二十章六十四話 『Day5 霧の谷の決戦⑭ vs白兵王』
一緒に暮らした老婆が亡くなったのは、彼女が十六になった時だった。
自分を孫の様に守り育ててくれた、沢山のことを教えてくれた彼女を、ハイビスカスは日差しの暖かな丘の上に埋葬した。
今でもその場所には、彼女の咲かせた花々が咲き誇っていることだろう。
老婆と別れたハイビスカスは、森で一人で生きていく。
狩りも料理も裁縫も農業も一通り習っていたから、暮らしに不自由はしなかった。
そして、孤独を感じることもなかった。
この頃には彼女の魔法回路は成長しきり、一つの固有魔法を獲得するに至る。
“常庭”……彼女が老婆と開発したオリジナルの魔法だ。
幼い頃から過ごした森には、彼女の魔力が循環していた。森の全てが彼女の領域だ。
だから森の端を横切る商人たちの世間話、山に踏み入った狩人の親子の会話、麓の家に住む嫁と姑の他愛のない話、枝から飛び立つ鳥の羽音、草葉をかき分ける狐の足音、夜に鳴くコオロギ達の声、群れからはぐれた狼の遠吠え―――。
森で起こることは全て、彼女の隣にあった。
「魔王軍がこちらへ進軍してきてるらしい」
という商人たちの会話も、森を通して彼女の耳に入ってきた。
魔王軍。存在は認識している。既に先兵たるスライムが何匹か、森に入り込んで来ていた。
彼らは既に道に惑わせ平地に帰したが、それまでの間、土や水など森の環境の一部が変質させられていた。
魔王軍が森に踏み込んでこれば、既存の生物が駆逐され森が汚染されることは分かる。
大いなる流れに抗うな……この場合は、魔物の侵攻を受け入れるべきだったのだろうか。
けれどハイビスカスは単身、魔王軍に立ち向かう決意をする。
生まれ育った森を守るため………老婆のお墓を守るため。
画して、森の国のとある森林地帯で、一人と魔王軍の戦争が誰にも知られないまま始まった。
森に向けられた兵力は、森の国全体に向けられた内の二割。
それをハイビスカスは終戦まで、たった一人で捌き切ってみせる。
普通なら一人だけで戦わず逃げるだろう。
けれどその時のハイビスカスにとって、世界は森と老婆だけだったし。
老婆の墓を守る為なら、異形の大群に立ち向かう価値は十分にあった。
「なんか正面側がやばそうだ!」
魔王城、地下八階。
大蟻達の戦陣の北西側を駆けるのは、ゴーツルーとガジュマルだ。
身に纏った大蟻香水と、ガジュマルが定期的に砕く魔水晶から放たれる妨害電流で敵の索敵から逃れるが、二人に余裕はない。
何か一つ歯車が狂えば、両脇の大蟻が襲い掛かってくるだろう。
そして、何か爆発音が鳴り響く南側を思えば時間的余裕が少ないのも事実だ。
二人はとにかく全力疾走を続けて、与えられた役割の遂行に集中する――――。
「なんだありゃ」
ゴーツルーの視界の端にそれが映って、思わず呆然としてしまう。
並走しながら同じ方向を見たガジュマルも、説明されずとも意図を理解する。
戦場の中央、白兵王が座す櫓の頂点部に、何かが組み上がり始めていた。
素材は大蟻達自身、塔の上に半球状の形をするそれは、一見するとタンポポのように見えなくもない。
半球状の部分は牢に似ている。
それは正しくはビバークと呼ばれる、グンタイアリが形成する移動式の巣……という知識を持たずとも、敵が全方位の防壁を展開しているのは理解できた。
しばらく、ゴーツルーは逡巡してしまう。
大蟻達は手と手を強固に結び、二重、三重の層構造と化しながら守りを固めていく。
(デンキで敵を見るから視野を塞いじまっても問題ねぇってことか………。
あれがどれぐらい強固になるんだ………?)
