92話 偶然か悪意か
「アルフレート様、こちらの鶏肉はいかがですか? それともこちらのお魚の方が宜しいでしょうか?」
「いいえ、どちらも結構です」
ナターリエさんの言う、木陰とは大変素晴らしい場所だった。
建物から少し離れているおかげで、日々の喧騒から遠ざかっており、長閑な雰囲気がある。
すーっと深呼吸をすれば、爽やかな新緑の香りがした。
視線を周囲に配れば、綺麗に整えられた植え込みの花々を鑑賞する事も出来る。
これでイルメラと二人きりとかなら、最高なんだけどな。
悲しいかな、現実にはナターリエさんとそのお友達二人に、俺たちは白陽寮の六人と、輪になって野外で食事をするグループの中ではなかなかに大所帯だと思う。
「そう、ご遠慮なさらずに。これは北領産の最高級鶏肉ですわ。きっとお召し上がりになれば気に入っていただけると思いますわ」
ナターリエさんはとにかく俺の世話を焼きたがった。
どこそこの食材だとか、高級品だとか解説を加えながらあれこれ勧めてくる。
勿論、俺はそれらを悉く拒否した。
食べたいものは自分で選ぶ、と。
そしてこんな状況に陥った腹いせに、レオンに積極的に野菜を摂るように勧める事で、なんとかこの場この時間をやり過ごそうと考えていた。
しかし、ナターリエさんもしつこい。
言葉だけでは足りないと考えた彼女は、鶏肉の刺さったフォークを俺に差し出してきたのだ。
「召し上がれ?」
ナターリエさんがそう言った途端、ビシリとイルメラが固まった。
続いてこのところのイライラが頂点に達したのか、イルメラは身体中から怒気を漂わせる。
怒っていらっしゃる。
見間違いようも無いくらいに怒っていらっしゃる。
「食事中にそのような事をなさるだなんて、はしたないですわね」
「そう仰られていますけど、実は私が羨ましいのではないかしら? 女というのは素直でなければ殿方に嫌われてしまいますのよ?」
「くっ……」
目の前で為された不愉快極まりない行為をイルメラはやめさせようとするが、ナターリエさんも負けじと言い返してくる。
素直になれない部分はイルメラ自身が自覚している欠点で、そこを突かれてしまったイルメラは下を向いて唇を噛み締めた。
イルメラにとってそれは触れられたくない部分だったのだ。
「イルメラちゃん、そんな事をしちゃダメだよ。可愛い唇が傷ついてしまう」
見ていられなくて声を掛けるとイルメラは俺の顔を見上げて、すがるような視線を投げかけてきた。
赤い瞳が揺らいでいる。
「ごめんね、俺が間違っていた」
大丈夫だと言い聞かせるように頭を撫でてやると、イルメラはようやく強ばっていた全身の力を抜いた。
だだ俺に言い寄ってくるだけなら捨て置いてもよかった。
だけどイルメラに対して攻撃を仕掛けてくるようなら、話は別だ。
「ナターリエさん、素直でなくともイルメラちゃんは十分魅力的で可愛いですよ。これ以上魅力的になられては困ってしまうくらいに。あまり虐めないでもらえませんか? 貴女をこれ以上嫌いにさせないで下さい。そして出来ればこれ以上、私にも、彼女にも関わらないでもらえますか?」
「そんな……。私はただ貴方に好かれたくて……」
ナターリエさんの手を滑り落ちたフォークが、コツンと地面に当たって音を立てる。
これ以上ないくらいに俺にはっきりと拒絶され、面と向かって嫌いと言われたナターリエさんは初めて傷ついたような顔を見せた。
だから嫌だったのだ。
例え家柄目当てで近づいてきているのだとしても、嫌いだと言われれば多少なりとも思うところあるだろう。
傷つけるとわかっていてその言葉をわざと投げつけるのには勇気がいる。
女性は守ってあげるべきものだと、前世の頃から教えられてきたから。
だけど、ナターリエさんを傷付けまいとした俺は、大事なイルメラを傷付けてしまった。
一人で頑張ろうとするイルメラに、俺は甘えてしまっていたのだ。
綺麗事を並べて善人ぶろうとして、失敗した。
大事なものを傷つけ失ってしまうくらいなら、悪人だと罵られてしまっても構わない。
「はっきり言います。そうしないと貴女には解っていただけないようなので。貴女には興味がありません。貴女のご実家にも興味がありません」
「わ……、わかりましたわ」
