十五章二十六話 『ゾンビ』
全てを失った。
クラーケン討伐作戦が始まる前のベニシダは、牢屋の中でぐったりするばかりの日々だった。
仲間が死んだ。海に落とされて、魚人達に貫かれた。
あいつが、クラーケンが船をひっくり返したんだ。
「………あぁ」
初めて、初めて湧き上がる感情だ。
過去に傷を負って、それでも今日を笑う仲間たち。
その笑顔が、笑い声が、もうないなんて。
今まで不幸だったからこそ、これからは幸せであって欲しいと願ったやつらが、もう終わったなんて。
相手を。その終わりを招いたものを殺してやりたい。
そのためなら。そのためなら―――。
彼女の牢の前に王弟ガイラルディアが立ち、クラーケン討伐作戦の勧誘をするのはその三日後のことだった。
「総員!!直ちに再度戦闘態勢に戻れ!!!」
王弟ガイラルディアの号令よりも早く、各々は持ち場へ駆けていく。
経験から来る対応は早く。けれども全員が、状況を理解できないでいた。
何故、クラーケンがまた動き出したのか。
「バルカロール様!私が守りをこじ開けます!今のうちにもう一撃入れましょう!!」
副司祭アンジェリカが叫ぶ、その表情には珍しく焦りがあった。
バルカロールも我に返り、鉄杭を持ち上げる。
「―――水流操作Ⅳ、“水神神流!!」
大帆船手前の海面から、5つの水流が蛇のように立ち昇り、次にはクラーケン目掛けて飛んでいく。
守りを固めようとする触手に噛みつき、こじ開け。
「うるァア!!!」
叫ぶバルカロールの渾身の一投が、隙間を潜りクラーケンの眉間に突き刺さった。
闘技場で何千もの魔物と戦い抜いたバルカロールが、仕留めたと思える程の手応え。
鉄杭を深く突き刺した。間違いなく脳を貫通している。
これで動ける魔物など、今まで遭遇したことはなかった。
「………てめェ、なんで動く!?」
クラーケンは、止まらない。
アンジェリカの魔法から解放された触手は、もっと船の側壁へ張り付こうと蠢きだす。
修道女の何人かは、その気味悪さに悲鳴を上げた。
殺しても死なない怪物。
「……化け物め」
【荒波】のベニシダが、吐き捨てるように呟いた。
「―――アシタバ君」
ざわつく甲板の雰囲気から離れ、褐色肌の魔道士パッシフローラは冷えた目でクラーケンを観察していた。
「ああ。あいつ、給水しない………逃げない」
アシタバもクラーケンから目を離さないまま答える。
この作戦の決定打の、機会喪失……よりも重要な何かを、掴んだ。
「キリ!!えぇっと、イチョウさん!!
魚人がまた動き出した!!早く突き返さねえと!!」
「ええ、分かってる!」
クラーケンを巡る喧騒から離れ、オオバコ、キリ、イチョウ、エーデルワイスの四人は甲板を横切り、魚人との戦いに戻る。
丁度クラーケンとは反対側の端、海から側壁を昇ってきた魚人たちが手すりを乗り越えようとしている最中だった。
「さ、せるか!」
オオバコの両手斧が一体の肩を叩き切る。
その横で、キリとイチョウが各々四体の魚人の喉元を切り裂いた。
「いやー、強……」
「ぼさっとしない!どんどんいくわよ!」
手すりに手を掛けていた魚人達を払っていく。
側壁を昇っていた敵達を、迎撃していく―――。
「おい、なんだあれ」
海面にいた二体の魚人が、オオバコの目に留まる。
槍や剣、他の個体は武器らしい武器を持っているのに対して、その二体は鎖を持っていた。
「武器、足んねえのかな―――」
それは、言うなれば経験不足、だった。
探検家のアシタバやツワブキならよくよく知っていることだ。
そしてオオバコや、戦いのプロであるキリやイチョウも知らなかった。
水棲魔物達の、一瞬の油断にこそ襲い来る脅威を。
オオバコの頭上を、鎖が飛び越えた。
魚人達が投げたのだ。攻撃とも言えない行動。
その意図をオオバコが理解する頃には、もう遅かった。
鎖の両端を持った魚人が、力の限り海中へと引く。
輪投げと同じだ。鎖に囚われたオオバコが、海へ引きずり込まれる一瞬先の未来が見えた。
「―――う、あ………」
「か、加護魔法Ⅱ~!!」
オオバコの背後でエーデルワイスが、戦々恐々としながらも加護魔法の障壁を斜めに構えた。
鎖は斜めの壁を滑り、上へとすっぽ抜ける。
「だ、大丈夫ですかオオバコさん!?
