発心の五十路の前の秋遍路
H16.10.30(土)晴れ
朝5:00起床、昨日寝る前まで準備した備品を再度チェックし簡単な朝食を済ませて、まだ寝ている家内と娘を起こさないよう静かに家を出る。
数ヶ月前から準備してきた四国遍路の旅がいよいよ始まりだ。四国遍路に行こうと決めたのは1年位前からで以前から興味があった、家内の病気回復の祈願もあり思い切って実行することにした。会社のリフレッシュ休暇を利用して10/30~11/7の9日間の遍路の旅である。
まだ外は暗く重さ6kgに制限したリュックを背負いさっそうと、まだ見ぬ四国遍路の世界への旅たちだ。
長崎駅6:30JRで出発、途中博多で新幹線に乗り換え岡山まで。新幹線の中で文字放送のニュースによるとイラクで人質になった香田さんの遺体が発見されたとのこと、ご両親の心中察すると心が痛む。
岡山で高松行きの特急にのりかえ11:35本四架橋を通過する、いよいよ四国だ。四国には仕事と家族旅行で2回来たが、今回は全く違う目的である。
12:00高松駅に到着、駅はこぢんまりとしていてローカル的だ、改札口を出て高松市内で食事をしょうかと思ったが時間がないので駅内のうどん店で讃岐うどんを食べた。やはり本場の讃岐うどんは旨い。
高松駅から乗り換え坂東駅についたのは13:40、先ず予約した民宿「阿波」へ向かった。
坂東の町は何か昔懐かしい昭和のにおいがする町並みで、その中でも古びた床屋はいい雰囲気をしている。
民宿には間もなく到着。女将に挨拶し荷物を預かってもらって一番霊山寺へ出発した。
今日は一番霊山寺から三番金泉寺までが予定だ。
一番霊山寺に着き、隣の遍路用品店に僕は緊張して入ったが店員のおばさんの慣れた説明のとおり言われるまま菅笠、金剛杖、白衣、納経帳他購入した。計21,500円也。
さっそく店員のおばさんから教わったとおり白衣、菅笠を身につけ金剛杖を持った姿は立派なお遍路だが、ちょっと恥ずかしい、団体のお遍路さんのあとを付いていくように旅たちの寺霊山寺本堂へ到着。参拝の作法は前もって勉強していたが、なかなか思うようにはいかない、般若心経もかたことの英語のようで…先が思いやられる。
納経帳は既に買った時に霊山寺の記帳がしてあり納経所へ行く必要がない。購入時点で納経帳代を払っているのだ。なにかちょっと損をしたような気がした。ああ、お寺さんにも経済効率が優先するのかと思いながら次、二番極楽寺へ歩いた。極楽寺にある樹齢千二百年の長命杉は千年の風雪に耐えた老杉の霊気を感じさせられる。
三番金泉寺にはお大師様が発見したという「黄金の井戸」がある。今日は、三番で終って板野駅から坂東駅へ戻り民宿「阿波」で宿泊する。
宿泊客は僕ひとりと思っていたら、東京から来た35才の男性と2人だった。食事の時、色々話をした。今は失業中で、これを機会に原付バイクで四国を一周するとのことだ。
H16.10.31(日)晴れ
5時起床、昨夜から降っていた雨もやみ洗顔、朝食を済ませ昨日買ったばかりの真新しい白衣を着て、金剛杖に菅笠で「いざ出陣でなくて、いざ遍路」遍路姿も今日は違和感がない。むしろ「かっこういいんじゃない」なんて自分で思いながら女将に「お世話になりました、行ってきま~す」といって坂東駅に向かった。(昨日板野駅から戻ったので今日は板野駅から出発だ)
坂東駅に到着、駅舎に泊まっていた青年と会う。話をきくと二ヶ月をかけて野宿で四国を一周したらしく、今日一番霊山寺へお礼参りして旅の終わりだそうだ、なるほど白衣は真っ黒に汚れて僕のとは全く違う。二ヶ月間の苦難の日々をうかがえた。
板野駅に到着、二日目の遍路の旅が始まりだ。向かうは四番大日寺。
大日寺への途中、昔の遍路道への道しるべがあったので、その道を選んだ。田んぼの畦道を行くと細い登り道になっていて、登り口に古い石碑があり「遍路道はこちらですよ」と言わんばかりの手のマークがある。その石碑の横には遍路の為の記帳ノートがあった。見ると今日の日付で記帳して人がいたので僕も記念に日付と住所と名前を記帳した。
この遍路道はおそらく江戸時代からあるのだろう。何千何万人の先人達がいろんな思いを抱いて歩いたのに違いないと思いながら一歩一歩踏みしめながら歩いた。
大日寺に着いた、大日寺は小さな石橋のほとりに山からの湧き水が音をたてて流れ滝をなしている。境内で小さな白衣を着た子供の遍路を見た。なにか訳があるのか知らないが可愛いお遍路さんだった。
五番地蔵寺にはコの字をした建物の中に極彩色の五百羅漢像が喜怒哀楽を刻んであって見事なものである。間違って出口から入ってしまって拝観料は払わなかった。時間があればゆっくり見たかったのだが、次の遍路の時にゆっくり見ようと思った。
8:55六番安楽寺へ出発。途中40~50人の「○○歩こう会」の旗を掲げて歩いて来る人達と遭遇して、ひとりひとりから「おはようございます」の挨拶を受け、ちょっと恥ずかしくなり下を向いて急ぎ足で過ぎ去ろうとしていたら、その中の一人のご婦人から「お遍路さんちょっと待って下さい」と声を掛けられ「冷たいものでも飲んで下さい」と100円玉を渡された。
初めての接待100円玉一枚でもとても嬉しく感謝の気持ちだ、これが接待か…感激した。
足が痛くなり右の股関節が特に痛くなってきて室戸岬まで行けるのかちょっと不安になってきた。
