二十三章二十一話 『腹の底から湧き上がる』
門番が一体、朱紋付き、吸血鬼が後世にて”最悪の魔物”と称される一番の理由は何だろうか。
最も多い死者数を叩きだしたのは同じ朱紋付きの獣王ベヒーモスだろう。
当時の社会に最も大きな影響を与えた、という点なら淫夢も有力だ。
議論の方向性、何に重きを置くかではそういった魔物が支持されることもある。
それでも、議論の多くは吸血鬼に行き着く。何故か。
対処のしようがないからだ。
殺意の定向進化によって誕生した生物兵器たるデザインは、この時代においてあまりに早過ぎた。
蝙蝠の群れを率い、獣から人へ、そして人から人へ伝播していく死に至る病。
人類への悪意に基づく、天然ではなく作為的に生み出された感染症は、アシタバのやってきた二十一世紀でも完全に抑え込む手段を持たない。
百年先も。二百年先も。五百年先も。
当時の資料に触れた学者たちは、同じようにため息を漏らした。
「この魔物が現代に現れていたとしても、被害は同じか、より悪化するだろう」
歴史上でも群を抜く広範囲殲滅能力、そして対処不能な拡散手段。
この二つを以て、吸血鬼は”最悪”と称される。
現在、橋の国王城内。
「あ、待ちなさい、ナツメちゃん!!!」
マダム・カンザシの声に構わず、銀の団の待機室から医師ナツメが駆けだしていた。
既にライラックら戦闘従事者は前線へ向かい、部屋に残っていたのは秘書ユズリハ、専属服飾士のマダム・カンザシ、フウリンとスズラン、ハゴロモ。侍女ナズナ。ライラックの妻ビスカリア。
彼女たち非戦闘従事者はその場で待機がベスト……だが、ナツメだけはそうはできなかった。
伝染る病に王都が襲われている、とは騎士たちの会話で理解できた。
城内の騎士達は混乱を極め、街の方角へ真っすぐ走る彼女を止める者はいない。
ナツメは王家御用達でありながら、前線の衛生兵を務めたこともある。
医者としての腕と実戦経験の掛け算なら世界で一番と言っても過言ではないだろう。
その彼女を以てして。
「誰か!手を貸してくれ!!」
「また蝙蝠が来るぞ!!逃げろ!逃げろ!!!」
「うわぁぁぁぁん、お母さぁぁぁん!!!」
王都の光景は、地獄だった。
血だらけで道の脇に蹲る者。空の蝙蝠に怯える者。泣き叫ぶ。怒鳴り狂う。
覚悟をして戦場に赴いた騎士が巻き込まれるのとは異なる。
争いとは無縁だった者達が、理不尽に引きずり込まれた阿鼻叫喚。
ヴァンパイア血戦において、蝙蝠の噛みつきは”黒死病”感染原因の二割にしか満たない。
残り八割は人から人の感染。
傷ついた者を助ける。手当する。噛まれた後、何とか避難所まで逃げ切る。
仲間を助ける想い。眼前の恐怖から逃げ切ったつかの間の安堵。
それらに乗って、黒死病の感染拡大は拡大する。
「……………」
そんな病原菌の生態など知る由もなく。
少しの逡巡の後に、医師ナツメはその地獄へと飛び込んでいく。
「テメぇらもっと気合入れろ!防具ちゃんと付けただろうな!!」
橋の国、王城。
城内の階段を駆け上がる幾つもの足音、先頭を駆け叫ぶのは銀の団【鷹の目】のジンダイだ。
その後ろに同じライラック班、ブッドレア、パースニップ、ユッカ、ネジキが続く。
ヴァンパイア血戦開幕時、医師ナツメより先に待機室を出たライラック班は三方向に分かれた。
最速で正門に向かい、異常を確認しに行った【黒騎士】のライラック。
城内の騎士との合流を優先し、共同して事態に動く音楽隊の四人と、アルストロメリア。
そしてジンダイと新兵四人は高台のバルコニーを目指し六階分の階段を駆け上がる。
「対空警戒!展開して矢準備!!」
開けたバルコニーに辿り着いた五人は横一列に展開する。
彼らの目的は高台からの援護射撃。
異変が起こってからすぐに上階を目指した彼らは、この高台から状況を確認し臨機応変に動く、という目論見だった。
「何だ……これは……」
黒砦を経験したジンダイでさえ絶句してしまう。王都の空を覆う蝙蝠達。街から聞こえる悲鳴と怒声。
地上で起こっているらしい幾つかの戦闘……彼らは一目で異変の全容を理解した。
「ジ、ジンダイさん……!」
「お前らは空の蝙蝠撃ってろ!数減らすより注意寄せ!」
即断、部下達に行動を指示したジンダイは、周囲の詳細な観察に移る。
(空の蝙蝠がやばいのは一目瞭然……逃げ場のない地上の市民を狙い出したらやべえ!
