十二章三十話 『叢雲』
黙して潜む消失陣の中で、ヤクモが暴れていた。
彼を羽交い締めにしようともがくのはオオバコだ。
ヤクモは目を血走らせ、陣の外へと出ようとしていた。
(トウガさんが………………!!!!!)
陣の外は、幻覚魔法の泡の世界だ。
一歩外へ踏み出れば、廃人と化すのは疑いようがない。
それでも。どうなろうともトウガを助けるべきだとヤクモは足掻く。
(俺が気付かなきゃいけなかった!!)
人魚妃に最初に攫われたのはヤクモだ。
トウガは彼を助けるために、身代わりになった。
その罪の意識が、焦燥感を暴走させる。
焦る目の前に、血が漂った。オオバコが斧で自らの掌を傷付けたのだ。
理解不能でショッキングな行動に、ヤクモは一旦動きを止める。
(ツワブキやアシタバなら、こうしたかな………)
オオバコは睨むようにヤクモを見る。
(ユーフォルビアもマリーゴールドもグラジオラスさんも、究極魔法使って魔力がない。
幻覚魔法に、何の手立てもねぇ。ましてやこの陣は、一回出たら戻れないはずだ
薄情でいい。他人事だから冷静、でいい。意味ない自殺はさせられねえ。
正しい判断を下せる俺に従わせる)
オオバコは砂漠のフロアで、メドゥーサ側に傾いたアシタバを止められなかった。
だからこそ、今度は見逃せない。
間違いへ踏み出しかけている仲間を通すことはできない。
(んな顔するなよ…………)
意図が伝わったのだろうか。
泣きそうにへしゃげていくヤクモの顔を、オオバコは見守った。
(必要だったんだ。正しいことだ。それでも、こんなに重いのか。
仲間を見捨てる、って決断は)
大きな喪失はある。
だが結果を言えばオオバコ達は、蜃を開くという目的を果たした。
陣の外で、蜃から解き放たれた大量の泡が上へと昇っていく。
視界を消すように。水面へと、昇っていく。
「―――――――――きた」
ボコボコと湧き立つ水面を確認して、【狐目】のタマモが呟いた。
彼ら、湖から撤退する組は既にトビヘビの大蛇と海怪鳥の群れの戦いを潜り抜け、上への洞窟内に辿りついていた。
先行していたラカンカ達も合流し、その湖の様子を固唾を呑んで見守っている。
「どうする?タマモ。ここで待機するか?」と、ラカンカが訊ねる。
「いや――――蜃の幻覚魔法がどこまでくるか分からねぇ。
俺達は、地下二階まで撤退する」
それは、湖の中のトウガ達や前線のツワブキを置き去りにする判断だ。
けれどタマモは、重さを知っていてもそういう判断を躊躇わない。
濃い霧が生じ始めた湖を最後に一瞥し、タマモ達は上へと撤退していく―――――。
「貝のやつの霧か」
湖岸に立ち込め始めた霧を見て、メドゥーサが呟く。
冷めた彼女が見下す先には、地面に伏すローレンティアの姿があった。
もう立ち続ける力もない。が、手だけで上体を起こし、メドゥーサを睨んでいた。
残った力を全て呪いの展開につぎ込み、地面に横たわるツブワキ達を守っている。
目は虚ろで、顔面は蒼白。けれど、尽きるとは思えない気迫を感じる。
「……………アンタはホントに、よく耐えたもんだ。
正直、この機に殺しておきたい面子ばっかりだが……………」
大蛇が最後の一振りを叩きつける。
が、それもローレンティアの呪いが反らした。
「時間切れだ。これは、私達の負けになるのかな。
アンタ達、撤退するよ。貝のやつの霧は、私達でもちょっとキツい」
メドゥーサがくるりと踵を返すと、大蛇達もそれに従う。
「まぁいいさ。アンタらのことはよく分かった。
使命の答えに近づけた………のかも。
私達は、アンタらを見てるよ。いずれまた戦うだろう。
その時は、完全に殺す」
大蛇二匹を引き連れて、門番、メドゥーサは湖を後にする。
その姿を見届けて、ローレンティアは混濁の中へと沈んでいった。
アシタバは、夢を見た。
石化の呪いにかかっている彼の体は、撤退途中のズミに担がれている。
「ざんねんだったね?」
手も動かない。足も動かない。
彼の視界は、焦点が合わず全てぼやけた景色に見えて、呪いに蝕まれた脳は音を正確に聞きとらなかった。
でも膜に遮断されたような世界の中で、その声は静かに通る。
残念だった?
