9 虚無の中で
闇が一面に広がる漆黒の空間。
冥はそこに浮かんでいた。
足場がないため、全身がふわふわとして落ち着かない。
目の前には、黒いローブをまとったような巨大な人影がたたずんでいた。
「来たか、勇者よ」
影──魔王ヴァルザーガが言った。
全身を震わせ、黒い波動を放ちながら。
「余を討ちに来たのだな。だがこちらの世界では、余は惑星をも消滅させるほどの力を振るうことができる。生身の貴様に勝ち目などない」
「……かもね」
冥はそれだけを答えるのがやっとだった。
魔王ヴァルザーガの威圧感は圧倒的だった。
物理的な風圧さえ感じるほどの、強烈きわまりないプレッシャー。
(前の大戦では、ここまで威圧感を感じなかった──)
あのときはエルシオンという頼れる相棒に乗っていたし、傍らにはユナがいた。
だけど、今は違う。
何もない虚空で、冥は一人きりで魔王と向き合っているのだ。
恐ろしい──。
恐怖の感情だけで、心が埋め尽くされる。
恐怖以外の感情が、まったく湧いてこない。
同じ魔王でも、冥そっくりの顔をしたあの少年とは根源的に違う。
体が動かない。
のどが詰まり、息をすることすらままならない。
「ヘビににらまれたカエルといったところか。先の大戦では余を完膚なきまでに打ちのめした貴様が──哀れなことよ」
「…………」
「力の差は承知していただろう。にもかかわらず、なぜここに来たのだ。勇者よ」
「…………」
冥は何も言わない。
いや、言えないのだ。
恐ろしくて、言葉を発することもできない。
気を抜けば、失禁してしまいそうだ。
「誰よりも勇気があるから。誰よりも使命感を持っているから。誰よりも人と世界を愛しているから──」
魔王が嘲笑した。
「──などというご立派な理由ではあるまい。見えるぞ、貴様の心が。日常に退屈し、異世界で選ばれた者として戦い、賞賛され、優越に浸り──さぞや気分がよかっただろう」
笑い声が大きくなり、闇の空間いっぱいに響き渡る。
「貴様は、貴様の中の虚栄心を見たし、自己満足を得るために戦ったのだ」
「……僕は」
ようやく言葉を発することができた。
違う、と言いかけて、その言葉は喉元で引っかかる。
「そうなのかも、しれない」
唇を噛みしめた。
「本当は世界の運命とか、そこに住む人たちのこととか、全部どうでもよくて……ただ、自分が特別な人間だって思いたかったのかもしれない」
だとしたら、そんなものは勇者でもなんでもない。
「ふん、まあ貴様の心根などどうでもいい。余は前回の雪辱を晴らすために、ここまで来た。今度こそ余が勝たせてもらうぞ、勇者──いや、竜ヶ崎冥!」
魔王の発するオーラが何百倍、何千倍もの濃度で膨れ上がる。
まるで黒い炎のように広がり、この空間を覆い尽くしていく。
「くっ……!」
やはり、生身で対峙するには、相手が圧倒的すぎる。
前の戦いでは互いに龍王機に乗っていたため、冥が勝ったが──。
「小さき者よ。ひねりつぶしてやろう」
魔王の黒いローブが広がる。
ねじくれた手を冥に向かって伸ばした。
その手に黒い輝きが宿る。
「『虚無の星砕き』」
呪文とともに、魔力の弾丸が放たれた。
「龍王機に乗らぬ貴様など、虫けらに等しい──消えろ」
冥は動けないままだ。
まっすぐ迫る黒い魔力球をただ見つめることしかできない。
──ゆうしゃさま、がんばって──
あの幼女の応援が、頭の中に響いた。
「!」
金縛り状態だった体が、どうにか動く。
すでに、目の前には黒い光弾が迫っていた。
(よけられるタイミングじゃない。どうする──)
冥はほとんど反射的に腰の剣を抜いた。
勇者の剣。
小ぶりなその剣が、まばゆい閃光を放つ。
「むっ!?」
魔王が戸惑いの声を上げた。
閃光に触れた黒い光弾は、跡形もなく消え去ったのだ。
大陸すら消し去る、魔王の光弾が。
「余の魔法を打ち消しただと……!?」
「これは……」
驚いたのは冥も同じだ。
呆然と剣を見つめる。
見つめながら、不思議と心が落ち着いてきた。
引き金となったのは、あの幼女の笑顔。
そして異世界で出会った少女の微笑み。
「僕は──」
冥がすうっと息を吐き出した。
黄金の剣をかまえる。
「一度目に召喚されたときも、二度目のときも、僕はお前の言うような気持ちで戦っていたのかもしれない」
自分が選ばれた特別な人間だと賞賛される気持ちよさ。
圧倒的な力で敵を叩きのめす喜び。
それを否定はできない。
「だけど──それだけが、僕の戦う理由じゃない」
「意志の光が増していく……なんだ、これは!?」
魔王が狼狽の声を上げた。
「ええい、いまいましい。消えろ!」
ふたたび黒い光弾が放たれる。
しかも、さっきよりも巨大な──文字通り大陸一つを飲みこむほどのサイズだ。
(怖い……だけど、逃げない)
冥はまっすぐに剣を構えた。
恐怖も、不安も、不思議なほど感じなかった。
きっと、それは自分の中で決意が固まったから。
ずっとモヤモヤしていた自分の気持ちが、少しだけ整理できたから。
そして何よりも──明確な目的を自覚したから。
「あの女の子や、他にもまだ世界に残っている人たちのために」
掲げた剣がまばゆい光を発した。
虚無の空間の闇をあまねく照らす、黄金の輝き。
「戦えない人たちの代わりに──僕が戦う!」
渾身の力で振り下ろした剣が巨大な黒球を斬り散らした。