王城に逃げ込めば籠城戦に移行できる俺たちが惹きつけられれば最低限仕事はこなせる………!)
この異常事態の中で、本当に自分の仕事はそれだけでいいのか。
ジンダイは必死な目を動かし、異変を三箇所見つける。
一つ、王城中庭側。
彼らのバルコニーからは全てを俯瞰できない方角だが、何人の騎士が集まり何やら騒々しい。空の異変異常の事態が起こっている。
二つ、王城西側の土煙。
よく見れば土煙の前には人型の魔物がいる。バノーヴェンで見た、ヴァンパイアだ。
空中で蝙蝠にぶら下がる彼の眼下では、王城の外壁が崩れ落ちていた。
その下から湧き上がる黒い呪いの手……ローレンティアが交戦をしている。
(朱印付きが攻めて来ているのか……!)
そして三つ目、王城正面。
見慣れた黒い鎧、【黒騎士】のライラックが既に戦闘に加わっている。
対峙するはーー。
「何がどうなってやがる!」
二体目の朱印付き、デュラハンだ。
橋の国、王城前。
「やはり、貴殿は良いな」
二人の騎士が、槍と大剣を捌き合う。
ライラックとデュラハン、高い動体視力と深く蓄積された剣技が織りなす斬り合いは、一呼吸の内に幾多の火花を散らす。
互角……と言えるのだろうか。デュラハンは悠々と構え、一方のライラックの顔色は優れない。
二人の周囲の地面には、切り払われた騎士達の血飛沫が残っていた。
今も二十人ほどの騎士達が、二人を円形に取り囲む。
彼らの顔色も優れず、そして戦いには参加できないでいた。
ライラックを助けようと切り込んだ騎士達は例外なく切り払われ、深傷を負って彼らの後ろに倒れている。
横槍も入れられない。そんな密度と緊張感の、両雄の対峙。
「打っても打っても耐える。新たな剣筋で打ち返してくる。
並みの者ならとうに折れているぞ……ここまで長引く切り合い……嗚呼……良い……!!」
戦いへの悦び。
ライラックの卓越した目が捉えた、デュラハンの実態の一つだ。
剣を交えることは、相手にとって人間を知ることだ。
それが充実したものであるほど、彼の使命を全うできていると言える。
「ライラック様!!」
怒声、一閃、鮮血が散る。
また一人、デュラハンが背を向けたと勘違いした騎士が助太刀をしようとして切り払われる。
フォローしようと動いたライラックを、デュラハンの剣技が壁のように阻む。
拘束と迎撃を一呼吸の間に、一本の剣で実現する。
「………果敢なことだ」
デュラハンが呟く。ライラックに言わせれば無謀だ。
この場と自分の実力差が分からなかった訳ではないだろう。
若い騎士を死へ向かわせたのは焦りだ。
王城に姿を現した怪物に、自分たちでは敵わない。
唯一望みがあるのは、斬り合いを結べている英雄だ。
それも優勢ではなく劣勢。だからこそ。
だからこそ、自分の足掻きが少しでも英雄を助けられれば。
怪物と英雄を取り囲む騎士たちも、その熱に感化されていく。
「賑やかだなぁ……貴殿ら全員でかかって来ても構わないぞ」
「………………」
倒しようのない怪物と、唯一張り合える英雄へ。
“期待”が、集中していく。
「はははははは!!!」
橋の国王城、城内。
高笑いをし風のように奔るのは蝙蝠男が一体、プライドだ。
そして彼の両隣りで、赤い鮮血が舞う、舞う。
吸血鬼の忠実なる僕、そして戦闘狂。
その思考原理の彼が敵の城内に入れば、やることは一つだ。
避難民を、両の爪で切り裂いていた。
蝙蝠達の急襲から逃れ、城内に逃げ果せ、互いに傷の手当てをし合っていた者達を。
慈悲もなく。両断していく。
「貴様ァァアアあ!!!!」
追うのは三人。レスティカーナの騎士スプレイセン。
そして銀の団、【狼騎士】レネゲードと【荒波】のベニシダ。