「せっかくあのこたちと、なかよくなれるとおもったのに。
あなたにとって、きっとさいごのチャンスだったのに」
忙しい撤退の中で、動かせないアシタバの目が声の主の姿を捉えた。
小さな少女だ。彼女だけが、切り取られたような静かな軸の中にいた。
痛んだ銀色の髪と、透き通った肌と瞳。
ウォーウルフ共存が決定した後に、アシタバは彼女と底部で出会った。
どうして今、こんなところにいるんだろう。
確か名前は、そう、マオ。
「あなたはがんばったよ」
分からない。分からないけれどアシタバは、涙が出そうになってしまう。
魔王軍と人類の共存という、彼にとって最良の未来へ手を伸ばして。
それを、彼が助けたい魔物に拒絶された。そして今、仲間達を危機に晒している。
「でも、やっぱりムリなんだよ。
あのこたちは、あのこたちのじじょうがあるんだから。
あなたのくのうはりかいされない」
人類と対等な知性を有する魔物に、対等な和平を拒絶された。
アシタバにとってもう、これ以上はない。
「わかりあえることは、きっとない。あなたにあのこはすくえない」
わかってる。
「………………それでも俺は――――――」
ズミの背中でぽつりと呟いた、そのアシタバの言葉は、誰にも届くことはなかった。
湖深くに、寄生蛸で隠された横穴がある。
水棲の魔物達の輸出路、魔王城の下層へと繋がる水路だ。
銀の髪をなびかせながら、人魚妃がその水路を泳いでいく。
地下四階から撤退していく。
(十分に役目は果たしたよね~。
死に急ぐエル・ドラードちゃんを撤退させる霧を出させて、人間達の英雄一人を討ちとった。
欲張りはいけないな~)
人魚妃は、湖の方を振り返り、まだ戦線に残っているメドゥーサを心配する。
メドゥーサ撤退戦の終わりが近づいていた。
湖へ潜った蜃討伐班は、内容はどうであれ、蜃を開くという目的を果たし。
それを受けたメドゥーサは、下層へと撤退していく。
タマモら、銀の団側も動けるものは上へと避難を終えており。
この戦いは、残る一つの出来事を終えて決着となる。
「…………まずったね。あの団長さんを潰せるんじゃないかと欲張りし過ぎた」
湖から離れるメドゥーサは、困ったように上を見上げた。
彼女の頭上で、二匹の大蛇が頭をふらふらさせていた。
蜃の幻覚魔法にあてられたのだ。
「退くのが遅かったね。私ほどに免疫はなかったか。大丈夫かい?
このまま、下へ帰れるかい?」
メドゥーサは優しく大蛇の胴を撫でる。
黒い大蛇は、雪原のフロアでキリに殺された。
大蛇の一匹、“コブラ”はパッシフローラに焼き殺された。
まだ帰ってきていない何匹かの仲間もそうなのだろう。
後悔はしていない。でも喪失感は拭えない。
変わらない。
幾多の仲間達の戦線を傍観し、彼らの死を眺めて。
それでも主よりの使命の下、その答えを探る。
別離も、孤独も、長い時間を生きた彼女には変わらないことだ。
そのはずだった。
「……………も、……………だ」
その、聞こえるはずのない声にメドゥーサは足を止めた。
既に彼女の背後には、蜃が放った深い霧が立ち込めている。
その奥から、ゆらゆらとその人物は姿を現した。
ずぶ濡れで、それでいて血まみれだ。量からして彼のものではない。
ずるずると、大剣を地面に引き摺っている。
【刻剣】の、トウガ。
「……………アンタ」
警戒よりも何よりも、メドゥーサは呆然としてしまった。
この霧の中を一人進んできたのか。仲間も連れず?