六番安楽寺に到着。ここは藍栽培の地で上板町にあり駅家寺として遍路の宿泊の役を担っていた所だ。
10:50七番十楽寺へ出発。先はまだまだ長い無理せずゆっくり歩こう。
十楽寺は白漆喰と朱塗りが重なる中国風の鐘楼門を持つ寺だ。次、八番熊谷寺へ。この熊谷寺の大師堂は四国で一番古いものらしい、古いものはやはりいい雰囲気をもっている、歴史の深さを感じさせる。
熊谷寺門前のうどん屋で昼食、女将に写真を撮ってもらう。カメラは36枚撮りのインスタントカメラを持参した。デジカメを持って行くかインスタントカメラを持っていくか迷ったが、充電器の重さを考えたらインスタントカメラを持って行くことにした。しかしパソコンに取り込み出来ないのが難点である。
九番法輪寺へ行く途中、雨が降りだして持参したゴアテックスのカッパを建築中の家の軒下を拝借して着た。ゴアテックスの生地は雨を通さず湿気を通す優れ物で、歩き遍路には持ってこいだ、しかし靴もゴアテックスの登山靴だったが靴下までグチョグチョになった。
法輪寺に着くと雨もやみ濡れた石畳と瓦が光輝いていた。
お参りも済ませ山門を出たところで青年のお遍路さんから「歩きですか?」と声を掛けられた。
話を聞くと愛知県から来た福井さんという人で、前回歩きで結願して今回、車で回るらしく歩き遍路のことを色々話してくれた。明日のスケジュールを尋ねられ「今日は十番切幡寺の下の民宿坂本屋に泊まり明日は十二番焼山寺までお参りして下のなべいわ荘まで行くつもりです。」と答えたら「それはちょっときついですね、十一番藤井寺付近で一泊した方がいいですよ。」とアドバイスを受けた。ああ、やっぱり無理かな…。しかし今回、室戸岬まで行くためにはどうしても明日中には十二番焼山寺まで行かなければならないのに…。
福井さんのアドバイスで色々考えながら十番切幡寺へ歩いた。
歩き遍路は人生そのものと聞いていたが確かにそうだ。一期一会で人と出会い、又別れて悩みながら生きてゆく。まさしく人生そのものだ。
途中また雨が降ってきた。民宿坂本屋に着いてすぐ、女将に「明日、十二番焼山寺までは無理ですかね?」と尋ねると「大丈夫ですよ、女の人でもここから行っていますよ、今日中に切幡寺までお参りを済ませたら…」と言われ、慌てて荷物を預け雨の中切幡寺へ登った。きつい三百三十三段の階段を登り終えるころは、雨がどしゃ降りなり靴はびしょびしょになった。本堂でお参りし左上の大塔まで行ってみた。相変わらず雨はどしゃ降りで、晴れた日ならここから吉野川が見えるのだろうが雨で何も見えない。しかし雨もまたいいものだ。
作家で生命科学者の柳澤桂子さんは雨を見て般若心経の「空」を感じたということだ。僕のような凡人には「空」はまだ感じられないが、結願するころは感じられるだろうか。
宿に着き、直ぐ風呂に入り痛くなった足をよくマッサージした。右の股関節はなぜか、もう痛くない不思議なものだ、人間の体はよく出来ている、だか足のマメは大きくなった。
荷物も出来るだけ軽くするため長崎の自宅へ送り返すことにした。準備の段階で必要最小限の荷物にしたつもりだが、歩き遍路の荷物は何を持っていくかではなく何を減らすことが出来るかだ。
食事にビールを注文し、コップに注いでいっきに飲み干した。今日の疲れがどこかえ消え去った。
洗濯は済ませたが、乾燥機がないので部屋いっぱいに干して靴は持ってきてドライヤーで乾かしたり菅笠の紐を直したり、就寝まで忙しくゆっくりする暇がない。やっと床についたのは11時頃だが足の痛みでなかなか寝付かない。暫くして、うとうとしていると布団の中で何かガサガサする。すると太股に何かが触れる感触があり、びっくりして飛び起き蛍光灯をつけて布団の中を見ると、なんと丸々太ったムカデだ。この季節にムカデとは驚きだ。雨が降って湿気があるため出てきたのだろう。慌てて直ぐ近くにあったドライヤーの柄で叩き殺した。ああ五戒の不殺生を犯してしまった。でも、もしここでムカデに刺されていたら多分、遍路二日目にして長崎へ引き返すことになっただろう。お大師さまもきっと許して下さる。「南無大師遍照金剛」
ムカデには必ず、つがいがいることを思い出し、その夜は殆ど眠れなかった。
H16.11.1(月)晴れ
朝5時起床、昨夜のムカデ事件で睡眠不足だ。荷物の整理や洗面を済ませ、食堂へ行ったら、もう先客がいっぱい。隣の席にいた老夫婦から声を掛けられ「歩いてですか?」の質問に「はい、室戸岬まで歩いて行きます」と答えたら「うらやましいですね、私たちは車です。尊敬します。」と言ってくれ、ちょっと自慢げになった。
遍路姿になって出発だ。昨日の雨は嘘のように空は晴れ渡り、清々しい気持ちで坂本屋をあとにした。
暫く歩くと吉野川の堤防が見えてきた。その堤防を越えると広大な「四国三郎」と称される吉野川だ、長崎にはこんな大きな川がないので感激する。潜水橋を渡りながら遍路が似合う絵になる風景だろうな~と思い少し得意になって歩いた。
潜水橋を渡ると広大な中州に出る。そこは朝日に照らされた雨上がりで鮮やかな土と緑の色の農地であった。この前の台風の爪あとが生々しく木々の水位跡と共にはっきりと残っていた。吉野川は四国で一番大きな川で大雨の時は険しい山からどっと水が流れ込むのだろう。この大自然に比べると人間の存在なんてちっぽけなものだ。
