69話 ペガサスと赤薔薇の少女
「どうかな?」
「な、なかなかのお味ですわね……」
四阿に運び込まれた昼食をイルメラが口にするのを見て、俺はそっと訊ねた。
我が家の厨房を預かるコック長の料理が絶品なのは分かり切っているけれど、イルメラの口に合うかどうかほんの少しだけ不安だったのだ。
大事なお客様だからと前置いて作ってもらった料理は、味はもちろん彩りも美しく、飾り切りなどを駆使して見た目でも楽しめるものとなっている。
イルメラはピクッと肩を揺らした後、ボソボソと早口で感想を述べた。
ここが正餐室で、長いテーブルの端と端に向かい合って座っているのであれば、俺はその声を聞き取る事が出来なかっただろう。
だが、ここではばっちり聞こえた。
「そう、それは良かった」
笑みを深める俺に対してイルメラは何も聞こえなかったふりをしながら、必死に目の前の料理を味わう事に専念した。
*****
「これがペガサスなのですか?」
「うん。フリューゲルっていうんだよ」
昼食を終えた俺たちは厩に移動した。
イルメラお待ちかねの、今日のメインイベント・ペガサスとのふれあいタイムである。
初めて見る生き物にイルメラは臆する事無く駆け寄っていった。
傍に立つと見上げるくらいに背丈が高いとわかるフリューゲルの姿を、イルメラはキラキラとした目で見上げている。
『うむ。よろしく頼むぞ、そこなる女子よ』
「何か聞こえましたわ!」
「それが念話だよ。今のはフリューゲルの声だね」
「これが念話……」
念話で話しかけてくるフリューゲルの声にイルメラは驚いたようだった。
笑いながら解説をすると、俺の言葉を噛みしめるように繰り返す。
「その念話とはどうやるの?」
「う~ん、説明がちょっと難しいんだよね。魔力を使いながら、頭の中で喋るっていうのかな?」
「こうですか?」
「う~ん、それは普通の声だね。魔力に声を乗せるって言った方が近いのかな?」
「こう、ですか?」
念話という初めて見聞きする技術をどうしても会得したいらしいイルメラは、俺にコツを聞きながら何度も試行錯誤を繰り返した。
だが、本来それはとても難しい技術らしく、なかなか上手くいかない。
イルメラだって魔力の扱いには十分に長けている部類に入るというのにだ。
どうやら一回目にして見事成功してのけた俺やルーカスの方が少数派のようだ。
「フリューゲルの方で何かコツとかわかる?」
『そなたの説明でだいたい合っていると思うぞ』
「残念ですわ……」
三十分ほど目に見えぬ格闘を続けるも、結局この日にイルメラが念話を使う事は出来なかった。
誰の目にも明らかなほど落ち込むイルメラに、俺が通訳の役割を買って出る事でなんとかなだめる。
「落ち込んでいても仕方ありませんわね。フリューゲル様。直接お声を届ける事がかなわず、このような形で申し訳ございません。私はイルメラ・クラウゼヴィッツと申します。どうぞお見知り置き下さいませ」
「イルメラちゃんがよろしくだってさ」
『どうやら我が友の女性を見る目は確かなようだな』
「だろう?」
出来ないものは出来ない。
そう割り切って優雅に一礼するイルメラの姿は、毅然としていて美しかった。
そんな行動がフリューゲルの目にも好印象に映ったようで、褒めてくる彼に対して俺はここぞとばかりに胸を反らした。
「額のところの毛だけ青いのね」
「俺と契約した時に色が変わったんだよ」
「そういえば貴方の髪と同じ色ね」
フリューゲルに頼んで伏せてもらうと、イルメラは目を最大限に見開いて目の前のペガサスを観察した。
「触れてもいいかしら?」
『我は構わぬぞ』
イルメラの小さな手が伸ばされる様は、四阿で植え込みの花に触れた時と同じようにゆったりとして見えた。
触れるのが怖いからでは無い。
フリューゲルが驚かないように、ゆっくりと手を伸ばしているのだ。
そっとイルメラの指先が青い鬣に触れた瞬間、フリューゲルは金色に輝く目を細めた。
「ペガサスの鬣とはこんなにもサラサラなのね」
「くせになる手触りだよね」
『女人の膝というのもたまにはいいものだな』
「お前はオスカーか!」
フリューゲルはイルメラが大変気に入ったようだった。
最初は俺も含め二人と一頭でゆったりと過ごしていたのだが、フリューゲルのとある行動によって事態は一変した。
イルメラが無抵抗なのをいいことに大きな体格を利用してのしかかり、押し倒して馬首をイルメラの膝の上に乗せてしまったのだ。
たとえイルメラが抵抗をしたところで平均的な馬よりも遙かに大きな身体を持つフリューゲル相手にはどうする事も出来ないだろうから、彼女が変に抵抗せず怪我もなかった事については良しとしよう。
だが、笑って許されているのがムカつく。
羨ましい奴め。
幻獣だからか?
ペガサスだから、気安く触れても許されるのか?