パッシフローラの魔法で焼き払えるのか。
もしくはハイビスカスが出撃していれば、“常庭”で引っぺがせるのか。
ゴーツルーの脳裏を過ぎったのは、今戦っている大蟻が魔法魔物という事実。
(この谷に踏み入った時、群れてくる妖精の魔法にやられた……。
ぶっちゃけ、魔法魔物が密集して固まってんの不安しかねぇ……)
感じたのは単なる悪寒、けれどこれまでのダンジョンで彼を救ってきたその勘が、決断を後押しする。
「ガジュマル、魔水晶半分寄越せ。俺はあっちへ行く」
「………マジすか」
どうしてとか、腕怪我してるじゃないすかという質問が出ない辺り、ガジュマルは兄弟子の判断力を信頼していた。
「お前はこのまま作戦行動を続けてくれ。俺のことは心配しなくていい」
魔水晶の半分を受け取ると、ゴーツルーは白兵王の方角を見た。
「あの魔物達の建築っぷりを見てみろよ。
ダンジョン建築家ディフェンバキアさんの一番弟子、このゴーツルー様が立ち向かわなくってどうするってんだ」
ハイビスカスの源流魔法、“常庭”。
己が魔力を流した先を掌握領域とし、自由に操る彼女の固有魔法。
彼女は“常庭”内で起こった全てを知覚する。視覚と聴覚は彼女の森の中を駆ける。
敵の認識能力を低減させ、こちらを見つけにくくしたり、方向感覚を狂わせる。
そして直接触れた対象に魔力を流し込めば、相手の体は彼女の支配下だ。
魔力的抵抗を持たなければ命を奪うのは簡単……亡骸に花を咲かすのは彼女なりの弔いだった。
「―――人間風情が」
思わず白兵王が言葉を零す。女帝らしい振る舞いは離れ、珍しく苛ついている。
高台から蔓のような枝が伸びてきて、そこから人間が一人落ちてきたと思えば、辺りの大蟻が花に埋もれてしまった。
白兵王を身震いさせたのは、その殲滅能力だ。
攻撃や破壊とは全く違う、触れた瞬間に無力化され支配される。
服に溢れた墨汁がじわじわと広がるように、花と死はあっという間に西側の蟻達を飲み込んでいく。
この谷で彼女が出くわすことのなかった、制御不能の怪物。
「ちっ……!」
白兵王が右腕を上げる。背後の大蜜蟻が蜜弾を放つ。
その砲撃は、ハイビスカスの周りに籠状に生えたツタに阻まれた。
白兵王は動じない。直後、ハイビスカスの足元が崩れる。
地中に空洞を造り、落盤ごと彼女を飲み込もうとしたのは螻蛄大蟻だ。
だが、彼らが講じた巨大な落とし穴にハイビスカスが落ちることはなかった。
足音から成長した樹が、彼女を空中で支えたからだ。
「………化け物め」
(あの組み上がってるのはなんだろ………)
一方のハイビスカスは、白兵王側を観察する。
彼女の周りで建築の進む球型陣は、たった今完成を迎えたところだ。
物理的な防御壁?なんてことはない。自分の魔法の前で防御力は無意味だ。
敵は作戦を、物量で押す方向に切り替えたようだった。
先程とは比にならない、鉄砲水のような大蟻が押し寄せては花と化していく。
(敵の攻撃が肉体接触のみならそんな怖くない……けど魔力切れはやだなぁ。
敵の兵力切れとどっちが先かな)
「何あれ…………」
一方で、高台のシキミは違和感に行き当たっていた。
敵の空爆の手は効果的だったが、恐らく大蜜蟻の弾数には限りがあったのだろう、もう打ってくる気配はない。
彼女の予想では、次は逃亡策を打って来ると思っていた。
なのに敵がやっているのは球型陣、防御固めだ。
(パッシフローラの炎やハイビスカスの魔法を見た上でその選択なの………?
防御固めようと貫通しそうなことぐらい分かるでしょ………)
本当に相手がこのまま籠るだけなら、二人の内のどっちかを向かわせて詰みだ。
「………………」
パッシフローラ達は空爆の脅威を何とか凌いだが、大蟻の勢いに苦戦している様子だ。
一方で敵のヘイトはハイビスカスに向いている。が、かなり善戦している。西側の蟻をほぼ壊滅状態に追いやってると言ってしまっていい。
この戦局で、どちらかに手を打たないで防御固め……?
軍対軍の戦術戦の経験値に乏しいから、そういう判断ミスもあり得るのだろうか。
『………ハイビスカス、下がって』
その躊躇いがちなシキミの声は、“常庭”を通して聞こえてきた。
飛び掛かって来る大蟻に花を咲かせながらでも、ハイビスカスには受け答えする余裕がある。
「なんでー?私はまだ全然いけるよ。一回魔力暴走したからかな。
すっごく魔法の調子がいいんだ」
ハイビスカスはパッシフローラ達の方角へ目をやった。
「正面側はまだ体勢立て直せてないみたいだし、このまま戦って敵の兵力呼び込んだ方がみんなのためになるでしょー?