9:40十一番藤井寺に到着。門前の小さな店には遍路グッズが軒下にぶら下がりって、門をくぐると藤棚かあり五月の藤の咲く季節にはさぞかし美しいだろう。
藤井といえば、今年8月に肺癌でなくなった会社の同期で友人の藤井を思い出した。病気発症から一年持たなかった、人の命なんてあっけないものだ。僕はこうして健康で歩き遍路が出来るのだ、感謝しなければならない。藤井の供養のためにもこの寺で拝んだ。
大師堂でお参りを済ませ納経所へ行こうとしたとき、九番法輪寺でアドバイスを受けた、あの福井さんと会う。福井さんのアドバイスを無視したようで少しバツが悪かったが、「今日、焼山寺まで行ってきます」と明るく言ったら、「あそうですか…」と色々話をした。
福井さんから「ところで、飲み物,食料は用意していますか。」との質問に「用意していません」と答えると、「ここから先は飲み物、食料は全く調達できないですよ、私の車で買いに行きましょう」と言ってくれ、さっそく福井さんの車で買い物になった。見ず知らずの人に、こんなに素早く親切に出来るこれもやはり接待だ。
福井さんとは駐車場で、お互い合掌で旅の無事をお祈りしてお別れした。
十二番焼山寺への道は藤井寺本堂の左側にあり、この傍の石に腰掛けて荷物の整理をしていたらおばあさんが近づいてきて、「焼山寺まで行くのですか」と言って千円札一枚差し出してくれた。話を聞くと、このおばあさんは焼山寺の近くで生まれたらしく久しく帰ってないらしい。僕は、頭を深く下げ合掌しながら「代わりにお参りしてきます。」といって出発した。
(10:10出発)
この焼山寺への道は空海が実際に歩いたみちだ。「遍路ころがし」といわれる異名をもつ八十八ヶ所随一の難所だ。
藤井寺の焼山寺への登り口は石段で、暫く行くと細い登山道になり吉野川が一望できる所があり、カメラでバチリ、ここはまだ序の口で、先はまだ長い。
焼山寺までの山道は、三度の登りと二度の下りを経なければならない、「遍路ころがし」と呼ばれる道のりは、歩き遍路にとって試金石である。
約一時間半歩くと、森閑とした中にちいさな無人の長戸庵に着く。そこから暫く登りと今度は転がり落ちるような急な下り坂になり、その先には番外霊場でもある柳水庵が現れる。ここが焼山寺までのおおよその中間点にあたる。
再度の長い登りにかかり、ようやくの思いでたどり着いた頃には見事な杉の巨木。そしてその前には遍路姿のお大師様の像がそびえ立つ、一本杉庵である。息も絶え絶え、お大師様を仰ぐ。像の横のベンチに腰掛ける。ひっそりした雰囲気に包まれて物音は何一つ無く僕の息が上がった呼吸の音だけだ。ここからの下りも急で、最後の斜面にへばりつくようにして人里の集落に降り立つ。谷間にわずかに開かれた畑の間を抜け川に架かる橋を渡ると最後の登りである。叉山道に入る杉林の中の登りは、これまでの山越えを象徴するかのように続く。そしてその坂が果てしなく続くように思え始める頃、仁王門が現れる。
この遍路道は登山道である、僕は趣味として山登りをしているので苦にはならないが、しかし三回の山越えはとてもきつかった。途中、無縁仏の墓があっちこっち有り他の遍路とも全く会うこともなく心細く感じたが「がんばって」「もう少し」「南無大師遍照金剛」と遍路の掛札の言葉に励まされて焼山寺にやっと到着した。
本堂、大師堂であの藤井寺で会ったおばあさんの分まで納経した、納経所でお坊さんと色々話をしていて時計を見るともう午後4時過ぎである、今日の目的地はこの焼山寺ではない、既に予約してある「なべいわ荘」である。あわててリュックをかつぎ出発した。
足は登りより下りの方がつらく膝を痛める。ゆっくり下りたいのだが時間がない。暗くなる前に宿に着かなければならないのだ。気は焦るが転んで怪我したら元も子もない。
17:00「なべいわ荘」へやっと到着。ほっとした。宿泊客は僕ひとりだ、宿の主人が快く迎えてくれた。中に入ると立派な建物でリビングの梁には大きい松を使っている。
食事をしながら主人と話をしていたら今年の7月に元民主党々首の菅直人さんがこの宿にも泊まったそうだ。
寝る部屋も広く窓から美しい星がよく見えた。四国へきて三日目の夜である、あまり人と話すこともなくただ黙々と歩いて来た。この様な経験は僕の人生の中でまだ一度も無かった。心が洗われる思いがした。ちょっと人恋しくなって寂しい気分になった。
H16.11.2(火)晴れ
7:00「なべいわ荘」出発。爽やかな朝だ、今日もひとりで歩かなければならない。
十三番大日寺まではかなり遠い。地図を確認しながら行くが、もうここからはずっと下りと思っていたら登りがあった。人の気配も全く無く犬や猫とも会わない遍路道を又登って行く。暫くして峠になった。峠には祠がありそこからは舗装された車道が始まっていた。
地図を確認すると、この車道を行けば、この山を降りることが出来る。
民家が一軒二軒と少しずつ人里に近づいてきた。こんなところに人が住んでいる。僕は賑やかな繁華街の近くに住んでいるので、ここでは暮らせないな~と思いながら歩いていると後から車が来た。乗っているのは老夫婦で「乗っていきませんか」と声をかけられたが「いいえ歩いて行きます、ありがとうございます」と丁重にお断りした。
少し下ると川があり、下るに従ってだんだんと川が大きくなってくる。すると橋が見えてきた、流水橋である。欄干がなく大雨の洪水の時、流失しても流れていかないようにワイヤーで繋いである。自然に逆らわない考えかたである。欄干がないから歩くのに少し怖い感じもするが、下は清流で渡れば心地よい。