お怪我はないですか!?治癒魔法いりますか!?」
「………だ、大丈夫だ、何ともない………。
その、かなり危なかったな。悪い、ありがとうエーデルワイス」
「は、はい、恐縮です!!
わ、私も怖かった……怖かったですぅ!!」
窮地を免れたオオバコより、助けたエーデルワイスの方がよっぽどガクガクしていた。
遅れて、交戦をひとまず終えたキリが戻ってくる。
「オオバコ!大丈夫?あれだったら、後ろに下がってて!!」
「……油断は悪かったが下がらねぇ!もうしねぇから、戦わせてくれ!」
「そう、エーデルワイスも、無理して前線にいなくてもいいのよ?」
「だ、大丈夫です!!私もちゃんと、戦いますぅ!!」
チワワのように震えるエーデルワイスの返答は、意外にもはっきりとしていて。
「………そう?」
「オオバコォ!!」
怒号が響く。次にはオオバコ達の戦線へ力強い剣撃が割って入り、魚人達を吹き飛ばした。
筋骨隆々、荒い男たち……剣の国の剣闘士。
バレンツ港ではオオバコが戦闘を教わっていた、軽い師弟関係になる。
「オオバコ、見てたぞお前、油断しやがって!!」
「俺たちの指南受けといて魚人にやられかけるたぁどういう了見だ!」
「うへぇ、すんません!!」
四人ほどの剣の国の男たちが、集中が乱れているオオバコ達の盾となるように立つ。
「ったく、なってねえよ戦い方がよ。そもそもだ、もっと下がれ」
「下がれって……魚人の奴ら、甲板に上がっちゃいますよ」
「馬鹿野郎、それでいいんだよ」
「それでって………」
呆けるオオバコに、剣の国の男たちは呆れた顔を見せる。
「アシタバの奴が言ってただろう?海中はあいつらの圧倒的なホームだって。
なら俺たちのホームは陸、この甲板だ。あいつらを昇らせ切った上で戦うべき。
昇らせまいと水辺に近い、甲板の縁で戦うからさっきみたいな目に遭うんだよ」
オオバコも、そして戦っていたキリやイチョウもその意見に耳を傾ける。
剣の国の男たちは防衛線を、オオバコ達のそれよりずっと後ろ側に引いた。
「ここで戦うんだよ。ったく、港でさんざん教えたろうが。
焦るな。出過ぎるな。観察し、身を守り、時を待て。
守って待って、向こうが出した綻びを俺たちは削っていけばいい」
それは、荒くれの風貌の彼らには意外に感じる、守り重視の戦法論だ。
彼らが世界最強の戦闘集団と評される所以は、大きな犠牲なく人類史屈指の激戦を乗り越えたというその実績にある。
つまり彼らの本来の強さは、その堅牢さ。
そしてそれは、剣闘士として、見世物の死闘を強要されてきた彼らが、少しでも痛みを避けるために身に着けた武術だった。
余計な攻撃はしない。無理をして隙も見せない。
敵の攻撃を悉くねじ伏せ、敵の消耗を待ち、決定打の機会を逃がさない。
闘技場での彼らの役割は、堅牢な壁であることだった。
膠着した戦局は、バルカロールやプラムら四人の将が打開する。
だからこそ彼らの戦法は、いかにその時まで戦局を持たせるかという点に錬磨されていく。
相手の有利な戦場には乗らず、耐え、自らの有利な流れを掴み取る。
そして仲間へのフォローを忘れず、仲間からのフォローを忘れず、一体となって堅牢な壁になる。
それが、剣の国の剣闘士たちの戦法論。
「いくぞ、お前ら」
魚人が甲板に上がるのを見届けて、深い集中と共に男たちは剣を構える。
その振る舞いは、キリやイチョウにさえ、攻め難い雰囲気を感じさせた。
オオバコはバレンツ港で見惚れた彼らの戦いに、より見入ってしまう。
堅牢な剣の国の戦法論。
それは明らかに、アシタバ班でオオバコが求められる役割……盾役の理想形だった。
「おい、どうなってる!!奴は何で動いてンだ!!」
【豪鬼】のバルカロールが叫び、鉄杭の追撃を放ち。
眉間に杭が刺さったままのクラーケンが、触手でそれを弾く。
「ツワブキィ!!なんか分かんねえのか!!!」
遠距離戦をこなすバルカロールから離れ、ツワブキはクラーケンを注意深く観察していた。
ツワブキが、初めから懸念していた敵の未知が出た。
「ガイラルディア殿下。撤退を指示してくれ」
「あァ!!?」
バルカロールが激昂するが、ツワブキの温度は変わらない。
その真っすぐな目を、ガイラルディアが静かに受ける。
「クラーケンの未知が出た。これ以上の何かが出るのか分からん。対策の立て直しが必要だ。
