二十二章十五話 『森の国:森の王と王家の不和』
ローレンティア使節団が出払っている間、魔王城は静かなものだった。
中心人物達がいない今、銀の団として大きく動くことはなく。
団員達は穏やかな日々を過ごしていた。
「あぁ、いい日ねぇ………」
北側の貴族区、館のバルコニーで呑気に伸びをする女性が一人。
森の国代表、ベルガモットだ。
彼女の背後の部屋からは、蒸れた淫靡な香りが漂ってくる。
さっき使用人と一試合終えた後……彼らは濾過水を汲みに行ったばかりだ。
「な……なんだその衣装は……」
と、事後の余韻に浸っているベルガモットに声がかかる。
下を見下ろせば、使用人業の帰りだろうか、日の国使用人のサツキがこちらを見上げていた。
「あらん、貴女はこういうのお嫌いー?」
「こ、好みではなく品性だろう!公序良俗に反しているぞ!」
「ふふっ、いいでしょう?自分の館なんだし、ここは魔王城よ?
そんなのは国に捨ててきたわー」
のらりくらりと答えるベルガモットにサツキはため息を吐く。
生真面目で、国に一身を捧げる彼女とは正反対。
ベルガモットは自分も含めて、物事の行方に興味がないように思える。
「そのような振る舞いだから国を追われるのではないか?」
「ふふっ、そうねぇ……」
ベルガモットは宙に浮いたような笑みを浮かべ、一瞬だけ祖国の方角を見た。
「そうね………」
時間を遡って思い出す。
「醜く汚い人ばかりで嫌になる………私もそういう性質ですよ」
あれはアスナロを森で拾った日のセリフだ。
それから数年後、同じく森でカンパニュラを拾うことになるが、この頃には既に一人で森を散策する王族離れした癖がついていた。
森は静かで、平等だ。自分が純白なまま大地に立てる気がする。
王城は、嫌いだ。
あそこでは、立派な王族らしい振る舞いを強要されるのに、自分以外がらしい振る舞いをすることはない。
自分を守るべき騎士は後ろ指を差してヒソヒソと囁き。
自分に付き従うべき侍女は近づこうとはしない。
父はまだ、いずれ王家を継ぐ自分に期待をかけてくれるところはあったが。
母は。
「母君と仲が悪いんですか?」
お付きの騎士になって早々、アスナロはそんなことを聞いてきた。
自分と同じ価値観を持ち、王宮の燻んだ流れに属さない者だ。
アスナロの衆目を気にしない性格にも助けられ、周囲の困惑を振り払い、彼を側近に取り立てた。
「仲が悪い……というよりは、関わりたくないのでしょう」
拾ったどこの馬の骨とも知らない男を近衛騎士に任命します。
と言って、困惑と怒りを示した父は普通の部類だろう。
母は最後まで何も言わなかった。
面倒を起こした娘を、視界にすら入れたくないと言わんばかりだ。
母との不和は、冷たく堅い。
そして自分、ジーンバーナーにとって不幸だったのは、母が持つ王宮の者達への影響力だった。
婿入りした父とは違う、純血の王族の末裔たる彼女は、古い習わしに隷従するこの国の国民性も相まって信仰の象徴ですらあった。
母に嫌われた娘。王妃に疎まれた王女。王城は息苦しく、孤独で、退屈で。
静かに消えてしまいたいとよく思った。いつも周りに空洞があった。
だから人との交流は希薄で。森の花々や、動物をよく調べるようになった。
散策範囲内の動植物を知り尽くすと、次は魔物の生態にのめり込んでいき。
悪意のない、純粋な生物の形に憧れた。
そして段々と、人間を嫌いになっていった。
現在、森の国王城。
「シャングリラに魔王になってくれって言われたよ」
朝の食卓で、アシタバはそんな世間話を投げかけた。
対するジーンバーナーは一瞬キョトンとしたが、やがて唇を緩める。
「ふふ、そうですか。でも私もそれがいいと思います」
「仮にも一国の王が言うセリフじゃないな」
「志を共にする新たな王の誕生ですよ?むしろ盛大に喜ぶべきことです」
ネジの外れた発言に、アシタバはため息を漏らす。
バノーヴェンの大災厄が起きた時、ジーンバーナーの内に湧いたのは喜びだった。
母が、父が、そして人間社会の王達が。
鮮やかな進化を遂げた魔物達に殺されていく。殺されていく。殺されていく。
大広間で吸血鬼が公子達を嬲り殺しにした時は、心が踊った。
母の遺体を確認した時は、救われた気持ちになった。
事件後の報告書を改めて読んで……人間社会の頂点をこうも鮮やかに壊滅させる、魔物という存在に完全に魅入られてしまった。
狭苦しい王城で消えたいと願っていた自殺願望は、王族会議を壊滅させた魔物に対する崇拝に置き換わり。
そして人間全体へ向けられた破滅願望が育っていく。
「より優れた種が生まれたのなら、我々は規模を縮小し彼らに地平を明け渡す。
それはおかしい選択でしょうか。生物界全体で見れば合理的だと思いますが」
「はっきり言うが、あんたとは理屈じみた話はできないと思っている」
初めて、ふわふわとしたジーンバーナーの笑顔が固まった。
