十章二十六話 『二日目:長い長い夜の終わり(後)』
初日、アシタバは言った。葉にしがみ付くことまでは止めないで欲しいと。
だから私は、皆に言えたんだ。どうかここで、私と共に生きて欲しいと。
澄み月、迷いの森攻略後の宴でツワブキに、殺されないという自分の価値を以って職務を全うすると宣言した。
ハルピュイア迎撃戦を経た照り月、エリスとは、自分を守ることを約束した。
浮き月、同室で寝るようになったキリと、共に戦おうと誓った。
「守られるべき善がある、と思うのです」
誰に告げるでもないような声色で、ローレンティアが呟く。
「それはきっと自由で、温かく、死や犠牲から遠く、傲慢な誰かに決められることのない何か。
虐げられるべきではなく、生まれやこれまでから解き放たれた、何か。
沢山の人の価値観と、正しさが交差するこの団において。
私はその、自由と払われるべき敬意を守ります」
それが半年をかけローレンティアの中で育った、銀の団団長としての、王としての意志だ。
かつて彼女を古城に閉じ込めた鎖や、母親達から向けられた眼差しや、照り月、カシュー達を襲った暴力が、この団に根付く善に向けられるのなら彼女はそれに立ち向かう。
「………だからどうした」
冷めた目でローレンティアを見下すエンジュに、それは察知できなかった。
彼の右肩を前触れもなく、深々と矢が貫く。
魔王城四階より、【鷹の目】のジンダイの矢。
まさに青天の霹靂と呼ぶに相応しいそれに、刹那の間だけアシタバとローレンティアは呆気にとられ。
次には二人とも、弾けるように飛び出していた。
僅かな隙だ。それに全力で縋り倒す。エンジュの反応も早い。
一旦距離を取ろうとして、キリが予想以上に重い。
足を傍の手すりに掛けていた。時間がない。
エンジュは、キリを見せしめとして消費することを決め―――。
そして振り下ろしたナイフは、黒い呪いに受け止められた。
エンジュが驚く。ローレンティアとの距離、10メートル。
魔法とは。
一か月ほど前の日常の中、修行中のローレンティアに教鞭を振るうグラジオラスは、その答えを告げる。
「魔法とは、理論の組み換えである。
魔法とは自然世界の中で巡る大いなる循環を、僅かばかり組みかえること、強化することである。
魔法は現象を誘発させるものであり、絶対に起こらないことは起こせない」
こくこくと頷くローレンティアに、改めてグラジオラスは真面目な顔で向き合う。
「その上で幾つかの例外を除き、世の魔法は2つに大別できる。強化と水平移動だ。
ローレンティア。お前には魔道士の基本に習って、治癒魔法の習得を第一歩としてもらったが……。
そもそもお前は、他の魔道士とは全く違うステップを踏んでいった方が良い。
初めから高度な呪いをその身に宿しているわけだからな。
それをどう再構成していくかを考えた方が効率的かつ、実践的だ。つまり―――」
呪いを強化するか、水平移動するか。
ローレンティアが魔法の二歩目として選んだのは、自分ではなく仲間を守るための魔法だ。
ただ呪いの発生場所を移す。水平移動、それだけの魔法。
「傷付けさせない。何もかも」
言い放ち、睨むローレンティアの額にナイフが飛ぶ。エンジュの判断は正しい。
呪いをキリへ展開させた今、ローレンティアは生まれて初めての無防備だった。
そのナイフを、アシタバの剣が弾く。
返し手でアシタバは剣を投げる。エンジュにとってはあまりに温い攻撃だ。が―――。
「キリ!!」
アシタバが言うより早くキリは、剣の柄から伸びる鎖に噛みついていた。
エンジュがキリに追撃を放つ。がそれも、呪いに防がれる。
アシタバと、微力ながらセレスティアルが鎖を引っ張り、キリを手繰り寄せた。
偶然もあったが、キリを奪取した二人の手際に、エンジュは少しばかり驚き。
けれど大部分は、だからどうしたという感覚だ。
キリを人質に選んだのは、ローレンティアと近しいと思ったからとキリ自身の妨害を防ぐためである。
つまり贅沢を言わなければ、その辺の銀の団団員を掻っ攫い人質自体は幾らでも調達できる。
変わらない。ローレンティアに繰り返し自害を要求する権利は、依然としてエンジュ側にある。
はずだった。
そのローレンティアの不可解な行動を、エンジュの視界の端が捕えた。
キリを手繰り寄せるアシタバ達には手を貸さず、全く違う方向を向く。
手を伸ばす。歩道の脇の、手すり………?