大日寺へは今迄の山道とは打って変わって川沿いの車道を果てしなく歩くような感じである。車がひっきりなしに通り、その度に菅笠があおられる。足の痛さも限界に達している
テーピングはまめが出来てからしたためあまり効果がない。後からお先達から聞いたがテーピングは初日からしなければ意味がない。なるほどその通りだ。
12:50やっと十三番大日寺に到着。大日寺という名でありながら、大日如来を本尊としない珍しい寺である。ここは、やはり町のお寺だ、賑やかな感じがする。約五時間も歩きどうしでとても疲れた。境内の石の椅子にべたりと座って暫く休憩した。夫婦遍路が本堂でお参りして、お互いをカメラで撮っていたので「写真撮りましょうか?」と言って二人を撮ってやり僕も替わりに、ご主人に撮ってもらった。
お参りを済ませ山門を出ようとした時、若かい女性遍路(のちの由美子さん)と会う軽く会釈をしたので僕も軽く会釈する。見るからに歩き遍路さんだ。今回の遍路で初めて会った歩き遍路さんだ。
十四番常楽寺へ出発。ずう~と田園と民家の続く遍路みちを行く。遍路用の案内板があるので迷うことはない。町でもあるし人に尋ねられる。そんな安易な気持ちがあったのだろう、案の定、道を間違えた。常楽寺の手前で橋を渡って右折して真っ直ぐ進んでいたら、遠くの方から「こっちじゃないよ! あっち、あっち!」と指差して叫ぶおばちゃんがいた、あ、僕に言っているのだ、案内板を良く見るとやはりあっちだった、助かった、もし教えてくれなかったら大変な遠道だった。おばちゃんへ深々と頭を下げた。
十四番常楽寺はこんもり茂った小高い立木の中に池があり、五十段余りの石段を上がると断層が見事な大岩盤の境内で、ちょっと変わっている。天然の岩をそのまま使っている。ここでも大日寺で会った歩き遍路さん(由美子さん)を見かけた。
昼食はお寺の下の小店でパンと牛乳を買って小店の横の鳥居の下で済ませた。
十五番国分寺は広々として豊かな展望と壮麗な美しさを誇っている。国分寺の白く長い土塀を左に眺め古い町並みにはいってゆく。十六番観音寺は軒が低く時間が止まったような商店街にある、国道を越え、道はさらにJR徳島線の踏み切りを越えると十七番井戸寺である。井戸寺にはお大師様が錫杖で掘ったという「面影の井戸」があり、この井戸をのぞいて、自分の顔が映れば長寿、写らなかったら不幸に見舞われるという。僕はもう周りが暗かったので井戸はのぞかなかった。今日の日程はここまでだ。歩き遍路さん(由美子さん)は観音寺までずっと見かけた。とても気になった。
宿は井戸寺の横の松本屋。この民宿は今回の遍路で一番いい宿であった。普通の田舎の家に手を加えず、そのままを民宿にしていて、その家族の一員としてもてなしてくれた。女将さんがとても親切で料理も美味しかった。大満足だった。
H16.11.3(水)晴れ
7:20宿を出発。井戸寺は田園地帯にあり、稲穂を既に刈っている田んぼに朝日が射し込んでいた。晩秋の風景の中をゆっくりと歩いて行った。
十八番恩山寺までは鮎喰川を渡り徳島市街地を通って行くコースと眉山(地蔵越)を山越えするコースがあるが、遍路姿で市街地を通るのは、ちょっと抵抗があったので山越えコースを選んだ。
鮎喰川を渡り眉山に向かって歩くと遍路の案内がある。更に登ると右に池があり公園になっている。車道の左側に細い道があり「ここから旧遍路道」との遍路の道しるべがあったので、この道を登ることにした。暫く行くと小川が流れていて、そこには猪脅しがあった。いい風情だなと思いながら、ちっと上の方を見るとプラッスチック類のゴミが見えた。そこを更に登ると、あるある冷蔵庫・テレビ・自転車などゴミの山だ。これにはガックリ。なんでここに、こんなにゴミがあるのか不思議に思ったが、その訳が直ぐに分かった。上に車道があり車からこの山に捨てたのだ。車道の脇ある「ゴミ捨て禁止」の立て看板が虚しく見えた。
この峠を越え国道55号線に出て南へ行くと十八番恩山寺だ、地図を見るとかなりある。
途中、ご婦人から缶ジュースの接待を受けた。納経札を渡し合掌する、お接待への対応も最初は緊張していたが今ではスムーズに出来る様になってきた。だが感謝の気持ちが全く変わらないのは言うまでもない。
この国道は真っ直ぐな道ばっかりで単調で果てしなく遠く感じられる、ただ黙々と歩いた。
12:20十八番恩山寺到着。このお寺は、お大師様が母堂を迎えるために女人解禁の秘法をした寺だ。
この恩山手寺で若いカップルの歩き遍路と会った。話を聞くと野宿をしながら遍路しているらしい。(実はこの二人カップルでなく地元の徳島市の姉弟で弟が福原くんで野宿はこの徹くんだけ)
恩山寺のお参りを済ませ山門を下った所にある牛舎の横から十九番立江寺への遍路道を行こうとしていたら、軽のワゴン車が目の前で止まった。その車から出てきたご老人が「そっちじゃないよ、下の道から右にいったほうがいいよ」と忠告された。しかし僕が行こうとしている道には確かにへんろみち保存協力会の道しるべがあるし間違いないのだがなあ…と思ったが、せっかくの忠告だ、素直に「わかりました。ありがとうございます」と返事をしたら「それじゃ接待させてもらいます」とパン、バナナ、缶コーヒ(熱いほうがいい、冷たいほうがいいと問われたので熱いほうを頂いた)の接待を受けた。