アシタバはこの城のキーマンたる彼女へ、直球を投げてみることにする。
「あんたは頭がいい。だから後からそれらしい理屈を整えるのが上手いんだろう。
でもあんたの主張は、理論だった思考の元に辿り着いて生まれたものじゃない。
感情論なんだ。だからあんたと議論しても平行線か、悪ければそれっぽい虚構の理屈に感化されるだけ……というのが俺の見立てだ。だから議論は設けたくない」
「………そうも袖にされるとは」
潔いアシタバの決断を、ジーンバーナーはぽかんとした顔で受け止めた。
「あんたと話すなら俺は、その感情の方を知りたいね。
どうして魔物の味方をするのか……この城の現状、その起源の話だ。
あんたが人間を嫌いだからってのは分かる。
恐らく、王城内でいい扱いを受けていなかったからだろうってのも」
「そう聞いたのですか?」
「少しな。それに想像はつく」
アシタバは会ったばかりのローレンティアを思い出した。
彼女は呪い故に自己否定に陥ったが、その理由次第では他者否定、人間嫌いに陥ってもおかしくない。
「潔癖になるのは醜悪な理不尽に多く曝されたからだ。
なぁ、あんたはどうして人間嫌いになったんだ?」
「…………」
アシタバの問いかけにジーンバーナーは押し黙る。
アシタバはしばらく、奥に花の咲いた彼女の瞳を見つめていた。
「お母さま!お母さま!」
時間を遡って思い出す。
まだ自分が王宮内でどういう扱いなのか知らなかった頃。
私はよく母を求めて王宮を駆け回った。
褒めて欲しかった。笑って欲しかった。
頭を撫でて欲しかった。他愛無い話をして欲しかった。
けれど私が求めた母の愛は、どこへも行き着かなかった。
「どうしてあの子を避けるんだ!!」
父の怒号は、偶然聞いてしまった。
私は思わず、廊下に掛かっていたカーテンの後ろに隠れてしまう。
「庭で一人でいることが多いと聞いたぞ!
お前もお前に従う侍女達も、あまりにあの子と接しないからだ!
どうして避ける!どうして愛してやらない!!」
「どうして」
怒鳴られているのに、母の声はぞっとするほど静かだったのを覚えている。
「愛せないわよ。腹を痛めて産んだわけでは無いもの」
それが何を意味するか、理解できないほど子供ではなかった。
「………決める前に散々話し合ったはずだぞ」
「えぇ、必要なことだったのは理解しているわ。
私も予想外だった……でも、できないものはできないのよ」
その会話の背景は、使用人たちの断片的なひそひそ話をパズルのように集めていって、長い月日をかけて悟っていった。
両親が結婚後しばらく不妊に悩まされていたこと。
それでも宗教感の強い森の国の王家には、血統を継いだ後継が必要だったこと。
母の親族で出産可能な年齢の女性は一人だけだったこと。
その女性が、色狂いで王都から追放されていたこと。
母は昔から彼女のことを毛嫌いしていた。
王家の親族として相応しくない品性ながら、無駄に男を惹き寄せる色気を撒き散らす彼女を。
そして母の主観では……"必要なこと"のために彼女の館へ向かう父が、にやついているように見えた、とか。
穢らわしい。
体裁。不貞。情欲。責務放棄。父は情けなく、母は稚拙だ。
王家という仕組みのために虚構の中で子を為し、決めた結果に対し責任すら果たそうとしない。
「生まれなければよかったのに」
という言葉は、誰のものだっただろうか。
私から言わせれば、不完全で穢らわしいこの世界こそが――。
「あははははははは!!」
現在、ジーンバーナーは弾けるように笑い、彼女の身の上話を聞いていたアシタバは面食らう。
今まで、少なくとも面の皮はまともだった彼女が初めて表に出した狂気に見えた。
「……何がおかしい?」
「ふふ、申し訳ありません……少しおかしくて。
私と母は血も繋がっていないのに……性根は似たんでしょうね。
母が愛せないものに無関心で、冷たかったように……。
私も、私が必要とされなかったこの世界がどうなろうが、あまり心が動かないのです」
「……それはこの国の王宮の中での話だろう。外に出れば………」
「うふふ、無理ですよ、アシタバさん」
うっとりとするように、ジーンバーナーが両手を頬に添える。
一見恋する乙女のようでいて、瞳の奥の花は冷え切っていた。
「私は知ってしまったのです。
息苦しい王宮に囲まれて動かなかった私の心は、バノーヴェンのあの日に激しく揺さぶられました。
あの破滅に恋してしまったのです」
ジーンバーナーの頬が、好きな人を告げた時のように赤く染まる。
一方でアシタバは、ようやく目の前の人物の指向性を見た。
「……それがあんたの行動原理なら、俺は志を共にはできない」
「どうしてですか?」
どうして。アスナロにもそう問われた。
「アスナロからも聞きましたよ。あなたの祖国、谷の国を襲った民衆の暴走を。
人間は不完全。ならばより良い存在に地平を明け渡すことの何がおかしいのですか?
