第六話・冒険の始まり
「それじゃあ行ってくるよ、見送りありがとう」
「ぶも、ぶもぶも。ぶーもぶも」
うん、何を言っているのかわからない。
ここまで案内してくれたミノタウロスのミノさんに別れを告げて、いよいよ旅立つときが来た。
「ええっと、確か転移門の中心にある魔方陣に魔力を込めていけば、勝手に起動するはずだ」
この転移門は何代か前の魔王が魔眼の力を駆使して作ったもので、対となる門へと転移できる魔道具である。
魔族領から人間の住む地域の間も簡単に移動できるが、使う魔力が莫大で人数の二乗に比例するとんでもない仕様だ。
一人分ですら勇者である俺の魔力でもかなりギリギリなので、その燃費の悪さは相当なものだろう。
「お、起動したぞ」
魔方陣がぼんやりと光を放ち、徐々にその光を強くしていく。
これから冒険の旅が始まると思うと、胸が躍る。そう思っていたのだが。
「ん、おお、おおお、ぬわああぁあああ、おろろろろろ」
転移が始まり視界が変わったと思ったら、盛大に嘔吐した。
胸ではなく、胃の内容物が踊り狂う。
「げほっ、げほっ、ベアトのやつ、この事をわざと教えなかったな」
脳をシェイクされたかのような錯覚を覚える。
転移とは物凄く酔うようだ。あのロリ魔王、帰ったら絶対泣かす。俺はそう心に決意した。
散々な幕開けとなった旅立ちだが、気を取り直して歩を進めることにする。
俺が使用した転移門はフランドール王国西部に広がる、通称「大森林」と繋がっており、魔物たちが徘徊している場所だ。
魔族の支配下に置かれた魔物は、ミノさんの様にある程度の知能を持つようになるが、野生の魔物は動物と一緒で、魔族だろうが人間だろうが構わず襲ってくる。
森の中をさまよう事一時間、辺りを警戒しながら進んでいると、数十メートル先にいる一匹のオーガを発見する。
オーガは身長三メートル以上もある巨大な鬼で、とてつもない腕力の持ち主だ。
その剛腕によって振り回される棍棒は、普通の人間ならば容易に物言わぬ肉塊へと変える。
――どうやらはぐれのオーガみたいだな、まぁ一匹ならいけるかな?
これが群れだったら相手にしないところだが、周りの様子を探ってみても他の魔物がいる気配はしない。
オーガに気が付かれない様に背後に周り、十メートルほどまで近づいたところで詠唱を開始する。
「大空を駆け巡る風の精霊たちよ、我に力を貸したまえ。ウインドカッター! 」
詠唱したことでオーガがこちらに気が付くが、遅い。
俺の左手から放たれた不可視の風の刃は、オーガの体に向かっていき、その巨大な肉体を胴体から真っ二つに切り裂く
ことはなく、オーガの腹に切り傷を付けるものの、深さは恐らく五センチ程で止まっていた。
「しまった、焦りすぎた」
同じ魔法でも術者によって威力が大きく異なる。
一度に込める魔力の量と、魔力を属性に適した状態に変化させて、魔法の形を作る魔力制御力の二つで、魔法の強さが決まる。
魔力を込める量が少ないと当然威力も下がるし、どんなに魔力を込めても魔力制御力が拙いと、無駄に魔力を消費するだけで燃費が悪くなってしまうのだ。
しかし俺はオーガが振り向いた事で慌ててしまい、魔力の量も制御も半端な状態で放つという、一番やってはいけないミスを犯してしまう。
そして傷をつけられた事に怒ったオーガは、その巨体に似合わぬ速度で近づいてきて、俺の身長と同じくらいはあるだろう棍棒を振りかぶってきた。
「がっ!がはっ」
まるでトラックだ。
咄嗟に右手に持っていたロングソードで防御したものの、俺の体は容易に吹き飛ばされて、そのまま樹の幹に衝突した。
「まずい、一旦距離をとらないと」
再びオーガが迫ってきており、このままではやられてしまう。
全身の痛みを堪えながら立ち上がり、森の中を駆けだした。
「くそ、まずは治癒魔法を、いや先に身体強化、ダメだ、魔力の制御が上手く出来ない」
魔力制御は精神状態によってかなり左右される。
パニックに陥っている時に、針の穴に糸を通すような作業を出来る人間はいない。
勇者兼魔王として高い魔力を持っていたとしても、制御できなければ砂上の楼閣にも等しい。
「実戦と訓練はここまで違うのか、正直想定外だ」
魔王城にいたときは、ミノさんを中心に様々な魔物と模擬戦をしたので、魔物と戦うこと自体は初めてじゃない。
ミノさんの種族であるミノタウロスはオーガと同等の強さだが、魔族――魔王ベアトリーチェ――の支配下に置かれている事で、通常よりも強力な個体になっていた。
そんなミノさんとの模擬戦では、魔法を使えば互角以上の戦いが出来ていたので、それよりも格下のオーガの事を甘く見ていたのかもしれない。
不意を打てば、風の魔法の一撃だけで倒せると思っていたのが良い証拠だろう。
そして野生の魔物はミノさんの様に理性的ではなく、その殺意は本物だ。
「このままじゃいずれ捕まってしまう、何とかしないと」
再びオーガの棍棒が宙を薙ぐ。
寸でのところで躱すことのできたその棍棒は、ぶつかった樹の幹を吹き飛ばす。
「冗談じゃない、もう一度あんな攻撃を食らったら、ミンチになって死んでしまう」
先程の攻撃は当たった角度と、咄嗟に自らの後ろに跳ぶことで上手く力を逸らす事が出来ていたみたいだ。
それでもダメージは大きいし、同じ事をもう一度やれと言われても出来る気がしない。
「はぁ……はぁ……足が重い、体が鉛みたいだ」
オーガとの命がけの鬼ごっこを始めて十五分、俺の体力は限界に近づきつつあった。
右腕と背中の激しい痛み、何度も体を掠めるオーガの攻撃と死の恐怖による精神的な疲労。
消耗が尋常じゃない。
俺は、こんなところで死ぬのか。
勇者として召喚されたのに、ただのオーガに殺されるなんて笑えない冗談だ。
普通はピンチになったら隠された力が発動するものだろう。
どうした俺の中にある勇者の力! まだ目覚めてない魔王の力! なんでもいいから出てこいよ!
そう諦めかけて現実逃避を始めた時、突如として俺の体は制御を失う事となる。
注意力が散漫になっていたのか、眼前に広がる切り立った崖の存在に気が付かなかった。
俺の体は物理法則に則って、自由落下運動を開始した。
「おいおい、冗談じゃないぞ」
こうして、俺とオーガとの初めての戦闘は、あっけなく終わった。
華麗に魔物を倒すわけでもなく、隠れた力が目覚めるでもなく。
情けない事に敵に背を見せ続け、泥に塗れながら逃走して崖に転落するという結果だけが残った。