エンジュは知る由もない。
ツワブキ達と別れる前、アシタバがユズリハに頼んだ、ラカンカかスズシロへの伝言。
それは伝えられるまでもなく果たされていた。
ラカンカは既に、魔王城近辺のトラップの再解除をしていたからだ。
エンジュが知るはずもない。銀の団結成初日。
アシタバとローレンティアが掛かったトラップ、落とし穴の場所など。
「キリは、あなたの道具でも所有物でもない。私の大切な仲間です」
ローレンティアの手に押され、がこんと手すりが沈むのと同時。
アシタバの立つ床がぐらりと崩壊する。
それが斑の一族の、自害要求の手を予測したアシタバが、ずっと見据えていた決着だ。
彼らが人質を手にしたとして、交渉ができないところまでローレンティアを逃がす。
「―――悪いな。交渉は打ち切りだ」
間に合うはずもなく手を伸ばすエンジュを置いて、アシタバ、キリ、ローレンティア、そして王女セレスティアルは落ちていく。
ローレンティアが初めて魔王城を訪れた時と同じ、地下三階への直通路。風が耳を切る急降下。
「よく意図を理解してくれた」
「いえ、ありがとうアシタバ」
けれどアシタバはローレンティアを信頼し。
ローレンティアはキリを抱き、着地に備え自分の呪いに集中する。
お前の呪いだがな、とグラジオラスは言った。先の、ローレンティアの修行の続き。
「迷宮蜘蛛達の地下二階で、私はあれと対峙したわけだが………。
どうもあれは、私達の考えているものとは少し違うかもしれん」
「違う?」
「形態は確かに呪いだ。だがあれは、お前を呪うべく施されたものではないかもしれない。
地下二階のあの時、魔力暴走状態のお前を気絶させるための、キリの打突をあの呪いは通した。
近寄るものを全て排除するためじゃない。
本当の目的も、誰がやったのかも分からない。
けれどきっとあれは、お前を不幸にするためじゃない。
ローレンティア、お前を護るために施されたものだ」
どうして私が、と恨み続けた黒き呪いへ、ローレンティアは意識を通していく。
諦観と、失望と、悲哀だらけのこれまでだった。
でも、お前がそうだというのなら。
魔道士は自らの内にある魔法の才能、異質と折り合いをつけるために、名前をつける。
「―――共に生きよう。“或る黒き愛”」
「これまで、か」
鉄の国王子、レッドモラードが地面に倒れる。
三人いた側近も含め、彼の部下は全員切り伏せられた後だ。
その姿を、ライラックの渦巻く双眸が冷たく見下ろしていた。
「何がこれまでなんだ」
ライラックが槍を構える。止まらない。その表情は冷たい憎悪に呑まれている。
「ライラック。そこまでだ」
ツワブキがライラックの腕を掴む。が、ライラックは少しも意に介さない。
「離せ、ツワブキ。約束をしたんだ。俺は応えなければならない。
こいつはそれを踏み躙ったんだ。レッドモラード。俺の仲間の死に詫びろ」
切なる願いのはずの、新兵達の託した思いが、ライラックの肩に亡者のようにもたれかかる。
英雄などと呼ばれても、それが残された【黒騎士】ライラックの姿だった。
「………それでもだ。ライラック。
ここで終われば今回の件はここで終わり、レッドモラード王子のトチ狂った謀反。
だがお前がこの先を続けるなら鉄の国も黙っちゃいない。
国家と銀の団の戦いになる。次が起こるんだ」
表情を少しも動かさない、ライラックの長い、長い間。
「…………………」
結局一言も発しないまま、ライラックは槍を納める。怒りと殺意に耐える沈黙。
それを見守りつつツワブキは、仰向けのレッドモラードに向き合った。
「さて大将、あんたには答えてもらわなきゃならねぇ。
あんた、なんでこんなことをしでかした。手を出すリスクは分かっているだろう。
手にしたところで実のあるところでもねぇ。どう見たって採算が合わねぇだろう」
呆然とツワブキの言葉を聞いていたレッドモラードは。
「ふふは」
笑った。
「はは、採算、採算ね。確かにそれは合わないだろう。