機会があれば攻め込んで、あの蟻の囲いを崩してきてもいいし~」
『確かに、敵に対してあんたの相性はかなりいいんでしょうね。
でも、だからこそ相手が逃げないのがおかしく感じる。
ここは安全を取って、下がって―――――』
シキミの危機感は、結論から言えば正しかった。
ただ、行動は間に合わなかった。
大蟻達の籠の目的の一つは、確かに防衛だ。
機能しなくなった探索電流の代わりに、全方位の防御を固める意図。
けれど目的はもう一つあった。
元々、探索電流の増幅機能を持つ大蟻は、雷魔法に対する導電性が高い。
それが球状に陣を組み、白兵王を囲み……そして得られるのは、“出力強化”の回路だ。
球型陣は、白兵王自身の発する電流を何倍にも強化させ。
そして、大蟻の隊列と亡骸が、白兵王とハイビスカスの間で一直線になっている事実に気付けた者はいなかった。
「―――“天照:大身守”」
それは、白兵王率いる蟻の軍隊の持つ殲滅戦術の一つだ。
敵まで続く大蟻の導線、出力強化の球型陣、そしてその強化を受けた白兵王の発電能力が揃って放たれる、地面を横滑りする稲妻。
「な」
という言葉も間に合わない。
発光する白兵王。平原を揺るがす轟音が響き、閃光は導線を辿る横向きの落雷と化してハイビスカスに炸裂していた。
焼き焦げる周辺と導線上の大蟻達。
味方を道連れにしてでも敵を迎撃するべく展開される、蟻達の最終兵器。
「ハイビスカス!!」
高台のシキミが思わず叫んだ。
吹き飛ぶハイビスカスが見える………何故か体の前面に花が咲いていた。
威力緩和の魔法なのだろうか、攻撃を喰らってしまった今は無事を祈るしかない。
大蜜蟻の蜜弾など非にならない、一撃必殺の遠距離攻撃は誇張なしに落雷に等しい。
「だめ、みんな撤退を………!」
指示を飛ばそうとして、その声が常庭に乗っていないことに気付く。
ハイビスカスが倒れたから、声を届ける循環が途絶えてしまった。
仲間に撤退指示が伝わらない。
「なん……っすか………」
正面側、気を失ったシンジュを守りながら戦うサンゴはしばし戦慄する。
西側を襲った稲妻………喰らえば一溜まりもないのは分かる。
加えて敵があれを何度も打てるなら、次に狙われるのは―――。
「俺っすね」
“千紫万紅”の炎の巨人の腕を振り回すパッシフローラが静かに呟いた。
彼女の展開する炎の防壁こそが、主攻班を守る最後の砦と言ってもいい。
彼女達は知る由もないが、パッシフローラと白兵王を繋ぐ大蟻の導線は組み上がりつつある。
次の標的への準備を、既に白兵王は終えている。
「パッシフローラちゃん、下がらなきゃ!ヤバいよアレ!!」
「…………………」
シキミの声は聞こえない。戦況が向こうに傾いたのは確か。
パッシフローラもかつての戦場で撤退判断をしたことはある。
勢いづいた敵を前に、無策で戦線維持しようとすれば呑まれるだけだ。
「いや、ここは退かないっす」
だが彼女は、そのまま戦うことを選んだ。退けば物量任せで背中を打たれる。
逆に、ここで勢い付いた敵を潰せば戦況はこちらに傾く。
戦場で鍛えられた彼女の嗅覚……既に策は動いている。
「ディフェンバキアさん!!」
パッシフローラ達より少し西側にずれた場所では、ディフェンバキアとガジュマルが再会を果たしていた。
白兵王と大蟻達の円状の戦陣を、それぞれ反対周りに半周してきたところだった。
大蟻香水と定期的な雷魔法の魔水晶の使用、そしてハイビスカスらが注目を買ってくれていたおかげで自由に動けていた二人だ。
ただ、負傷した脚を引きずって移動してきたディフェンバキアは既に息が上がっている。
「ゴーツルーはどうしたのじゃ?」
「敵の大将の方に行きました、あの籠が危なそうだたらって………。
さっきの攻撃見たら、マジその通りだったみたいっすけど」
「そうか………」
ディフェンバキアは一瞬だけ、弟子のいるであろう方角を見た。
長年の付き合いだ、判断力は信頼している。が、何が起こるか分からない戦場なのも事実。
それでも、今のディフェンバキアには何もできない。シキミに振られた役目は果たした。
「ガジュマルよ、我らは撤退するとしよう。
シキミ達と合流して避難経路を整備しておくか………」
ディフェンバキアは踵を返しかけて、ついてくる素振りを見せず白兵王の方角を見たままのガジュマルに気付いた。
「ガジュマル?」
「……………………」
「ははははっ!!わらわに楯突くからじゃ、愚か者め!!」
戦場中央、ハイビスカスを落とした白兵王は高揚感に包まれる。
敵方の強兵であろう一人を仕留めた手応えはあった。
「やはり、この世に必要なのは“軍事力”じゃ!
どのような敵が立ちはだかろうと、物量と豊富な兵種により乗り越えられる対応力!
