118話 乙女の憧れ
ミルクの飲み過ぎで吐きそうになるという情けない事件を経て、俺は急成長を諦め地道な努力を続ける路線に切り替えることにした。
「では、先日発表した男女二人一組のペアになって下さい」
先生の掛け声とともに、学生たちがざわめきながら移動を始める。
ここはダンスの授業の度に開放される大広間で、学生たちが自分の姿勢を確認しやすいようにと壁にはいくつもの大きな姿見が置かれている。
そっと自分のペアの方に顔を向けると、あちらも同じタイミングで同じ動きをしていたようで、視線がぶつかった。
目が合ったことに驚いた様子の彼女はぴくりと肩を揺らすと、ぷいとそっぽを向いたが、丸い頬は熟れた林檎のように真っ赤だ。
念願叶って、イルメラとペアになることが出来た。
そんな喜びを噛み締めながら、少し離れた位置から彼女の様子を観察する。
このままずっとここで見ていたい。
けれど、早く彼女と踊ってみたいという胸の高鳴りも無視は出来ない。
彼女を驚かせないようにゆっくりと足を進める。
正面に立つと、彼女はより一層顔の角度を逸らして俺の視線から逃れようと、無駄な抵抗を試みていた。
「お嬢さん、お手をどうぞ」
腰を落とし、紳士らしく左手を差し出しながら彼女を見上げて微笑む。
今この時ばかりは、己の言語中枢に感謝だ。
笑みを湛えたままじっと彼女を見つめていると、イルメラの赤い瞳が右へ左へと所在なさげに忙しなく動き回る。
気になるけど直視できない。そんな恥じらいが見て取れる仕草に自然と笑みを深めると、イルメラはおずおずと躊躇いがちに右手を差し出し、俺の左手に重ねる。
白い指先が俺の手のひらに触れた途端、とくりと心臓が強く脈打ったのを感じた。
「まあ、なんて素敵なんでしょう!」
「シックザール侯爵令息様は、女性の扱いに長けていらっしゃるのね」
「私もあんなふうにダンスに誘われてみたいですわ!」
自分のそれより小さな手を取って背筋を伸ばしたところで、何やら周囲が騒がしいことに気付く。
二人だけの世界に入り込んでいたけれど、どうやらやりとりの一部始終を見られていたみたいだ。
その反応は男女で大きな違いがあった。
胸の前で祈りを捧げる乙女のように両手を組み、期待の籠った眼差しを自分のパートナーに向けたり、俺と自分のパートナーを見比べてこれじゃあ駄目ねとばかりに溜め息をついたりと、女の子たちはこちらに大きな関心を向けている。
対して男子諸君はというと、口を半開きにしてぬぼーっと突っ立っている者が大半で、残りの一割ほどが敵対心の籠った鋭い眼差しで俺を睨み付けたり、呆れた表情を浮かべている。
おそらくこの世界でも、女性の方が精神的発達が早い傾向にあるのだろう。
女子が何をそんなに騒いでいるのか解らない男子が大多数の中、ガンを飛ばして来る連中は早くから女性を意識しているみたいだ。
『抜け駆けしやがって』という怨嗟の声が聞こえて来そうで、首の後ろがピリピリと焼け焦げそうだ。
俺の近くに陣取り、心から祝福するような笑顔を向けてくるルーカスなどは例外中の例外で、レオンはその他大勢に混じって口を半開きにしている。
「はい、皆さんパートナーは見つかりましたか? 見つかったらまずは、簡単なワルツのためのホールド姿勢を覚えましょう。男性は左手、女性は右手を出して手を組んで向かい合って下さい。男性の手を受け皿のようにして下から女性の手を支えるようにすると良いですよ」
パンッと先生が手を打つと、私語をしていた学生たちが口を引き結んで、ぎこちない動きで手を取り合う。
「真正面ではなく、互いに体半分ずつズレた状態で向き合い、男性は右手を女性の背中に、女性は左手を男性の二の腕に回して下さい。ああ、皆さん、両肘の位置を水平に保つと踊りやすいですよ」
俺もイルメラに向き直り、先生の言葉に従ってホールドの姿勢を取ると、かつてないほど近い距離感にまたも彼女の頬が赤みを増す。
イルメラは相変わらず、視線を合わせないように頑張って顔を逸らしているけれど、首の角度にも限界がある。
「いちいち反応が可愛くて困るな……」
「なっ……!」
ピンと伸びた美しいイルメラの首のラインに視線を奪われて思わず口から零れた本音にイルメラが反応して、一瞬こちらに向き直った後、目が合ったことに動揺して慌ててまた首を傾ける。
今度は耳まで真っ赤だ。
そんな彼女の熱に当てられたのか、はたまた彼女から立ち上る薔薇の花の香りのせいなのか、俺自身もフワフワとした高揚感とともに体温が上がったような気がした。
早く一緒に踊ってみたい。
きっと、好きな子と踊る最初のダンスは忘れられない思い出になる。
「お二人とも姿勢は良いですが、貴女はもう少し身体の力を抜いて楽にするといいですね。ああ、貴方はとても自然体で素敵ですね! もしかして、ダンスの経験がおありで?」
「えっと、少しだけ練習を」
順番に回って細かい修正やアドバイスをしていく先生にダンス経験を問われ、ぼかした返事をする。
今世ではダンスの経験はない。
しかし、前世では母親に勧められるがままに、社交ダンスを習っていた。
当時は社交ダンスなんて習って何の役に立つのか大いに疑問に思っていたけれど、今こうしてたしかに役立っているのだから、人生というものは何があるかわからない。
「まあ! それなら、お手本にお二人で一曲踊って見せていだけますか?」
いい事を思い付いた。
そんな顔をして俺たちに提案する先生に、俺とイルメラは揃って目を見張った。