やっぱり羨ましいぞ、フリューゲルめ。
「どうかしたの?」
「ううん、何でもない」
馬だけに馬乗りか、とくだらない事を頭の中で考えていたところに訝しむような視線を投げかけられて、とっさに首を振る。
まさかペガサスに嫉妬していますとは、さすがに格好悪くて言えない。
「そう? 急に叫んだりして、おかしな人ね」
「ブルルルルルルッ」
イルメラはなおもフリューゲルの鬣の青い辺りを指で梳くようにして撫でる。
同意を求めるような彼女の声にフリューゲルは満足げに鼻を鳴らした。
こいつ、こんな時ばかり馬らしくしてやがるぞ……。
口には出さないまでも、思わず内心で悪態をついてしまったのを許してほしい。
念話とは上達すれば、特定の相手にのみ声を届ける事の出来る技術だ。
イルメラの反応を見るに、どうやら先のフリューゲルの発言は俺にのみ聞こえるように調整されていたらしい。
だからイルメラはフリューゲルが不埒な考えのもと自分の膝を占拠しているとは、欠片ほどにも思っていない。
普通、伝説級に珍しくてまさに神々の芸術の賜物だと言われる、自身も神々しい風格を纏ったペガサスが、頭の中で邪な事を考えているだなんて思わない。
俺とて、『こいつ本当にペガサスだよな? ユニコーンじゃないよな? 種族間違えてないよな、俺』とフリューゲルの額の辺りを何度も確認した程だ。
『くそう、俺だってまだイルメラちゃんに膝枕してもらった事無いのに』
『頼んでみれば良いのでは無いか?』
『無理だ、まだその段階じゃない。いきなりただのお友達に膝枕をせがまれたらドン引きだろう』
『そういうものなのか? 人とは不便なものなのだな』
こうしてコソコソと念話で話している間にも、イルメラ手ずから鬣を梳かしてもらって、フリューゲルはご機嫌に鼻を鳴らしている。
器用な奴だ。
『フリューゲルのロリコン!』
『それを言うならばそなたとて同じではないか』
『数百歳のおじいちゃんに言われたくないね』
『何を言うか。我はこれでも人間年齢に換算するとまだ二十代だ』
『どっちにしろロリコンだろうが!』
無論、フリューゲルが本気でイルメラをどうにかしようだなんて考えていない事は理解している。
これは俺の気持ちを知った上での嫌がらせなのだ。
『フフン。悔しかったら早く関係を進めて恋人か、婚約者にでもなる事だな』
『そうは言っても、こういう事に焦りは禁物だろう?』
『そんな悠長な事を言っていては、どこぞの馬の骨に掻っ攫われてしまうやもしれぬぞ?』
『お前、本当に性格悪いね』
頭を動かさずに目だけで勝者は自分だと訴えてくるのが余計に腹立たしい。
よもや、ペガサスに恋愛的な意味で嫉妬する日が来ようとは思わなかった。
何も知らない純真なイルメラは無邪気に『綺麗な毛並みね』なんていいながら、赤子をあやす母親のような慈愛に満ちた瞳をフリューゲルに注いでいる。
騙されている。
イルメラは性悪ペガサスに騙されているのだ。
『邪なフリューゲルなんか、シマウマになってしまえ』
『その発言の意味はよく判らぬが、そなたの思い人の膝を借りたのが我でまだしも良かったとは思わぬか?』
やけを起こして寒いギャグのような恨み言を吐き出す俺に、冷静になれとなだめるようにフリューゲルは言う。
今現在、俺が心を乱しているのは八割方フリューゲルのせいなのだけれど。
『どういう事?』
『これがオスカーであったとしたら、どうなるであろうな?』
刺々しさの残る声で訊ねる俺に、フリューゲルは凪いだ湖を思わせる静かな声で問う。
考えてみるまでもなく、最悪で災厄な光景がありありと脳裏に浮かんだ。
フリューゲルは押し倒した以外はただ身を任せて撫でられているだけだが、それがオスカーとなれば話が違う。
攻めて、攻めて、攻めまくるだろう。
ルーカスの家の黒ユニコーン・オスカーは生粋の女好きだ。
それにただの女好きでは無い。
若い、それも穢れ無き純潔の乙女が好きなのだ。
『あんな奴にイルメラを会わせてしまったら、何をされるかわかったものじゃない』
『だろうな』
まず間違いなく、彼は積極的にイルメラにアプローチをかけてくるだろう。
長年の隠遁生活でそういった面は枯れ果てたかと思っていたが、彼はまったく若々しさを失ってはいなかった。
むしろ長い間抑えつけられていた分、一気に解放されて箍が外れてしまい、こじらせたと言っていい。
昨年の北領への滞在期間中、ブロックマイアー家の使用人さんたち――特にうら若い女性たちは甚大な被害を被った。
伝承上の生き物であるのを良い事に、好き勝手な無理難題を次々と浴びせかけ、女性を何人も傍らに侍らせている様は暴君そのものだった。
誰も身体的被害は無かったものの、誰もが精神をごりごりと削られてしまった事だろう。
あの時はルーカスが叱りつける事によってどうにかこうにか事態は終結したが、良くも悪くも懲りない性格のオスカーの事だ。
鼻面を押しつけたり、尻尾を犬のように振ったり、あの手この手でイルメラに誘いをかけるに違いない。
きつい性格に見えて、イルメラは心根の優しい子だ。
常春頭をひた隠しにしたオスカーの演技に騙され、その辺りの動物と同じ感覚で接近を許してしまうだろう。
異常なまでの乙女好き。
それが種族としてのアイデンティティーなのだと主張されても、彼がイルメラに近づく事は到底許容出来ない。
見ようによってはオスカーはルル以上の危険因子かもしれないな。
「まずはルーカスに相談が先決か……」
「どうしたの?」
「イルメラちゃん。イルメラちゃんは俺が何に代えても絶対に守るからね」
「なっ、何を急に……。 本当におかしな人だわ!」
傍目にはぶつぶつと脈絡の無い独り言を繰り返す俺を心配してくれるイルメラに胸を熱くしながら誓う。
全くもって話の流れが掴めないながら、急に愛の告白めいた言葉を囁かれるはめになったイルメラは、カァッと一瞬にして頬を真っ赤に染め上げた。
そんな人の子たちの初恋の行方を見守りながら、白い幻獣が含み笑いをしていた事に、この時の俺たちは気付かないのだった。