立江寺への道中、またあの姉弟遍路と一緒になった。やはり二人とも若いので歩くのも速い。姉弟で遍路とは、なにか訳でもあるのか。遍路に訳を聞くのはダブーであるので聞かなかった。途中にお京塚があったので、僕は遍路の本で言われ(浮気相手とともに夫を殺害したお京が黒髪を鉦の尾に巻き上げられたという伝説)を知っていたから、歩きながら二人に説明したら「へえ~」と説明に聞き入っていた。(地元の人に感心されて、ちょっと変な気持ちにもなったが、得意になって説明してしまった。)
立江寺に着いた頃には、この二人は見当たらなかった。
立江寺でお参りを済ませ山門の近くの長椅子に腰掛けていたら、話好きのおばちゃんが来てビニール紐で編んだ小さな草鞋に五円玉を付けたお守りを頂いた。おばちゃんの話によると、車遍路の人がその前の道に駐車していたら、警察がきて駐車違反の七千円の反則キップ切ったらしく、「何も遍路さんにそんなことをしなくてもいいのに…。」とひどく怒っていた。
このおばちゃんと色々話しをしていたら、あの大日寺で会った若い女性の歩き遍路(由美子さん)がやって来た。話好きのおばちゃんが直ぐ話し掛けて、三人で色々話しをした。
由美子さんは東京からの遍路さんで八十八番までの通し打ちらしい。
立江寺までの途中、車の接待で僕に追いついたそうだ。おばちゃんが「若い女性が知らないひとの車に乗ったらいけないよ」「この人(僕のこと)と次の宿まで一緒に行ったら」と言ってくれたが、もう既に立江寺の宿坊に予約しお金も払ったとのこと。ああ残念この夕方にひとり寂しく歩くより由美子さんと一緒に歩いた方がどんなに楽しいことか…。(遍路がこんな事を考えたらダメだ!!改めて煩悩だらけの自分に気づく)
由美子さんはおばちゃんから小さな紙切れのお守りを貰って「これを飲んだら元気が出るよ」と言われて、口の中に入れてゴクリと飲んでしまった。
ああ、道草をしてしまった。次の宿金子屋に暗くならない内に着かなければならない。
境内で二人と、お別れをして寂しく夕日へ向かって歩いて行った。
金子屋に着く頃には日は落ちて暗くなっていた。宿は民宿というより旅館だ。遅かったので直ぐ風呂に入って夕食にした。食堂に行ったら団体客の食事は既に済んで、広い和室に中年の男性客と、女性客二人の三人だった。あいさつをして話しをすると三人共遍路で、遍路の話しで盛り上がる。中年の男性は愛知県から来た安廣さんで今回、二回目の歩き遍路さん。女性二人は秋田県から来た佐々木さん親子でタクシーと歩きでの遍路をしているそうだ。
女将の話によると、ここにも元民主党々主の菅さんが泊まったそうで菅さんの遍路姿の写真と菅さんが書いた色紙を飾っていた。
H16.11.4(水)晴れ
7:10金子屋出発。金子屋の直ぐ前で十八番恩山寺から十九番立江寺までの道中一緒に歩いた姉弟遍路の福原くんと会った。「お姉さんは一緒でないのですか」と尋ねると「今から来ます」ここで待ち合わせしているとのことだ。話しを聞くと、昨日は直ぐそこの橋の下に泊まって、姉は徳島市の自宅から母に車で送ってもらって、ここで合流して二十番鶴林寺へ登るのらしい。暫くしたら車がきた。僕と福原くんとが話しをしているのを見て、お母さんと、お姉さんが車の中から会釈をしてきた僕も話しはしなかったが軽く会釈をして、その場を離れた。
向かうは二十番鶴林寺。鶴林寺へはずっと登りである地図を確認しながら歩いたつもりだが車道に出てしまい遍路の道しるべが全くない。地図とコンパスとで現在を地確認すると確かに間違っている地図で見ると、1km先に鶴林寺へ行ける道があることが分かった。安心した。
暫くすると下からタクシーが登ってきた、「金子屋」で会った秋田の佐々木さん親子が乗っていて手を振っていたので僕も大きく手を振った。
8:35鶴林寺着。鶴林寺は杉の巨木の中にどっしりと立つ仁王門がある。焼山寺と同じく山寺で、いい雰囲気をしている。
階段を登って行ったら境内のベンチに「金子屋」で会った愛知の安廣さんが腰掛けていた。
9:00二十一番太龍寺に安廣さんと一緒に出発。道中、安廣さんと色々な話をしながら歩いた。昨日初めてあった人とは思えないくらい親しくなった。途中の遍路小屋で秋田の佐々木さん親子と会った。記念に三人で写真を撮って「あとで送ります」と約束して、また安廣さんと一緒に太龍寺へ出発した。
11:40太龍寺着。太龍寺にはロープウェイがあり、石垣が立派で大きい寺だ。ロープウェイの売店に行ってビールを買って飲んだ。「うまかった」安廣さんと一緒にロープウェイの前の広場で昼食をした。お参りをすませ太龍寺を降りようとしたら、また由美子さんと会った。驚いたのは安廣さんが由美子さんを知っていたことだ。
歩き遍路は会ったり別れたりと、どこで再会するか分からない。由美子さんはパワフルだ、よくあの荷物(持ってみたが10kgはあっただろう)で歩いて僕たちに追いついたものだ。
あの立江寺で飲んだ小さなお守り札が効いたのだろうと由美子さんが言っていた。
由美子さんは着いたばかりだったので僕たち二人で二十二番平等寺へ出発した。
途中の遍路小屋で休憩したら、また由美子さんが来た。一緒に歩いてもよかったが、どうしても休憩時間分のずれがあるので一緒にはなれない。歩き遍路にとって5分10分は貴重な時間だ、もっと余裕を持ちたいのだか。
