序章 脱走者
先頭を走る騎馬の甲冑が、ピカリと光る。それじたいは夜に輝く星屑みたいだ。
掲げられた松明が列をなし、時々風に揺らいでうごめいている。
寒い夜だった。空気はどこまでも凍てつき、月さえ凍りついたかに思える。そんな闇夜に浮かび上がってきたのは、無数の塔と城壁に囲まれた灰色の城だった。
騎馬は数十騎に及び、蹄の音が不気味に響いている。
騎馬隊の後方にいた、ひときわ豪奢な鎧を身に纏った男は、その城を見て知らず知らずうちに馬の速度を落としていた。
「どうされたか、ミロ副隊長」
先を走る騎馬兵の一人が、怪訝そうに問いかけた。
ミロと呼ばれたその男は、よく見ると確かに鎧に副隊長の赤羽の刺繍が施されている。
「いいえ」
「そうか。では、引き続き後方はたのむ」
ミロは自分の声が震えていないか、顔が強張っていないか、気が気ではなかった。
後方をわざわざ振り返り、何も誰もいないことを確かめた。
闇夜に佇む城。それはまるで、漆黒の深海の底に建てられた、秘密の王国のようにも見える。
パジュペテロ囚人病院。
忌ま忌ましい場所だ。あれはまるで牢獄だ。
ミロは背中に冷や汗がつたうのを感じた。
レメラの中でも特別巨大なこの病院は、その名の通り病におかされた囚人を収監する、鉄壁の牢獄である。東西南北に別れた病棟に向かい合うようにして、住み込みの看守や医者が寝起きする高台があり、更にそれを取り囲む大きな城壁があった。
ミロは仕事で一度北の病棟に赴いたことがあったが、そこでは毎日のように女の看守が竪琴を奏で、死んだように虚ろな目をした囚人に歌を聴かせていた。ミロには、その竪琴が囚人の精気を奪っているように見えたものだ。
もう二度と行くまいと、心に決めていたのに。
刻一刻と近づく病院を見つめながら、ミロは苦々しい思いで呟いた。
パジュペテロ囚人病院から、緊急の連絡が近くの町の治安部隊に届いたのは、昨日の夜のことだった。数十人の治安部隊は、病院に行ったきり町へと帰ってくることはなく、王都の騎馬隊に命令が下ったのである。
囚人が、脱走した。
それが連絡の内容であったが、治安部隊が行方不明なため、詳しいことが何一つわからない。
脱走?
一体、どうやって? あそこに収容される者は重傷者か精神患者だけだ。そして、誰もが死んだ目をしているのだ。城壁と同じ色の囚人服を着せられて、髪の毛は剃られ、口元はだらしなく開いていた。泥人形だ、とミロは思った。生きた土が湿って死んだように泥になって、人の形を作っているのだ。
先頭の騎馬兵が止まった。
城壁がすぐそばまで迫っている。
風がやみ、炎が赤々と牢獄の城を照らし出した。
「今から、パジュペテロに入る!」
隊長の一声で、騎馬隊が陣形を作り直して、一斉に城壁へと走り出す。
城壁の門は開いていて、数人の門兵がうずくまっていた。
死んでいる・・・・・・・・。
ミロは身震いした。門兵は喉をかき切られて絶命していた。
病院は、死んだように静まりかえっている。
看守の姿も、囚人の姿もない。
異常なほどの静けさに、誰もが恐怖したのだろうか。馬がいななくと、誰ともなく身体を寄せ合った。
病院へ続く道のりは、隠れることが不可能な平坦な地面が続いている。そこにも数人の人影が倒れていた。
「どういうことだ。とりあえず、カリタエの治安部隊を捜せ!」
ミロは震える声を抑えて叫んだ。
「敵が潜んでいるかもしれん」
「せめて何人かがわかれば」
「仕方ない。単独行動は危険だ。必ず陣形を組め!」
病院もやはり静まりかえっている。
廊下の明かりはついているのに、生き物の声がまるでしない。
「王の騎馬隊だ。誰かいないか!」
応答がない。
不気味だ。どういうことだ。
その時、ばらばらと何かが崩れるような音がして、騎馬兵達はびくっと肩を震わせた。
かさかさという衣擦れ。
「誰だ!」
よく目を凝らすと、それは北の病棟へ通じる階段を降りてきたようだった。長い黒髪が、炎に浮かび上がる。
女か。いや、違う。
細く痩せ細ってまるで女人だが、顔つきは男だった。髪の毛は乱れ、顔には無数の痣がある。目が半分見えていないのか、よろよろと足元が頼りない。
「囚人ではないようだ」
服装は長いローブを着ている。色褪せているので、本来どのような色をしていたのかは分からなかった。
「医者か」
男はそこでばったりと倒れた。
ミロはその時初めて気がついた。
この男、耳がない?
顔の両側から血が溢れ出してローブを染めている。耳が剥ぎ取られていた。
「生存者だ! 他にはいるのか! 連れていけ!」
口をぱくぱくと魚のように開けては閉じている。
「どうした! 何があった!」
隊長が怒鳴ると、それを待っていたかのように、男は掠れ声で息を吐き出した。
「・・・・・・・・だから医院は通告したのだ・・・・・・・・議会はしかし、返答を拒否した・・・・・・・・」
「何の話だ!?」
男の口元で、じゅっという奇怪な音が漏れた。それが、男の呼吸音だと気がつくまで、ミロは数秒かかった。
「あれは・・・・・・・・人では・・・・・・・・ない」
人ではない?
助けを求めるように、部下がミロを仰いだ。
「駄目だ。医療部隊の方へ連れていけ」
数人の騎馬兵が男を担ぎ上げて、病院から出ていく。
「とりあえず、北病棟へ行くぞ。あそこには事務局があるはずだ」
隊長が険しい顔のまま命令した。
この状態では、その事務局すら機能しているか怪しい。ミロは北病棟へと通じる、怪我人の男が降りてきた階段へと目をやった。
血がまがまがしい色に染まって、病院の壁に飛び散っている。
臭い。死臭が辺りに満ちていた。
騎馬隊は固まって北病棟を目指す。
その道中でも、黒く変色した死体が重なり合って倒れている。見るに堪えない光景で、ミロは夕飯が腹から外へ出てくるのを感じた。今まで散々戦場で死人を見てきたが、こんなにもえぐり殺された死体を目にするのは初めてだった。
北病棟は壊滅的で、血の海が広がっていた。
しかしミロをはじめ騎馬兵達は、それ以上にこの虐殺の異常さに気がついていた。
死体は全員、喉をかききられて死んでいた。そればかりではない。全員が何かに恐怖したような、驚きに目を見張った表情が浮かんで凍りついている。
まるで、ついさっき、ここで恐ろしい惨劇の夜が巻く開けたとでも言うように。
まるで、時が止まってしまったみたいに。
死人の膨大な血液が、
死者の記憶が、
恐怖と驚愕が、
虐殺の夜を閉じ込めて、進めなくなっているのだ。