わなわなと震える手で編みカゴにぐちゃぐちゃに荷物を詰め込んだナターリエさんは栗毛二人組を連れてすっ飛ぶように去っていった。
「みんな、ごめん。楽しくない食卓だったね」
「ううん、これはこの先僕らの誰に起こってもおかしくない出来事だから。たまたま一番がアルトくんだっただけだよ」
優しいルーカスは皆を代表してそう言ってくれたけれど、やはり俺の心にはもやもやとしたものが残った。
その日の午後のコマを皆でサボって、寮の談話室に篭もっていた。
その間、馬鹿騒ぎをするレオンたちの方に加わる事無く、俺はずっとイルメラの隣に寄り添っていた。
これでこの件は終わったと、誰もが思っていた。
しかし、事件はこれで終わりではなかった。
――翌日。
マナー講座から戻ってきたイルメラは、そわそわと落ち着きがなかった。
「イルメラちゃん? どうしたの?」
昨日の事があって、イルメラの様子をいつもよりも注意深く見ていたので、すぐに気がついて声を掛ける。
朝の時点ではすっかりいつも通りとまではいかないまでも、だいぶ元気を取り戻していたというのに、また逆戻りをしてしまったかのような――いや、もっとイルメラの精神状態は悪く見える。
「なっ、何でも……」
ビクッと俺の声に驚いたイルメラは、一瞬ハッとした様子でそれからさっと手を動かして自分の胸元を隠すような仕草をする。
やっぱり何かがおかしい。
「何でも無いって顔をしてないよ? その手の下に隠したのは何?」
じっと見つめると、イルメラは気まずそうに、それでいて落ち着かなげに前後左右に視線を動かす。
不安や焦りが態度から滲み出ている。
それは母親に叱られるのを恐れている子供のようにも見えて、口を噤んだままのイルメラに俺は出来るだけ優しい声音で言った。
「イルメラちゃんが何を言っても、俺は怒ったりしないよ?」
「……本当?」
念を押すように問う声はか細い。
今にも途切れてしまいそうだ。
いつもは相手に勝ち気な印象を与えてしまう瞳は、滲んでいて弱々しい。
「約束する。だから何があったのか教えてくれないかな?」
少しでも不安を取り去ってやろうと、しっかりと大きく頷いて約束すれば、イルメラは躊躇いがちながらもやっと胸元を覆っていた両手を動かした。
ふっくりと子供らしい曲線を帯びた小さな手の下に隠れていた部分を、俺も含めその場にいた白陽寮メンバー全員が注視する。
「……何も無いではないか」
「制服……はおかしくないよね?」
よほどとんでもないものを隠していたのではないかと思っていたらしいレオンが期待外れだと言えば、その横でルーカスが首を傾げる。
「ならば私が変わりに……」
「バルトロメウスは何も出さなくていいからな」
また茶化されて話が逸れそうになるのをすんでのところで止めた俺は、イルメラの顔と彼女の胸元を交互に見遣った。
「何も無いのはおかしいんだよね」
「そうだね」
どうやら、異常に気付いたのは俺とディーだけらしい。
イルメラの胸元では制服のオプションで自由に選択できる装飾品の一つの、細身のリボンが結わえられている。
イルメラが隠していたのはこのリボンではない。
リボンについているべきもの、そこにあるべき物が無い事を隠していたのだ。
それに気付いた俺は、イルメラがなかなか言い出せなかった理由を一瞬にして理解した。
「ブローチがなくなったんだね」
俺の言葉にイルメラは大層申し訳なさそうな顔をしながら、こくんと頷く。
「ブローチって、アルトくんがイルメラちゃんにあげたあの青い薔薇の?」
「そうだよ。イルメラがここのところ毎日つけてくれていたアレだよ」
ここへ来てようやく状況が呑み込み込めてきたルーカスの言葉に、イルメラに代わって答えた。
俺があげたものだから、失くしてしまったとなかなか言い出せなかったのだ。
「物なら私も頻繁に失くすぞ。イルメラ嬢もまた我が同志なのだな」
「……いや、お前と一緒にするな。イルメラちゃんに失礼だ」
「でも、魔石なら僕らは簡単に見つけ出す事が出来るよね?」
バルトロメウスはバルトロメウスなりに、フォローをしたつもりなのだろうか。
きっちり突っ込んだ俺の言葉に本人以外の全員が首肯する中、ディーが怪訝そうに言う。
