7 魔族ヴィンターは震える
「ヴィンター」
「は、はい、シュルケ様!」
荒涼とした大地の上空で、ヴィンターは絶対零度よりも冷たい視線を浴びていた。
「ワタシが命じたのは勇者どもの殲滅であって、同士討ちをしろとは一言も言っていないのですが」
「シュルケ様の言う通りです!」
「では、この状況を説明してもらえますか?」
「えっと、シュルケ様が全部やりました!」
「ほほう?」
土がむき出しになり、荒れつくした地面は、確かに目の前の最上級魔族・シュルケが放った放った一撃によるものだ。
炎よりも赤い髪、額に生えた双角。体つきこそヴィンターよりも小さいが、その力は何十倍。
「目の前の敵を倒すくらいはできるかと思っていましたが、まさかここまでヴァカだったとは……」
容赦なく酷評されても、ヴィンターは何も反論できない。
確かに、シュルケに命じられたのは勇者たちの抹殺。下級魔族の軍勢を使って、向かってくる者たちを殺せ、とのことだった。
しかし、実際は、
「なんで、ワタシが、貸した、魔族どもが、逃げかえって、きたのですか?」
ヴィンターの放った魔法が、シュルケの軍勢の大半を焼き尽くしていた。
「人間のせいです!」
「ほお。勇者たちがそれだけ強かったと?」
「い、いえ、なんか黒い奴が一人で……」
「たった一人にやられたと?」
「はいっ」
直後、容赦ない一撃がヴィンターの腹をえぐった。
悲鳴を上げる余裕もなく、地面にたたきつけられる。
手加減されていなければ、ヴィンターは風船のように破裂していただろう。シュルケはそれだけ強い。
「えぐっ、ごほっ」
「もう一度聞きます。本当のことを話しなさい」
「ぐ、ぐっ、はいっ」
「ワタシの兵を壊滅させたのは誰です?」
「お、オレ、です」
「よろしい」
いつの間にか隣にいたシュルケが、今度はヴィンターの頭を踏みつけた。
「ぶふっ!」
土を食う羽目になった。顔面の半分を土に埋められて、それでも乗せられた足からは力を抜いてもらえない。
「嘆かわしい。たった一人の人間にいいように扱われ、それで同士討ちをしたと? バカだバカだと普段から思っていましたが、まさかここまでのヴァカだったとは」
「す、すみませ……」
「黙っていなさい」
シュルケの言葉には、棘と怒りが込められていた。背筋に氷柱を突き刺された気分だ。余計なことを言えば、次は容赦なく殺される。
「腹立たしい、実に、実に腹立たしい。無能が心底無能だということを見抜けなかった自分も腹立たしい」
よほど頭にきているらしく、シュルケはヴィンターには思いつかないほどの呪詛を吐いている。
「王より賜った軍を、こんな形で失うとは。次に王にお会いしたら、厳罰に処されます。消滅させられるならまだマシな方。下手をすれば、力を奪われてスライムの仲間入りです」
謝罪すら許されなかったヴィンターは、地に埋まりながら平伏するしかない。
「それでいて、さらに、今の一撃でたった一匹の虫すら消せなかったとは。ああ、ワタシもいつの間にか無能になってしまったのでしょうか」
「……!?」
――まさか、シュルケ様が仕留めそこなった!?
シュルケが、やっと足をどけてくれた。土まみれになりながら、ヴィンターは恐る恐る顔を上げる。
ぼやけた視界の中に、赤と、黒の影が見えた。赤は分かる、だが、黒は、
「あの、人間……?」
次第に視界がはっきりしてくる。その中にいたのは、シュルケと黒い姿の人間だった。
――どうやって生き延びた!?
先ほどの赤い雨、シュルケの魔法に死角などない。どれだけ逃げ回っても、意味がないはずだ。
なのに、黒い人間は平然と立っていた。白い半球の中で、困ったように頭を掻いている。傷を負ったようにも見えない。
――人間の魔法でシュルケ様の攻撃を防げるわけがない!
どれだけ確認しても、人間の姿は消えない。
そればかりか、シュルケを見ても動じた様子がなく、平気でこちらに歩いてくる。
「……うぜぇ」
気だるげに、人間が言った。
「間抜けの相手をすりゃあ終わりかと思えば……。お呼びじゃねえよ、まな板胸」
「ワタシの姿を侮辱すると? 人間が?」
「ったく。チビ助、とっとと消えろ。そこのバカを連れてな」
人間から、先ほどまでの緩い空気が消えていた。そればかりか、こちらに向けて分かりやすい怒気と殺気を放っている。
「人間にしては、まあまあな殺気ですね」
シュルケもまた同じく。ヴィンターは、またも肝が冷える。
最上級魔族は、身振りだけでなく、気配だけで心の弱いものを殺す。上級魔族である自分でも、耐えがたい。
人間は、あくびをしながら、その殺気を受けていた。面倒くさそうにこちらを見やり、
「今なら見逃してやるよ。かったるいしな」
などと言ってきた。
「この先、邪魔をしないってんなら、二匹とも見逃す。邪魔をするってんなら、二匹とも殺す」
「人間が最上級魔族を殺すと?」
「最上級……? ああ、なんだ、あんまり小さいからそこのバカと同レベルかと思ったぜ」
――やめろ、人間! シュルケ様をこれ以上怒らせるな!