俺たちの最優先事項は情報を持ち帰ること。情報不足の海の魔物だからこそな。
引き千切られた偵察船の救援活動の間に情報は集められるだろう。
この海域を離脱する支度をするよう、騎士達に言ってくれ」
「ちょいと、あんた」
士気を下げかねない、五英雄ツワブキに【荒波】のベニシダが食ってかかる。
「なんだい、世界で一番の、魔物の専門家って看板の割に随分臆病さねぇ。
図体でかい癖して肝は小さいのかい」
「底の知れねぇ敵に無計算で挑むのを肝っ玉とは言わねえ。
オラージュ殿も究極魔法使ってもう魔力がねえんだ。
感知魔法失って、魚人との戦いにも影響が出てくる可能性がある」
「だからなんだい。目先にあのデカブツがいるんだ。
ここで帰るなんて選択があるかい!!」
反論にしては過度な熱。その実態を見抜いたツワブキは、目を細める。
「……復讐か」
「あぁそうさ。だから邪魔をしないでおくれ」
ベニシダの奥底に沈められていた、黒い黒い炎。
虐げられ、放り出され、幸せを掴めなかった、それでも自分の船にたどり着いたからこそ、笑える日々を送らせてやりたがった。
そう思った仲間たちが、暗い海に投げ出され、魚人の槍に貫かれていく様を、今でも鮮明に思い出せる。
「……情報を持ち帰る?ここであいつの息の根を止められないのなら、あたいがこの作戦に参加した意味なんてない」
クラーケンの討伐を絶対目標とするベニシダと、安全重視のツワブキの、明確な対立。
パン、とガイラルディアが大きく手を叩くと、取っ組み合いすら始まりかねない空気が幾分か中和された。
「ツワブキ殿、撤退の指示はしない。クラーケン討伐作戦は続行する。理由は3つ。
1つ、敵の未知がどうだろうが、我々は攻撃に対しては現状対処できている。
底知れなさは耐久力、ならばこのまま削り情報収集、攻撃面での未知がでれば撤退。
2つ、対処できているその大きな理由は、私の見立てではローレンティア王女の存在だ。
クラーケンの攻撃でも最も船への損傷が大きい振り下ろしを無効化できる彼女が、海深くにいるクラーケンと邂逅したこの戦いを易々とは諦められない。
3つ、ここで我々が引けば、クラーケンの次の標的は普通の商船だろう。
我々が留まった方が、リスクが少ない。弱き民を守る大儀、というやつだ」
「…………」
これもまた対立。
冒険馬鹿の看板とは程遠い、手強いガイラルディアの顔があった。
ツワブキの計算では、攻撃面の未知が出てから撤退していては遅い。
それにきちんと情報を持ち帰れば、後世の探検家はやってくれるという信頼もあった。
そして何より、この船に乗る者達を失うようなことが、万が一でもあってはならないと思っていた。
クラーケンよりも、もっと大きなものとの戦いを想定しているのならば。
「……分かった。なら俺も全力を尽くす」
とは言え、作戦指揮はガイラルディアだ。
彼らを説得するより目の前の事態に集中した方が早いとツワブキは理解をする。
「全く、分かんねぇな。復讐……大義か。あぁ、判断力が鈍る」
「分からない奴は黙ってな。それだけのために、あたいは船に乗ったんだ」
排他的な復讐心と睨むベニシダを、ツワブキはつまらなそうに見る。
谷の国では、淫夢と首無し卿に【自由騎士】スイカを殺された。
魔王城、ハルピュイア迎撃戦では、八人の団員が鳥王ジズにより戦死を遂げた。
ついこの前、メデゥーサ撤退戦では、【刻剣】のトウガが帰らぬ者となった。
そしてそれより、もっと多くの冒険と、同じだけの喪失があった。
「てめぇ、探検家の俺が魔物に仲間を殺されてこなかったとでも思ってんのかよ。
銀の団にゃ、クラーケンに祖母殺された奴もいるんだぜ」
それ以上の問答は求めていなかった。
ツワブキは何か決意をすると、バルカロールへ向き直る。
「いいだろう、探検家の本分を果たす。少し手伝え」
「何がおかしいんだ」
ツワブキ達とは離れ、銀の団の探検家たちが集まっている一角。
鉄杭が刺さったまま蠢くクラーケンを見ながらアシタバが呟くと、周囲の者達がそれぞれの疑問を口にする。
先陣を切るのは、ずっと給水の動きを見張っていた、ストライガ班、魔道士パッシフローラだ。
「さっきも言ったっすけど、逃げない点すよねぇ。
あんなに傷だらけ、フツーのイカならとっくに逃げてる」