平等寺へ行くには国道のコースと山越えのコースがある、二人とも山越えのコースにすることにした。由美子さんも山越えのコースだ。峠を越えて田んぼの畦道で休憩していたら、通りがかった、おばさんからみかんを頂いた。その場でむいて食べたら美味しかった。
平等寺近くになって、やっと由美子さんが追いついてきた。三人で歩いていたら犬が来て平等寺までついて来る、地元の人が「この犬はお遍路さんをお寺まで案内するのですよ。」と
話していた。
三人でお参りを済ませ。僕と安廣さんは平等寺よこの民宿「山茶花」を予約していたが、由美子さんは、まだ決めていなかったので「山茶花に僕たちと一緒に泊まったら。」と進めた。
直ぐ携帯電話で予約したらOKの返事。今日は三人一緒だ。
宿に行って女将に部屋を案内してもらった。民宿と言うより料亭だ。僕は奥の一番大きな部屋というより30畳位の大きな宴会場だ。そこにぽつりと布団が置いてあった。
風呂も一つで便所も男女別々でない。由美子さんをこの宿に誘ったが、ちっと悪いことしたな~と思った。しかし夕食は三人で遍路のことや色々お話をしてビール・日本酒とどんどんいけて大変楽しい夕食。今回の遍路のクライマックスだった。しかし少々飲み過ぎた。
H16.11.5(木)晴れ
翌日の朝食も三人一緒に食べて、出発は三人別々となった。僕が最初に出発した。女将から「今日は大丈夫ですか?」と言われ「二日酔いで辛いです」と答えたら女将からケラケラ笑われた。ああ反省。
由美子さんは、まだ部屋にいたが「由美子さん先に行きます、薬王寺で会いましょう」と言って出発した。(その後由美子さんと二度と会うことはなかった。)
7:10二十三番薬王寺へ出発、晩秋の朝は空が澄み切ってとても気持ちよい。足の疲れもない、どんどん進むことが出来る。最初のころは細い車道で車も少ないが広い国道に出ると車も多くなり、大型トラックが爆音をたてながら通過する。特にトンネルは最悪だ、大型トラックが通過する度に風圧を受け煽られ菅笠を強く持たないと頭毎ブルンと揺れ飛ばされそうだ。
途中、遍路小屋があったので休憩した。ノートがあったので見ると皆さん色々書いていたので僕も「安廣さん、由美子さん薬王寺で会えなかったら、ここでご挨拶。お世話になりました。道中気をつけて下さい。合掌」と書いた。二人が読んでくれるといいのだが。
12:10薬王寺着、階段の登り口の太龍寺でお話しをした品の良い老婦人二人と再会したので少しお話をしていたら、安廣さんが到着した。「由美子さんは一緒じゃなかったのですか」「いいえ安廣さんと一緒じゃなかったのですか、海亀の里にでも行ったのでしょうか。」お互い由美子さんとは会っていない。
この薬王寺は司馬遼太郎の「空海の風景」の中で紹介されている。厄年の人が歳の数だけ賽銭を置くと厄を落とすといわれていて、石段には数多くの賽銭が置かれている。四国八十八ヶ所でも有名なお寺だ。 安廣さんとお参りを済ませ、少し話しをして別れた。
取りあえず、昼飯を食べるのに、食堂を探しながら今日の宿をどこにするか色々考えたら、両方共なかなか結論がでず、時間だけが過ぎてゆく。休みは11月7日までだ、最後の7日は移動日なので実質のこりは1日である、室戸岬まで、ここから歩いて2日かかるから今回全て歩いて室戸岬まで行くのは、どう考えても無理だ、今まで約160km歩いてきたので拘りがある。そうかと言ってここ日和佐駅から徳島へ戻るのも中途半端だ。腹がへってはいい知恵も浮かばない。駅の近くのうどん屋へ入った。入ったうどん屋はセルフサービスで具は好みを選べて、ねぎ・天かすは好きなだけ入れられる。食べていると隣に髭をはやしたイカツイ男性が座ってきて、「歩きですか」と話しかけてきた。話を聞くと地震のことについて素人研究しているらしく地震予知のことを熱っぽく話をしてくれた。
食べ終わって別れ際に「高知まで乗っていきませんか」と誘われた、今から交通機関を使おうかどうか迷っていたのにもかかわらず反射的に「いいえ歩きですから…。」と断ってしまった。昼食を手短に済ませるつもりだったが長くなった、列車で足を伸ばすことに決断した。
日和佐駅は直ぐそこだが線路を挟んで反対側にある、しかも踏み切りは見当たらない。向こうを見ると線路のフェンスに隙間があるので、そこから駅に行った。都会の駅だったら絶対無理だが、列車は一時間に一本あるかないかだから安全だ。
駅に着いて時刻表を見ると牟岐方面の次の列車は1時間待ちだった。しかたがない待つことにした。歩き遍路には「待つ」ということは無いが、交通機関を利用すれば「待つ」ことが必ずある。ここから一時俗世界だ。
小さな駅舎で何もすることがなく、ぼんやりとしていたら太龍寺と平等寺で会った、品の良い老婦人二人が来た。親しい友達と会うかのように「あら…」と直ぐお話。
二人は友達同士でカナダのバンクーバー(日本人)と東京から来ていて、今日で遍路は終わり徳島市まで列車で戻る。待ち時間があったので三人で色々お話をした。
徳島行きの列車が着たので、駅のホームに出て見送ることにした。二人は車窓から僕を見てニコニコして見えなくなるまで手を振っていた。僕も見えなくなるまで手を振った。なんだか寂しい気持ちになった。