男は、明らかに幻覚魔法にかかっていた。
口は開き、目の焦点はあわず、歩みも覚束ない。ぼそぼそと何かを呟き続けている。
メドゥーサは知っている。それは、夢霧送りと呼ばれる者達の姿だ。
だがその体にはまだ、殺意が残っていた。
行く先にいるメドゥーサに気付いたのか、トウガは引き摺っていた剣を両手に収めると、勢いよく駆け出した。
トウガ平原の歴戦の経験が、意識とは関係なく、彼の体に戦い方を刻んでいる。
それに呼応してメドゥーサも、戦闘態勢で受けて立つ。
門番メドゥーサ、対、英雄【刻剣】のトウガ、最後の一騎打ち。
(――――――こいつ)
戦闘態勢に入って初めて、メドゥーサは気付く。
(無意識のまま戦ってやがる!!)
朱紋付き、メドゥーサのバトルスタイルは、石化の呪いの噂や、上から下から来る補助によって相手の視線を散らし、間合いを取り辛くすることにある。
それは本来の肉弾戦が出る前に積み上げた、彼女と目を合わせること、上や下より来る脅威から目を反らすことへの抵抗感がそうさせる。
トウガは、今初めてメドゥーサと戦う以前に、無意識状態故にそういった抵抗感を全く感じない。
メドゥーサという魔物が持つ戦術に乗らない、初めての相手だ。
加えて、トウガは既に朱紋付きを倒したことがある。
トウガ平原の戦いにおいて、傭兵団を率い戦うトウガに対峙するように、魔王軍にも朱紋付きの将がいた。悪魔卿デーモン。
トウガ平原の戦線の終盤、デーモンを一騎打ちで仕留めたのは、他ならぬ【刻剣】のトウガだ。
「―――――――――は」
交錯は一瞬だった。
メドゥーサの両手はトウガの大剣を捉え損ね――――。
そして彼女は、胴から真っ二つに切られていた。
彼女には、理解ができなかった。
この状況下で、たった一人で、幻覚魔法に蝕まれ廃人になりながら自分に立ち向かってくる。
生存本能も、知性も誇りもかなぐり捨てた男の、幻覚魔法に蝕まれた心にきっと唯一つ残ったそれが、自分を敗北に至らしめた。
「ど、どうして…………アンタは……………」
上半身のみになったメドゥーサが呟く。
霞んでいく視線の先に、ゆらりと立つトウガの姿があった。
「……………まも、りたいと…………思ったんだ」
幻覚魔法で掻き混ぜられたトウガの脳には、新兵時代の思い出が過ぎる。
魔物に滅ぼされた故郷。父や、母や、妹はその時に失って。
戦線で肩を並べた傭兵の多くは同じような境遇だった。
尊敬を向けられる、勇敢な仲間達は平原の戦いで次々に脱落していった。
彼らが、死んでいいはずはなかった。報われて欲しかった。
誠実で勇敢な彼らが、自分が殺してきた彼らが報われる未来が、トウガは欲しかった。
「だか………ら………俺、が……やるんだ………」
それは、それこそが彼女の求めた答え、“条理”だ。
自らの命とは関係なく。
彼女の片目を奪った剣士は、少女を守るため。
トウガは、仲間達を守るために、メドゥーサの想定を超えていく。
別の時代、別の場所の彼らの精神を纏め得るそれこそが、人間達の中に共通して存在する力の源泉。
納得をしたのだろうか。
メドゥーサは穏やかな表情になり、その目を閉じた。
八十年と少し。
魔王に生みだされ、朱紋付きを刻まれ、戦場を傍観し人間を観察してきた。
朱紋付き、門番が一体、メドゥーサの死を以って、メドゥーサ撤退戦は幕を閉じる。
十二章三十話 『叢雲』