スタンプうううう!」
常盤の絶叫をよそに、ゴミ袋はそのまま外へと持ち出されると、無造作にゴミ捨て場へと打ち捨てられてしまった。
「あああああああ」
失意に肩を落とす常盤を、さらなる事態が追い討ちをかける。山積みにされたゴミ袋の前にゴミ収集車が停止すると、回収員がゴミの回収を始めたのだった。そして、それは常盤家のゴミ袋も例外ではなかった。
「やめええてえええ! それゴミじゃないからあああ!」
常盤は画面に向かって泣き叫んだが、むろん回収員の手が止まることはなく、
「いやあああ!」
常盤のコレクションの入ったゴミ袋も、彼の眼前でゴミ収集車へと放り込まれてしまったのだった。
「返してええええ! 僕の怪獣スタンプううううう!」
常盤の必死の訴えも虚しく、作業を終えたゴミ収集車は次の回収地点へと走り去ってしまった。
「ああああああああ……」
動画はそこで終了し、常盤は再び失意のどん底へと叩き落とされることになったのだった。
「これで、わたくしの言葉に嘘偽りがないこと、信じていただけましたでしょうか?」
静火はうなだれる常盤に、やはり冷ややかに語りかけた。
「酷いよ、静火君。いくらなんでも、あんまりだよ」
「申し訳ございません。ですが、これもすべては旦那様を真人間に立ち返らせるためなのです」
「いらないからああ! そんな善意の押し売り、いらないからああ! 返してよお! ボクの怪獣スタンプ、返してよおおお!」
「残念ながら手遅れです。今頃は焼却炉のなかで、塵も残さず燃え尽きていることでしょう」
静火に容赦ない現実を突きつけられ、常盤は床に泣き崩れた。
そんな常盤を尻目に、静火は飾り棚へと近づくと1体のフィギュアを手に取った。
「十六夜さん」
静火はフィギュアを十六夜に差し出した。
「この人形をあなたに預けます。大切に持っていてください」
「人形?」
常盤が顔を上げた。
「そして、もし旦那様があなたにパワハラまがいの無理難題を吹っかけてきたら、かまいませんので、この人形の首をこうして」
静火はフィギュアの頭を親指で押した。すると、フィギュアの首がポキッと折れた。
「ぎゃああああああ!」
常盤の口から再び絶叫が上がった。それは、口のきけないフィギュアの心情を代弁するような、魂の慟哭だった。
「僕のハルナたんがああああ!」
「申し訳ありません、旦那様。人形の首が折れてしまいました」
静火は感情のこもらない声で謝ると、首の取れたフィギュアを常盤に返した。
「ですが形ある物は、いつかは壊れる運命です。今日ここで壊れることが、その人形の運命だったのでしょう」
「……うん、形あるものは、いつか必ず滅びるものだよね。でも、今のは「折れた」んじゃなくて「折った」んだよね」
常盤はフィギュアを撫でさすりながら、あえて言い直した。ささやかな抵抗だった。
「お言葉ですが、旦那様、今のは本当に折れたのです。折ったというのは……」
静火は棚から別のフィギュアを掴み取ると、
「こういう行為を言うのです」
胴体から真っ二つにヘシ折ってしまった。そして再び絶叫を上げる常盤を尻目に、静火は新しいフィギュアを手に取った。
「十六夜さん、もし旦那様がバカな気を起こしたら、わたくしが許可します。今のように、その人形を破壊してください」
静火は十六夜にフィギュアを手渡した。
「では旦那様、御用は済んだようですので、わたくしはこれで失礼させていただきます」
静火は一礼すると退室した。
「あ、あの……」
十六夜は恐る恐る常盤に声をかけた。
「この人形、お返しします。静火さんは、ああおっしゃってましたけど、やっぱり悪いですから」
「十六夜君、ありがとう。君は、本当に優しくていい子だね」
常盤は目を潤ませた。
「だが、いいんだ。そのフィギュアは君が預かっていてくれたまえ」
「え、でも……」
「いや、本当にいいんだ。君が勝手にその子をわたしに返したことが、もし静火君にバレたら、それこそ君にまで被害が及びかねないからね」
常盤は苦笑した。
「だが、その子はホントーに大切なものだから、くれぐれも壊さないようにしてくれたまえ。落としたりヘシ折ったり、間違ってもゴミとして捨てたりしないように。わかったね」
「わ、わかりました。大事に保管しておきます」
「うむ。それと、せっかく来てもらって申し訳ないのだが、例の話は明日に延期させてもらってもいいかね? 精神に負ったダメージが、思いのほか大きくてね。とてもではないが、今はまともな説明ができそうにないのだよ」
「わ、わかりました。では、お話を聞くのは明日ということにして、今夜はこれで失礼します」
十六夜は一礼すると、常盤の部屋から退室した。
そして十六夜が去った常盤の部屋では、天に召された御霊に捧げる鎮魂歌が、夜が明けるまで流れ続けたのだった。
 