……だがそれでも俺はやらなければならなかった。
ここしかなかったんだ。俺達にはここしかなかった。
楽園が必要だったんだ。だから俺は挑んだ。どうか、お前だけでも行ってくれ」
狂ったようにレッドモラードは、魔王城へと手を伸ばす。
「………俺達?お前、誰のことを言っている」
ツワブキの質問に答えない代わりに、レッドモラードは最初の質問に答えた。
「愛だよ、ツワブキ。俺は愛の為に、魔王城を手に入れようとした」
同刻。
貴族区の端、来客用の宿泊施設を、大司祭オラージュが駆ける。
北側の鉄の国兵団を処理した後でも、彼女は平然としていた。
「ちょっと、いい加減降ろしなさいよ!!」
「うるさいお嬢さんだ」
オラージュの肩に担がれたイチョウが喚く。
縄で縛られた彼女を放っておくわけにもいかず、流れで帯同させてしまった結果だ。
「あんた、なんでこんなとこ来たのよ。
魔王城に行くべきでしょ?助太刀しなさいよ」
イチョウの問いに、オラージュはうーんと考え込む。
「いや、それは他の奴らに任せる。私はこの事態の根本的な解決に動きたくてな」
「根本的な解決?」
「首謀者レッドモラードを抑える」
「どうやって?」
「人質を取る」
おおよそ修道女らしくない、物騒な発想。
「合理的ね」
暗殺者のイチョウは、平然とそれに同意する。
「その調達用にここに来たんだが………参ったな。当てが外れた。
感知魔法のブレかと思ったが………」
誰もいない館を、オラージュは改めて見回す。
「レッドモラードは女を侍らせていたと聞いている。そいつはどこにいった」
魔王城、地下三階。
初めて来た時とは違い、戦闘部隊が設置した松明により、夜でも光源は確保されていた。
「ティア、治癒魔法を!!」
「やってる!」
ローレンティアの呪いで無事着地した一行。
治癒魔法をかけるローレンティア。横たわり治療を受けるキリ。
心配そうに見守るセレスティアル。周囲を警戒するアシタバ。
四人。砂浜のフロアには、この四人。
の、はずだった。
「―――あらん?」
響くはずのないその声は、怪しい艶やかさを含んでいた。
四人がその声の方を向く。警戒、否―――。
もっと根源的な、未知への怖れ。
「誰にも会わないようにと思っていたのに、まさか上から落ちてくるなんてねぇ」
ローレンティアはその声の主を見た。女だ。昨日の視察者受け入れで会った。
レッドモラードの肩に手を回していた美女。そう、美女だ。
彼女はこの魔王城に、それが自然かのように立っていた。
ウェーブを描く栗色のサイドダウンの髪型が、彼女の深紫の片目を隠していた。
すらっとした脚、締まったくびれ、豊満な胸。
女のローレンティアであっても認めざるを得ない、色香。
強烈な、という修飾語は相応しくない。
もっと静かで、着実に相手を呑みこむ、強かな―――。
「うふふはは!誰かと思ったら、銀の団団長様に月の国第一王女、それに………。
見知った顔がいるじゃない。久しぶりね、アシタバ?」
名を呼ばれたアシタバを、ローレンティア達が振り返り。
そこには魔王城に来て以来、アシタバが見せたことのなかった、冷たい殺意の表情があった。
「………アシタバ?」
蠢く、十四の思惑。
内五つは、銀の団団員側のものだ。
ローレンティア達の、対斑の一族の迎撃。
ズミとリリィの、モントリオからの逃走。
ナナミノキの、銀の団の結束強化の視点。
ツワブキの、斑の一族の余波から団員を守る手回し。
残る1つは、アシタバの思惑だった。
「………どこかに紛れていると思っていた。ずっとお前を探していた」
うふふはは、とまた女が笑う。ローレンティアは見た。
笑い舐めるような仕草をしたその女の舌に、刺青が施されていた。
ハルピュイア迎撃戦で、ローレンティアはそれを見たことがある。
鳥王ジズに刻まれていた魔王軍の紋章。
朱紋付きの証。
「やはり、この時代にも生き残っていたのか………淫夢」
その未知が、歪に笑った。
十章二十六話 『二日目:長い長い夜の終わり(後)』