暫くして牟岐行きの列車がやってきた。客は少なくゆったりと座れる、こんな姿で乗っても誰も気にも留めない。やはり四国だ、遍路姿には慣れている。
次の駅で僕と同じ歳位のご婦人が隣に座った。僕をみて直ぐ話しかけてきて、どこから来たのかと尋ねられ、「長崎からです」と答えると、ご婦人も長崎へは最近旅行で行ったことがあるそうで長崎の観光について、ご婦人が駅につくまでずうっと話していた。
終着駅の海部町に着いたらもう夕方だった。
今日の宿は予約していなかった。へんろみち保存協力会が発行しているガイドブックを見て生本旅館に行ったが満室で断られた、やはり予約は当日の午前中までにしないとだめだ。
次に、みなみ旅館に行った。生本旅館に行って断られたことを告げたら「いくらお遍路さんでも予約がないと泊められないですよ」と言われた。一瞬「しまった!」と思った。「遍路だったらどうにかなるだろう」と甘い考えがあった。宿の主人も暫くして「じゃ何とかしましょう」言ってくれ、ほっとした。
H16.11.6(土)晴れ
朝食の時に宿の主人に「今日歩いて室戸岬まで行けますかね」と尋ねると「室戸岬までは無理でしょう。バスで甲浦まで足を伸ばしたら」と言われ、そうすることにした。
6:30出発、主人から昼食のおにぎりご飯の接待を受けた。「色々お世話になりました。無理言ってすみません」といって合掌すると主人「道中気を付けて下さい」いって合掌して見送ってくれた。本当に心から感謝の気持ちでいっぱいだ。
バス停に着くと、バス停の小屋で60歳位と30歳位の男の遍路と会う。二人はこの小屋に泊ったらしく粗末な毛布を包まっている。若い遍路の方は寒いのかぶるぶる震えている。老遍路は眼光鋭く威圧感がある。二人は歩き遍路で知り合って一緒に行動しているそうだ。二人共すごく汚れた白衣を着ていて、見ためはホームレスだ。色々訳が有るのだろうが何も聞かず、バスが来たので乗った。合掌して別れたが、あの二人は帰る所もなく、待っている家族もいないのだろうな…と思ったら少し悲しくなってきた。
バスは甲浦の先の白浜で降りた。さあ、ここから室戸岬まで歩くのだ。太平洋から昇った朝日が真っ赤に輝き海も赤に染まってとても美しい。
室戸岬まで43kmで今回の遍路で一番きついだろう、一歩一歩進むしかない。
地図を見ると殆ど真っ直ぐだ。しかも民家が少ない。暫く歩くと、国道を挟んで左は海、右は山の果てしなく続く絵の遠近法の風景になった。海は太平洋の荒い波で刻まれた岩がゴツゴツしている、右の山も断崖絶壁で、人造物は果てしなく続く道だけだ。
ただただ前へ歩くだけで単調で精神的にまってしまうのではと、ちょっと不安になってきた。
遠くの方に、歩き遍路と思われる人が見えてきた、「もしや由美子さんかも…」由美子さんも列車で足を伸ばすことを言っていたので、あの遍路さんが由美子さんの可能性は十分ある。そう思うと急に元気が出てきて足も速くなってきた。暫くして近づくと男性である、(残念、疲れがどっと来た)リュック姿が由美子さんの後姿に良く似ている。
休憩していたので、僕も一緒に休憩した。大阪から来た青年で失業しているそうで、通し打ちだ、しかし靴はスニーカを履いていてこの靴では通し打ちは無理かなと思った。現に足はマメが出来て、かなり痛いらしい。
途中この青年と休憩の度に会った。果てしなく続く真っ直ぐな国道を黙々と歩いた。大型トラックが爆走し、その度に菅笠が揺れる。
台風による被害があっちこっちあり道路工事を行っている、工事をしている人を見ると何故か、ほっとする。ガードマンがいたので、もしかしたら由美子さんが通ったかもしれない。「若い女性遍路は通りませんでしたか?」と尋ねたが「知らない」との返事だった。
中年の男性の自転車遍路と会う、僕に近づくと自転車から降りて押しながら話かけてきた。愛知から来た人で十八番からで明日11/7に高知まで行って飛行機で帰るそうだ。自転車は車道を走るから危ないと思った。「気をつけて行って下さい」と言ったら再び自転車にまたがり、道が下り勾配だったので、見る見る内に自転車は小さくなっていった。
歩いても、歩いても風景は一向に変わらない。
きのう泊まった、みなみ旅館の主人が作ってくれた、おにぎりを国道の脇の小道で食べた。本当に美味しい、指に着いた残りの一粒でも美味しい。その場で横になって休憩した、そのまま寝てしまいそうだった。
延々と続くアスファルトを「バタバタコツ、バタバタコツ」と両足と金剛杖の三拍子でただただ歩いた。やっと岬が見えてきた、ああもうすぐだと思ったがなかなか近づかない。日は暮れるし足の痛みは限界だ。バス停があったので時刻表を見ると岬まで30分待ちである、お大師さまが「もう少しだから頑張りなさい」と言っているのだと自分に言い聞かせて歩いた。暫くして青年大師像が見えた。やっと着いたのだと実感したら目頭があつくなりこみ上げてくるものがあった。
今まで出会った人たちの回想をしてくる内に益々涙か溢れてくる。おかしなものだ、結願して涙か出るという話は聞いたがまさかここで涙とは。
青年大師像の直ぐ近くにきた。とても大きい確かに、お顔は青年だ。この地で修行をしたのだろう。そこを過ぎると空海が実際に修行した洞窟「御厨人窟」に着いた。もう午後6時を過ぎて暗くなっていたがこの洞窟に入ることにした。