辺りを覆う殺気で、ヴィンターの精神核は砕けそうだった。震えが止まらず、涙すらあふれてくる。
頼むと祈る。もうやめろ、と。
「逃げないのか? なら、消すわ」
人間が言葉を発するのと同時に、シュルケが動いた。
ヴィンターの目でも捉えられないほどの速さ。一瞬という言葉ですら表せない速度で、シュルケが人間に肉薄する。
シュルケは、人差し指を人間に向けていた。突くだけで、人間の体など弾け飛ぶ。
瞬き一つの間に、決着がつく、はずだった。
「指一本で何ができるってんだ、ヴァーカ」
シュルケの手を、人間が掴んでいた。さらに、
「っ!?」
手が、握りつぶされた。
シュルケの背が震えた。ヴィンターからは表情が見えないが、驚きに震えたようだった。
「ぐっ……!」
下がろうとするシュルケを、人間は捕まえたまま離さない。むしろ自分に引き寄せて、すれ違いながら、シュルケの片腕をもぎ取った。
悲鳴が上がる。最上級魔族の、悲鳴が。
魔族とて痛覚はある。腕一本失えば、激痛に身をよじる。
ヴィンターは、シュルケの悲鳴を初めて聞いた。いつも高圧的で、味方にすら容赦のない魔族が人間に追い詰められている。
「うるせぇ」
ちぎり取った腕を放り捨て、人間がシュルケの腹を蹴り飛ばした。左横から薙ぐ一撃で、呆気なく吹っ飛んだ。
――嘘だろ……。
視覚からの情報が、頭で理解できない。
蹴り飛ばされた先で、シュルケは今の自分と同じように、地べたにはいつくばっていた。
意識を失ったのか、動く様子がない。
ヴィンターは慌てて声をかけようとするが、遅かった。
人間が魔法陣を展開している。先ほど、自分を倒そうとした魔法だ。
――最上級魔族が、あんなに、簡単に……?
恐ろしくなる。ただの人間だと侮り過ぎていた。あの人間は、化け物だ。
「漆黒爆炎嵐」
人間が短く呟くと、空に黒い球体が現れた。
最初はこぶし大に見えたものが、ゆっくりと大きくなる。黒い中に光るものが見える。黒い炎が、球体の中を駆け巡っていた。
球体が、シュルケの上に落ちる。同時、ヴィンターでは計りきれないほどのエーテルが、大気を縦横無尽に駆け巡った。
頭を抱えてうずくまる。熱がヴィンターの肌を撫でた。生きた心地がしない。シュルケのことも、頭からすっ飛んだ。
炎が収まるまでの時間が、十分とも一時間とも感じられる。死にたくない、という言葉だけを胸に思って、ガチガチと歯を鳴らしていた。
「ふん、ザコが」
この一声が聞こえるまで、一体どれほどの時間を感じただろう。
小動物のように縮こまりながら、恐る恐る視線を上げる。
寒々しかった大地が、焼け焦げていた。無事なのは、人間が立っている場所くらい。ヴィンターが死ななかったのは奇跡だとしか思えない。
思いだし、シュルケがいたであろう場所を見た。
――何も、無い……。
念入りに焼かれたのか、灰すら見受けられない。最上級魔族の終わりとしては、なんともあっけなかった。
「さてと、次はどうすっかな」
鋭い視線が、ヴィンターに向けられた。鳥肌が立ち、足がすくむ。うずくまったまま、動けない。
「上司は死んだ。消えたぞ。テメェはどうするんだ? ん?」
無意識に言葉が出ていた。震える舌を、必死に動かした。
「たすけて、ください……」
「命乞いか。魔族らしく、強い奴には逆らわないってか?」
「おね、おねがい、します」
必死に願う。すると、人間はつまらなさそうに肩をすくめて見せた。
「いいだろう。ただし、こっから先、俺様たちの邪魔をすんな」
「え……?」
「テメェらの考えはお見通しなんだよ。これ以上ちょっかいかけてくるなら、粉々にすんぞ」
「で、でもっ、それは……」
「できないか? なら、テメェも上司と同じように消すぞ」
「や、やります!」
「よーし。じゃあ、行け。ただし、魔族の一匹でも邪魔しに来たら、テメェを見つけ出して、念入りに消すぞ」
悲鳴をなんとか堪えつつ、ヴィンターは飛んだ。全力で、来た道を引き返した。
――振り向くな、振り向くな……。
黒い人間の視線を感じなくなるまで、震えっぱなしだった。生きた心地がしなかった。
――あんな化け物が勇者と一緒にいるなんて、聞いてなかったぞ! あの人間め! 私たちをはめたのか!?
あっけなくやられてしまったシュルケ。人間に命乞いをしてしまった自分。
怒りを感じるべきはずなのに、ヴィンターの心は安堵感でいっぱいだった。生き延びられて、安心した。
とはいえ、ここから先に配置された魔族を、急いで逃がさなければならない。同胞のためにではなく、自分が消されないために。
上級とはいえ、配下を持たないヴィンターにどこまで魔族は従うだろうか。
――い、いや、そんなことは関係ない。逃げない奴がいるなら、オレの手で消す!
敵と味方の区別もつかなくなるような頭で、ヴィンターは命からがら逃げのびた。