もはやこの盤面はもらったぞ!」
再び、白兵王と彼女を球状に囲む大蟻達が帯電を始める。
加速していく。今度はパッシフローラに向けた、落雷レベルの遠距離破壊攻撃。
だが彼女の抜けを指摘するのなら。
強力な電場で周囲が満たされた彼女は今、探索電流による周囲の察知が行えないでいた。
つまり、足元はお留守。
「喰らうがいい、“天照:大身”――」
言葉は途中で止まった。
高揚感に浸っていた目が、驚きに見開かれている。
今稲妻を放とうとした球型陣、それを空中で支えてた蟻の塔が歪み、急に倒壊を始めていたからだ。
「な―――」
空中に放り出されたところで、白兵王は塔の根元に一人の人影を見た。崩落の始点となった部分の大蟻に、片手剣を打ち込んでいる。
探検家、ゴーツルー。
「よう、造りイマイチなとこ教えてやったぜ」
直後、放出前に行き場を失った稲妻がその場で炸裂した。
唸る轟音、焼き切れる球型陣を組んでいた大蟻達がバラバラになって落下していく。
彼らが高い導電性を有していたことでゴーツルーは感電を免れた。
側にあった大蟻の死体で即席の雨除けを作ると、その下に潜り込む。
「あっぶねえ!」
大蟻達の球型陣とそれを支える蟻の塔は、普通に攻撃しても崩せない程堅牢だったろう。
けれどディフェンバキアの下で建築家として修行を積んできたゴーツルーには、局所的に脆い部分は分かった。
個々の蟻達の僅かなサイズの違い、手の短さ……そこで生まれる構造物の急所に剣を打ち込めば、利き腕でなくとも崩落を招くことは出来る。
(………十分役目は果たした、後は逃げるだけ!
デケぇ稲妻が落ちたんだ、周辺のデンキは狂って追っかけられねぇはず………!
この蟻の雨が終わったら一目散だ!)
というゴーツルーの目論見は、実現せずに終わる。
突如打ち破られる彼の雨除け、目の前に着弾したのは他でもない白兵王だ。
なす術もなく掌に喉元を掴まれ、彼の体は宙に浮く。
そのまま、ゴーツルーの背中を傘にして白兵王は蟻達の死骸を、雨をかき分ける。
「がッ………!」
「やってくれたのう、人間」
気づけば、あたりは死屍累々だった。
蟻の塔と球型陣を形成していた大蟻達の焼死体が地面を埋め尽くしていた。
白兵王にもはや王たる上品な振る舞いはなく、目には獣の怒りが宿っていた。
ゴーツルーは腕を引き剥がそうとするが、できない。あまりに力が強すぎる。
滅多に振るうことのない白兵王の、個体としての強み………蟻を基調とした故の怪力。
「このまま握り潰してやろうかのう」
喉の手に力が入る。ゴーツルーが呻き激しくも藻掻くが、敵は鋼の様に微動だにしない。
喉ごと、握り潰される………。
怒りに沸いた頭、周囲を占める電場、今の白兵王は視覚以外で周囲を察知できない状況にあった。
だからこそ、飛んできた鞭が自分の足に絡まって初めてそれに気づく。
「な――――」
白兵王は怪力だが、体重は軽い。
鞭に思いっきり引っ張られると、体勢を大きく崩しゴーツルーを離してしまう。
「“天照”」
動揺する彼女ではなかった。
身体を立て直しながらも発電能力を起こし、鞭の先へと電流を飛ばす―――。
だが、対峙する相手に電気が効かないとは彼女も想像できなかったことだろう。
「アンタが戦場の大将だね。アリンコ共をけしかけてきた」
「………だったらなんじゃ?」
地面に倒れるゴーツルー、体勢を立て直す白兵王。
鞭の先にいたのは、【荒波】のベニシダ。
「ウチの子の肌に傷つけやがって………嫁入りが遅れたらどうしてくれんだい!」
怒りに頭が湧いていたのは白兵王だけではない。
自分を守って傷ついたシンジュ。自己嫌悪と、敵への憎悪。
大気が震える。発光が奔る。
ベニシダの眼光には、ゴーツルーも怖気づくぐらいの怒りが宿っている。
戦術と戦術のぶつかり合い、乗り越えた策とこれから効果を発し始める策。
未だこの戦場の着地点は見えないが、白兵王の一時的な探知不能状態を逆手に取って中心部に特攻を仕掛けたベニシダは、敵将と対面するに至る。
「あんたは、あたいが潰してやる」
地下八階、下層の平原のど真ん中。
鞭で繋がれた白兵王と【荒波】のベニシダの眼光が、激しくぶつかり合った。
二十章六十四話 『Day5 霧の谷の決戦⑭ vs白兵王』