119話 スローダンス
遅くなりました。
「お手本だなんて、私には無理ですわ! ダンスだなんて一度も踊ったことがございませんもの!」
先生の思いもかけない提案に揃って目を丸くし、無言でイルメラと視線を交わすこと数秒。
ハッと息を吹き返した彼女は、それはもう盛大に慌てた。
俺から身を離してパタパタと小さく両手を振る様子から、本当に自信がないことがうかがえる。
「不安になるお気持ちもわかりますが、あまり心配なさらないで。ダンスに大切なのは技術や経験だけではございませんわ。一番大切なのはダンスを愉しむ心なのです」
不安に駆られたイルメラを先生が鼓舞するものの、彼女の表情は晴れない。
薔薇色の瞳が恐らく先ほどとは別の理由で小刻みに揺れている。
どうしたいか?
俺自身の心は最初からとうに決まっている。
「イルメラちゃん。俺と踊ってくれないかな?」
「でも……、迷惑をかけてしまうかも……」
ペアを申し込んだ時と同じ言葉を投げかけるが、彼女はしゅんと首を垂れたままだ。
倉皇とした感情の表われか、宙を待っていた彼女の両手は、スカートの生地をぎゅっと握り込んで離さない。
「リードをするのは俺だから。うまくいかなくても、それは全部俺の責任で、イルメラちゃんのせいじゃないよ」
「でも、足を踏んでしまったりしたら……」
「足の一本や二本くらい、どうってことないよ。イルメラちゃんと踊れて、イルメラちゃんに踏まれるなら光栄だから。何度でも踏んでいいよ」
可愛い心配に、思わず相好を崩す。
何度踏まれても構わない。これは紛れもない本心だ。
「あ、貴方はいつもそうやって……! ずるい、ですわ……」
他ならぬ貴女と踊りたいのだと、手を重ねて自分なりの言葉で伝えると、イルメラは弾かれたように顔を上げ、言葉を詰まらせながらそっぽを向いた。
「……踏まれ過ぎて足が使い物にならなくなっても、知らないんだから」
「ってことは、一緒に踊ってくれるの!?」
「し、仕方なくですわ! こんなに大勢の方たちが見ている中で断られたら、あなたにおかしな物言いがつくかもしれないと思って……」
ゴニョニョと歯切れの悪い建前の説明をするイルメラの頬は、夕日よりもずっと赤い。
「そっか、ありがとう」
「べっ、別に貴方の為なんかじゃなくってよ!」
イルメラの熱に当てられたように、俺自身の体温も確かに上昇しているのを感じた。
「それではまず、ホールドを」
皆の視線が集まる中、イルメラの手を取って再び体を寄せる。
「イルメラちゃん、緊張しないで。俺の動きに合わせてくれれば大丈夫だから」
「わ、わかっておりますわ」
密着した体勢ゆえに彼女の体に必要以上に力が入っているのが伝わってきて、なんとか宥めようと互いにしか聞こえないくらいの声量で囁く。
しかし、そんな俺の声にもイルメラはいっぱいいっぱいの様子でますます身を強ばらせている。
どうしたものか、考えあぐねていると部屋の隅の方からふわりと弦楽器の音が聞こえてきた。
今日の練習の為に、楽器を演奏できる者たちを集めていたようだ。
華やかでありながら、少しゆったりめのテンポが掴みやすいその曲は、なるほどダンス初心者にはぴったりだと感じる。
……今だ。
曲が始まって、ほんのわずかにイルメラの身体のこわばりが解けたのを感じて、動き始めた。
まずはテンポとリズム、そして基本の動きに慣れてもらうため、旋回することなくその場で足踏みをするようにゆったりとステップを踏む。
競技ダンスと違って、本当の意味の社交のためのダンスは必ずしも華やかで技巧的である必要はない。
先生も言ったように、大切なのはダンスを楽しむことだ。
これはこれでいいと、一歩一歩を俺は確かめるように刻みながら噛み締めていた。
ステップを踏むたび、心が踊る。
初心者ゆえのぎこちなさや初々しさは、今この時にしか楽しめないものだ。
普段は許されていない、息遣いすら読み取れる距離感にいるということが、俺の気分を高揚させていた。
すると十小節も繰り返さないうちに要領を得たらしいイルメラの表情や身体から、次第に硬さが抜けていく。
様子を見ながら軽く旋回をすると、くるりと薔薇の瞳が瞬いた。
「まあ!」
「素敵ですわ……」
「私もあんなふうにリードされてみたいです」
楽器の音色に混じって時折、羨むような声が聞こえてくる。
「楽しい?」
「わ、悪くはありませんわね……」
「そう、それならもう少し動きを大きくしてみようか」
イルメラに会話を交わす余裕が出てきたところで、少し難しいステップを挟みながら、ふわりふわりと緩急をつけ、上下運動をしながら円を描いてフロアを移動する。
おそらく彼女は呑み込みが早いのだろう。
つたない印象を残しながらも俺の動きに応え、初心者には難しいはずのスピンターンも、大きくもたつくことなくこなしてくれている。
最初のダンスでこれなら、1年も学べば相当上達することだろう。
イルメラの補助に意識を向けていたはずが、いつのまにか俺自身も純粋にダンスを愉しんでいた。
そろそろクライマックスだろうか?
楽団員たちが視線を交わす様子を横目で確認した後、意を決する。
最後の一音に合わせ、身体を捻りながら大きく足を踏み込んでイルメラの上体を仰け反らせ、ポーズを決めるとワッという歓声とともに拍手が巻き起こった。