「―――なんて奴だ。こちらの最悪を的確に見抜いている……」
「海賊の野郎どもだってあんな下衆はやらない……!」
ベニシダが鞭を放つ。それを敵の、刃のような手刀が弾く。
敵の目的は城内の殲滅。あわよくば国の要職を探し出して抹殺。
その為にベニシダ達とは事を構えない。
一人でも多く敵を減らす。そのために行動する。
通り掛けの殺戮をしながら、健脚で王城の奥へと進む。
「―――おや」
人間の城など初めて。装飾や建物の造りを見ながら勘で進んだプライドだったが、嗅覚は鋭かったと言えよう。
曲がり角を曲がると、プライドの目に荘厳な装飾の扉と、その前に立つ橋の国の騎士達……加えて、銀の団の“音楽隊”とアルストロメリア、執事タランテルの姿も見られた。
この非常事態で人を残すほどの要地……”当たり”だ。
だが立ち止まったプライドに、スプレイセン、レネゲード、ベニシダの三人が追い付く。挟撃の形だ。
「ふむ……どうやら互いに正念場、というところみたいですな」
悪鬼のように走り回ったかと思えば、執事のように立つ。
包囲する騎士たちは、久しい人型の魔物との接敵に決意を固めていく。
「ザナドゥ様が従僕、プライド……推して参りますよ」
吸血鬼側の残った頭数は四人。
吸血鬼。首無し卿。プライド。そして―――。
「あははっ、やぁだ、私ったらとってもついてるみたーい」
人をくすぐり嗤うような声が王城中庭で響く。大人びた女性の姿――蝙蝠男、ラスト。
王城の低めの屋根の上に立つ彼女は、中庭の中央で立ち尽くす人間を嬉しそうに見下す。
女王マーガレット。付き人の騎士団と……そして、侍女エリス。
相対する人間が高貴な身分だろう事は、周囲に侍らせた部下と衣装で分かる。
「偉い人を殺せって命令……果たせそうねぇ」
「団……長………」
その戦いを見守っていた【鷹の目】のジンダイが、思わず呆然としてしまった。
ローレンティア対、吸血鬼。
「ははははぁ!そのしぶとさは褒めてやるぞ、女ァ!!!」
王城の壁に、巨大な蛇が這ったような凹みの筋が残っていた。
吸血鬼が掴み、押し付けて引きずったことでできた、ローレンティアの呪いと王城外壁の摩擦の跡だ。
「いい目になった!その獣じみた目!
だがまだ足りないぞ!守って守って守って、お前は全く仕掛けてこないな?
だからジリ貧、詰んでいくだけだ!」
攻撃手段のないローレンティはただひたすらに時間稼ぎに徹するしかなかった。
戦闘狂、知性魔物の朱紋付き相手に明確な策もない長時間の対峙。
それが何を招くかは、ローレンティアもよく分かっていた。
蛇女神。蜘蛛女。賢人馬……対峙した時の心臓が凍り付くような冷気は覚えている。
既にローレンティアの表情に余裕はなく……敵に動きは読まれ切っている。
届かない。
「もういいぞ。お前は寝ていろ」
“赫火道砲”……ローレンティアが呪いごと、蹴りで打ち抜かれる。
体を奔る衝撃。視界に散る火花、突風が体の芯を貫く。
瞬間、ローレンティアは黒い隕石となって空を過ぎり―――古典街へ墜落した。
撃墜されたのは、もう何度目になるだろう。
勝てないことなんて知っていた。
朱紋付きの凶悪さなど身に染みて知っている。
でも、でも。
頭が眩む。地面がどちらかを理解するのにしばらくかかってしまった。
街が今、どんな状況なのかは知っている。
早く。早く脅威を退けて救護活動を始めなければいけない。
一方で、軍棋を学んだローレンティアはもう分かっている。
この戦局がどれだけ絶望的であるかを。
オラージュが死んだ?恐らくこの国に、増援を期待できる戦力はもういないだろう。
自分が耐えて、耐えて、耐えて……その後、どうすればいい?