そしてそれが良くないなら、あなたが魔物の王になって彼らを導くことの何が不都合なのですか?」
「……………」
アシタバは押し黙ってしまう。
ジーンバーナーの話は、全てが間違っているというわけではないが……。
理屈だって反論はできない。けれどやはり違うと、そう思っていた。
「あなたは、私と同じだと思うんですけどねぇ」
「俺が?」
悩むアシタバを、ジーンバーナーは嗤うように見る。
「なんとなく分かるんですよ。あなたは私と同じ……親から愛されなかった子でしょう」
それは、違うとは言えなかった。
この世界に来る前の、病室の中での日々。父はあまり来ず、母は申し訳なさそうで。
「………………」
「文字を教わらなかった者は手紙を書けません。私は同じことだと思いますよ?
愛されず育った者は、誰かを正しく愛することなんてできやしない。
だからあなたも、この世界や自分にそれほど執着がないのではないですか?」
現在、魔王城。
「ただいま戻りました〜、大人しく留守番してくださいましたか、ご主人様」
使用人ディモルフォセカが主人の部屋に入ると、ベルガモットはバルコニーで夕日を眺めているところだった。
色狂いと言われはするが、情事に耽る融けた顔も、今のような憂いを帯びた横顔も、ディモルフォセカの目には美しく映る。
「ベルガモット様?」
「あぁディモルフォセカ。戻ったのね。ふふ、さっきサツキちゃんとお喋りしていたとこよ。すぐに袖にされちゃったけど」
「やれやれ、あまり問題を起こさないで下さいよ」
ディモルフォセカは落ち着いた足取りで彼女の側に寄り、髪を撫でた。
こういう時の主人は、昔を思い出して心が乱れている時だ。
ベルガモットの両手は開かれて、膝の上に上向きに置かれていた。
何かを抱く形……夕日の照らす中で彼女は、かつてその腕の中にあった温もりを思い出していた。
温かいと思った。
今まで交わることでしか他人と接する方法を知らなかった自分が、初めて感じられた人との繋がり。
重いと思った。
腕の中の小さな命に、自分の生涯で初めての責任感というものが芽生えた。
愛しいと思った。
今まで肌を重ねたどの男よりも、自分が腹を痛めて産んだ子が愛おしいと、そう思えた。
「お前は何をしているんだ!!!」
自分が叫んだ、唯一の記憶かもしれない。
近衞騎士に羽交締めにされながら自分は暴れ、目線の先の女王は疎ましい目つきでこちらを見る。
「お前が……!お前が必要だと言ったから交わったんだ!
お前が必要だと言ったから産んだんだ!
お前が必要だと言ったから、そう言ったから手放したんだ!!」
愛しいと思えた我が子は奪われ、そしてその子が王宮内でいい扱いを受けていないと聞いた。
それを感情のまま訴えても、相手は冷えた目を向けてくるだけだ。
「………そうよ。必要だったことよ」
「ならどうしてあの子を一人にさせている!!」
それ以上はどれだけ叫んでも、答えは帰ってこなかった。
騎士に引き摺られ、女王は遠ざかっていく。
「こんな風にするなら、どうして私から奪ったのよ……!
せめて側にだけでもいさせてよ……!愛さないなら、返してよ……!!!」
「はぁ……」
現在、魔王城の貴族区。ベルガモットは沈みゆく夕陽を眺める。
諍いの果ての隔離。隔離からの魔王城行き。
子から離され長い月日が経ち、向こうは自分のことを知らず育ちきった。ずっと昔に諦めたことだ。
それでもたまに思い出して、憂鬱になってしまう日があった。
二十二章十五話 『森の国:森の王と王家の不和』