そうだ、母上の授業で毎回魔石探しをしていた俺達には紛失してしまった魔石の位置を割り出す事など容易い筈だ。
今思えば、あれはご褒美と実施演習を兼ねていたのだろうが、六歳になる頃にはレオンを除く皆がものの数秒で見つけられるようになっている。
気が動転して、気配を探る事を忘れたのだろうかと、イルメラに視線で問えば彼女はパタパタと首を振った。
「どうしても見つからないの……」
そんな馬鹿な、と自分でも探ってみたが少なくとも学園内にそれらしい気配は見付けられなかった。
「ルーカスは?」
同じように探していたルーカスに問うも彼は力無く首を左右に振る。
妙だ。
「学園内に無いのならば、学園の外に落としたのではないか?」
「いや、入学してからイルメラは一度も外に出ていない筈だよ。そもそも、外出する際には外出許可申請が必要だからね」
判ったと言いながらポンと手を打つレオンの言葉もディーが否定する。
「もう一度、その辺りを探して来ますわ」
「ちょっと待って、イルメラちゃん」
居ても立ってもいられなくなって、駆け出そうとするイルメラを止める。
「どうして……?」
「落ち着いて、イルメラちゃん。俺が絶対に見つけるから」
「はい……」
小さな手をぎゅっと握り締めてしょんぼりと項垂れるイルメラの心が少しでも晴れるように、乱れていた黒髪をそっと撫でる。
「しかし、この私の探知も掻い潜るとなれば、本格的に妙であるな。そこにあるのは偶然か、はたまた悪意か……」
芝居がかった口調で呟くのはバルトロメウスだ。
珍しく静かだと思えば、ずっと腕組みをして目を瞑り、魔石を探してくれていたらしい。
「俺達が感知できないとなると、やっぱり偶然よりも人が何らかの形で関わっている事を疑う方が自然かな。イルメラちゃんの胸元から消えたのは偶然でも、それを誰かが拾って隠した、とか」
有り得そうなパターンを述べれば、皆がウンウン唸る。
揃って眉を顰め、難しい顔をして唸る子供の集団はきっと端から見れば何事だろうかと思われるだろう。
「拾った誰かが学園の外で売ってなきゃいいんだけど……」
「それは多分無いと思うぞ。あれは俺が作った一点ものだし、あの魔石は質がいいから売りに出せばどうやっても目立つ」
「じゃあ、誰かが食べちゃったとかは?」
「それも多分無い。普通の子はあれを丸ごと飲み込めば鼻血くらいじゃ済まないからね。逆に、あれの金銭的価値を知っている大人なら、食べようとは思わないだろう」
ああでもない、こうでもないと必死になって考えるルーカスは、時折チラチラと心配そうな視線をイルメラに送っている。
優しい子だな。
「何か思うところがあるみたいだね」
「そりゃあ、まあ……」
話の間、ずっと俺を見ていたディーはそう言うとスッと目を細めた。
このタイミングで起こった事件となれば、嫌でも思い出すのは、あの人の事だ。
……証拠も無いのに、最初から決めつけるのは良くないな。
「イルメラ。少しの間だけならば、余のマサムネを貸してやっても良いぞ?」
尊大な言葉で、それでも思いやりのある声をレオンはイルメラにかける。
落ち込んでいるのを見かねて、自分の大事な宝物を貸してやろうと言ったのだ。
しかし、イルメラはやはりあの薔薇の魔石でなければダメなのだと首を振った。
あのブローチには思い出がある。
レオンを迎えに行って、危うくミイラ取りがミイラになりかけた時にもあのブローチは一緒だった。
イルメラが泣く泣くあの薔薇の花弁を砕き、俺に与えてくれたから、俺はこうして元気でいられる。
俺とイルメラにとって、あの薔薇のブローチは単なる装飾品や御守り以上の意味を持つのだ。
金銭的価値は俺達にとっては大した問題では無い。
そこに思い出や願いがあるからこそ、また同じものを作る、という選択肢は存在しないのだ。
それを思うと、大変な事を仕出かしてくれたなぁとため息が零れた。
「こうなれば、人海戦術だな。皆の者、私に続きたまえ!」
「草の根を掻き分けてでも探し出すのだ!」
「いや、ちょっと待ってくれ。俺に一つ考えがあるんだ」
将軍や暴君を思わせる台詞を吐きながら息巻く血の気の多い子二人に待ったを掛けた俺は、白陽寮の無駄に高い天井を見上げた。