「そう……本当に不死身故に、脅威から逃げるという習性がないのか………。
あるいはできない……逃げる機能が備わっていない」
感知でクラーケンを見ていたツワブキ班、【狼騎士】レネゲードも感じたことを正直に話す。
「け、気配もおかしいんだ。その、上手く言い表せないが………。
いるんだが、いないみたいな……」
「デカい迷宮蜘蛛や水棲魔物の蜃に反応できていたんだ。
あんたの感知がおかしいってわけじゃないはず……」
ストライガ班の学者シキミが、発光する目を訝しがるような顔で見る。
「やっぱり目光ってるの、おかしいわよ。
仮にエサの魚を誘き寄せるために光ってるとして……。
眼球みたいな急所を、しかも重要な働きをする器官を囮に使う?」
「確かに。目を光らせる生物なんて聞いたことがない。
イカで生物発光の特徴持つ奴は、確か墨を光らせるだけだったはずだ」
ストライガ班の探検家、【竜殺し】レオノティスも続く。
「頭を鉄杭で貫かれても動く……本当にタフな魔物の可能性もあるが………。
探検家としてまず疑う可能性は、“本当にそこに脳がある生物なのか”、だ」
「………そうなる。つまりは、目も同じなんだろう。
俺たちが認識している頭が頭じゃない。目が、目じゃない」
「お兄!!」
思考に集中していたアシタバは、戦場で妹の声がしたことにぎょっとする。
振り返れば【解体少女】アセロラが、息を切らせて駆け寄ってきていた。
「馬鹿、危ないといっただろ、船内に戻ってろ―――」
「ごめん、これだけ伝えようと思って!
窓からクラーケンとの戦い見てたの。おかしいよ、お兄」
「………おかしい?」
少し息を整えて、アセロラは兄に向き合う。
少女離れした、熟練の魔物解体家としての顔つき。
「海中から伸びてる触手だよ。関節……なのかな。
揺れ方見ると分かる。根元がずっと下、イカと同じところじゃない。
それに動き方も、一本一本の触手が独立してるみたいっていうか……。
連動性がない。本当に一つの脳であれを動かしてるのかな。
お兄、これは色んな魔物解体してきたあたしの意見だよ。
あれは、ダイオウイカじゃない」
アシタバ達とは、全くの別ルートでアセロラが掴んだ結論。
考えてみれば、“ダイオウイカの魔物”という話はクラーケンを最初に見た者が言っただけに過ぎない。
後世の誰もが、クラーケンの生態を調査できたわけではないのだから。
イカの逃げ方をしないのも。イカの眼にあたる部分が発光しているのも。
イカの頭にあたる部分を貫いて、動いているのも。気配がおかしいのも。
「あり得るのは擬態だな。ついこの間の、蛇じゃなかった尾喰いの蛇のような。
じゃあ、何の生物だ、という話だ」
ツワブキ班、【隻眼】のディルが話をまとめる。
「全くの新種なら手に負えないが、既存の生物に沿った魔物ならまだやりようはある。
ダイオウイカという先入観を除いて、クラーケンの特徴を並べた時……。
何か、該当する生物がいるのか?」
学者シキミが、探検家アシタバが、一同が考える。
発光して。いるのかいないのか、分からない気配。
独立して動く触手。恐らくは大きい、海の生物。
「ツワブキよ、本当にいいんだな!?」
「ああ、思いっきりぶん投げてくれ。そんですぐに引き上げてくれよ!」
同刻、甲板の中央ではバルカロールが、錨とそれに掴まるツワブキを担いでいた。
錨の先端から伸びる鎖は、彼の左手に握られている。
「ああ、しっかり見て来いよォ!!」
次にはツワブキごと錨を海中へと、渾身の力で投げ、大きな水飛沫が上がる。
間髪入れずにバルカロールは左手の鎖を強く引き、引き上げの作業に入った。
バルカロールの怪力を推進力に、ツワブキは水面を割って海深くへ潜っていく。
魚人達が寄ってくる前。バルカロールが引っ張り上げる前。
錨にしがみ付きながらツワブキは、海の向こうにその影を見た。
例えるならそれは、北極の氷塊に似ている。
海上に出ているクラーケンの姿。
それよりも遙かに大きく、十倍も二十倍もあるような黒い塊が、海の下に広がっていた。
先ほどまでクラーケンと認識していたものは、全体のほんの一部。
大帆船よりも大きいそれこそが、朱紋付き、クラーケンの正体。
「―――分かった」
ツワブキが海中から引き上げられるのと同時。
アシタバが、答えを導き出す。
「多分……クダクラゲだ」
十五章二十六話 『ゾンビ』