中は暗くただ蝋燭の炎だけで何とか見える。何か霊気を感じる。空海はここで修行をして虚空蔵求聞持法により口に明星(金星)が飛び込んできたという伝説がある。今は地形が隆起して海は数十メートル先だが、空海が修行した1200年前は海がすぐそこだったのだろう。そんなことを色々思っていたら、益々暗くなってきた。
今日の宿は二十四番最御崎寺の宿坊だ。この岬の上にある、まだ登らなくてはならない。
慌てて、最御崎寺への登山道を最後の力を振り絞って登った。着いたのはもう午後7時で真っ暗だった、やっと着いた。
後で知ったことだが、放浪の詩人「種田山頭火」が昭和14年11月6日の丁度65年前のこの日に、この地を訪れ「いちにち物いはず波音につつまれて食べて寝て月がさしたる岩穴」と詠んでいたのだ。そして翌年の昭和15年に松山にて58歳で没している。
お参りはもう暗くてできないので、直ぐ宿坊へ行った。宿坊といっても立派な建物だ。団体遍路が多くいた。その中のお先達さんから声を掛けられ、歩き遍路のことについて色々話をしてくれた。その話の中でちょっとショッキングな忠告をされた。「その数珠はいつも首に掛けているのですか?」との質問で、僕は焼山寺までの山越えから数珠を首に掛けていた。「数珠を首に掛けるのは僧侶が罪を犯した時に数珠を首に掛けられたり、数珠で手を縛られたりするもので、首に掛けるのは、やめた方がいいですよ」と忠告された。知らないとはいえ、ああ恥ずかしい。
遍路するには色々決まりごとがある。例えば橋では金剛杖は突かないとか、金剛杖には刃物をあてないとかさまざまだ。あまり拘らないと言う人もいるが僕はやはり「お大師様」と一緒に歩いていると信じて遍路しているから無視することが出来ない。無視することは僕にとって遍路自体が成り立たなくなってしまうのだ。ただ五戒については既にムカデも殺したしお酒も飲んだ。人間ってご都合主義だ。
風呂を済ませ食堂に行くと団体さんで一杯だ、客は年配の方ばっかりだが修学旅行を思い出す。皆さん遍路さんですぐその話で持ちきりだ。話を聞くと皆さん様々な思いで遍路をしている。ただ共通しているのが笑顔で幸せそうに話をしているところだ。
室戸岬までの道中会った大阪の青年はこの宿坊に泊まると言っていたが来ない。途中でリタイヤしたのでは…。
H16.11.7(日)晴れ
午前6時からお寺のお勤めがあったので参加した、今回の遍路で初めてのお勤めである。
先ず、般若心経から始まり住職の説法だ。三十人前後集まり前列には外人さん達が座っている、熱心に住職の話に聞き入っているが意味が分かるのか疑問だ。仏教を信仰しているのか、ただ日本文化に憧れているのか分からない。
昨日、数珠のことで忠告してくれたお先達さんが直ぐ後に座っていて、僕が掛けていた袈裟の向きが逆になっていたのをそっと直してくれた。優しい人だ。
最御崎寺のお参りを済ませて、次の室戸市街地にある二十五番津照寺へ向かった。
太平洋と海岸線と室戸の町が一望できるヘアピンカーブのくねくねした道を下った。
足元から吹き上げる朝の海風が心地よい。
二十五番津照寺は町の中の丘にある、文字通り漁師の守り仏としての津を照らす寺だ。鐘撞堂は朱色で竜宮城を思わせる、お寺はちょっと小さ目で本堂は中までぐるっと回ってお参りできる様になっている。
10人位の団体のお遍路さんと一緒になった。この団体さん達の読経はかなり年期が入っていてしかも大勢で読経するから本堂に鳴り響いて迫力がある。これが本物の信仰だとなぜか思った。帰り納経所で住職らしき人に記帳して頂いた。その時「この納経帳は一番霊山寺で買ったでしょう。八十八番からお礼参りで一番に記帳するようになっているけど、しなくていいよ。納経料の金儲けのためだから」と真顔で話した。「ああ、そうですか」とりあえず返事をした。後でちょっと計算しだら「三百円の納経料で年間に遍路が二、三万人お参りしたとして、ええと…なるほどそんなに…」とつい俗っぽい考えをしてしまった。
室戸の町を過ぎて、次は今回の遍路で最後のお寺になる。二十六番金剛頂寺だ。途中海岸に入って砂浜を歩いてみた、波の音だけでとっても静かだ。映画「砂の器」の親子遍路が砂浜を歩いている一場面を思い出した。
金剛頂寺は標高165メートルの頂上にある山寺で町の寺とはどこか趣が違う。
時間的に余裕があったので景色を見ながら山登りの気分で歩けば楽しい。直ぐ山門についた。本堂から大師堂に参りしていたら、室戸岬までの道中で知り合った、あの大阪の青年と会う。「最御崎寺の宿坊へはこなかったですね」と僕が聞くと「ええ、足が痛くて下の宿に泊まりました」…やはりあのスニーカではちょっと辛いだろと思った。少し話しをして「頑張って」と言って別れた。
今日の今回、最後となる宿は金剛頂寺の登り口近くにある民宿「うらしま」を予約していたが、登った同じ道を戻るのも面白くないし時間もあったので、反対の道から降りた。
降りた所にキメラッセ室戸の鯨館があったので見学した。なるほど室戸は捕鯨で有名な所だったのだ。
まだ時間があったが室戸市の方へ戻って民宿「うらしま」に着いた。
これで今回の歩き遍路は終了した。宿で金剛杖と菅笠を梱包するための新聞紙とビニール袋をもらって帰り支度をした。ほっとする気分とちょっと寂しい気分で複雑だ。
H16.11.8(月)晴れ
バスで奈半利まで行き、列車で奈半利から後免、JRで後免~岡山~博多~長崎。家に着いたのは夜の9時すぎだった。