最早上に立つ者としての責務だけが、彼女を立たせていた。
(………体勢を立て直さなきゃ……早く……戻らなきゃ……)
ネガティブな思考を振り払う。
ローレンティアが墜落したのは宝石店のようだった。
真っ二つに割れた屋根。壁は二方が崩れ落ち、砕けたガラスケースから飛び散った宝石たちが床に転がる。
家屋の中に人はいなかったのが幸い。店員は逃げたのだろう………。
「……………あ」
店の入り口の方角に倒れ込んでいる人影を見つけて、ローレンティアの心臓が凍り付いた。
仰向けに倒れる女性と、彼女の頭を抱えて何か呼び掛けている女性の二人。
自分の戦闘が市民へ危害を加えてしまった……。
と思いかけて、その姿が見覚えがあると気付く。
「エーデルワイス!!!」
呼びかけているのはクララ……魔王城に来ていた、教会所属の修道女だ。
地面に横たわるエーデルワイスは、いつもの白い衣装が血と土埃に塗れていた。
そして……彼女の左腿から下が無くなっていた。
欠損の断面は既に塞がれている。恐らくは彼女の究極魔法の効能だろう。
けれど逆にその状態が、蘇生ができなかったのだと、彼女の左足がもう戻らないのだと物語っていた。
ローレンティアは茫然としてしまう。そして幾つか合点がいった。
異変の開始時、オラージュの究極魔法が起こった。
相手は吸血鬼……エーデルワイスの欠損はきっとその時のものだ。
あの時、彼女は戦っていたんだ。
「触らないでください」
衝撃のままエーデルワイスへと伸ばした手を止めたのは、隣に座っていたクララだった。
「大丈夫……エーちゃんは落下の衝撃で少し気を失っただけです。
究極魔法はまだ動いてる……怪我の心配はありません。
それより………病気……なのか………触れるときっと貴方にも伝染ります………」
クララの呼吸が乱れていた。ここまで走ってきた以上の………。
赤く染まった頬。発汗。”ネズミ”の合言葉は聞いている。
伝染病……それが、エーデルワイスに。そして既に、クララにも伝染している。
「………ローレンティアさん」
気付けば、エーデルワイスが意識を取り戻していた。
不意をつかれたクララとローレンティアが驚き、言葉を発せないでいると、彼女は困ったように笑う。
「ごめんなさい……私……負けちゃいました……」
弱弱しい口調。顔色は優れない。欠損した足。
それにクララに似た症状……彼女も確かに伝染病に罹っている。
自己治癒の究極魔法が病気に対しどれだけ効力を発揮できるのか……少なくともこの瞬間のローレンティアには判断ができなかった。
「オラージュ様と一緒に、街にやってきたあいつと戦って……でも、届かなくて……。
戦いの最後に……オラージュ様が……殺されて………」
先ほど聞いた、オラージュの死。彼女はそれを目の前で見たのだ。
エーデルワイスが、彼女をどれだけ尊敬していたのか知っていた。
だからそれがどれだけ彼女の心臓を抉ったのかも、痛いほど想像ができた。
「届かなかった……止められなかった……。
分かってたんだ。敵が街を襲うのを防ぐ唯一の機会だった……。
あそこで止められていれば……こんな事には……」
悲鳴が聞こえる。上空を蝙蝠が飛び回る。恩師の死と自責の念。
普通なら取り乱すかもしれない心境だろうが、エーデルワイスは静かだった。
「そんなの……エーデルワイスが背負う事じゃーー」
「守りたかったんだ………あの人と一緒に立てた戦場だから。
…………ここが、ローレンティアさんの故郷だから」
今朝まで、いつもみたいに笑っていた。
魔王城で一年以上の時を過ごした。
一緒にダンジョンに挑んで、魔法の修行をして、生活を共にして。
ローレンティアの大事な、大事な親友の一人。
足が欠けていて。そんな言葉を呟かれて。
「………ローレンティアさん………」
ローレンティアは、何も喋れない程に固まってしまう。
「ごめん……ごめんね…………」
―――団長殿は、攻めに消極的ですな。いつも儂が攻め、貴女が守る。そういう形のゲームだ。
―――守るという貴女のお覚悟は美しい。しかし、攻勢に打って出なければ防げない災いというものは、存在する
それはブーゲンビレアに軍棋を習っていた時に贈られた言葉だ。
気付けばローレンティアは、在る紅き鎖で再び空を飛んでいた。
真っすぐ、真っすぐ、吸血鬼の方を目指す。
抑えようのない衝動が彼女を動かしていた。
腹の底から湧き上がるその感情を、彼女はまだ知らない。
自分が獣のように叫んでいることさえ、ローレンティアは自覚できなかった。
溢れる感情のまま、弾丸のように吸血鬼へ飛び掛かり。
「あぁ、また来たのか。飽きないな―――」
霹靂。次の瞬間には吸血鬼の視界がグラついていた。
遅れて広がる痛み―――頬を殴り抜かれたのだ。
先ほどまで掌を広げこちらの攻撃を受け止めていた黒き呪いの手が。
拳を握っている。明確な”殺意”が込められている。
”守る”流れの下に生まれた呪いが、煮え滾る意思を末端まで通され強制的に使役されていく。
ギシギシと軋みながら歪に動く。燃える眼光。黒く蠢く怪物。
「―――ようやく成ったな。その目だ」
その声さえ聞こえない。
エーデルワイスの言葉から、ローレンティアの中で雷が奔り続ける。
「吸血鬼―――」
この感情の名前を、彼女は知らない。
「貴方を殺す」
二十三章二十話 『腹の底から湧き上がる』