112話 大人の権力、子供の無力
「……キ、キーガン兄上が……亡くなった……?」
俺を始め、白陽寮の寮生の皆が瞠目する中、バルトロメウスが血の気の引いた顔をしてうわ言のように呟く。
いつも騒がしいはずの彼の背後には、今は何も浮かんでいない。
「殺されたとはどういうことだ!? 何があった……? いったい誰がキー兄上を!?」
「落ち着いて下さいっ! 我々に反抗されては、貴方のお立場が悪くなるだけです!」
背丈が足りないながらも懸命に腕を伸ばし、騎士の一人に取りすがり、掴みかかって問い詰めるバルトロメウスを別の騎士が宥める。
「だが、兄上が……キー兄上が……」
大きく取り乱して、震える声で何度も兄の愛称を口にするバルトロメウス。
そんな痛ましい彼の様子を見て、俺はあることを思い出していた。
アイゼンフート公爵家の末っ子として生まれたバルトロメウスには二人の兄がいた。
一人は俺もよく知る、レオンの毒見役にして医師でもあるゲオルグさんで、彼は三兄弟の次男だ。
そしてもう一人の兄といえば、家出中とかねてより噂になっていたはずだ。
名前を聞いただけではいまいちピンと来なかったけれど、バルトロメウスが兄と呼んでいるあたり、今回亡くなったキーガン・アイゼンフートとは、行方不明だったアイゼンフート公爵の長男と見てまず間違いないだろう。
「嘘だ……。そうだ、キー兄上が殺されただなんて、きっと何かの間違いに違いない。そうだ、そうに決まっている!」
「お気をたしかに」
「兄上の……キー兄上の最期はどのようなご様子だった……?」
「私どもからは詳しいご様子をお伝えすることができません。ですが、遺体発見現場の状況から見て、公爵子息はその……毒殺された可能性が高いそうです」
毒。また、毒か。
バルトロメウスの問いに、騎士の一人が慎重に言葉を選びながら答えたのを聞いて、俺は歯噛みする思いだった。
頭の中で、少女の不気味な笑い声がこだまする。
タイミングやこれまでの手口から考えて、彼女が何らかの形で関与している可能性が高いと言わざるを得ない。
俺や俺の家族、そして俺と直接交流のある親しい人物がルルの攻撃対象だとばかり思い込んでいた。
だけどルルは、一度でも俺にそう言っただろうか?
答えは、否だ。
詳しい事情はわからないけれど、バルトロメウスが犯罪の嫌疑が濃いとされる重要参考人と呼ばれているのは、使われた毒物が何か関係しているのかもしれない。
例えば……。
思いかけて、考えを打ち消すように首を振る。
先入観と思い込みだけで断定してしまうのは良くない。
「キー兄上は誰かに恨まれるようなお人ではなかった。いつも優しく、穏やかで。家出してしまった後も、時々ふらっと帰ってきては私の研究に助言をくれた。研究に行き詰まると決まって、キー兄上が現れるんだ。まるで全てを見透かしているかのようで、私など足元にも及ばないほど聡明な方だった……」
兄として、また一人の研究者として。
様々な意味でバルトロメウスは年の離れた長兄を尊敬し、深い憧憬の念を抱いていたのだろう。
行方不明になっていた間も交流があったのは意外だったが、だからこそこんなにも彼は心を乱されているのだろう。
「お悔やみ申し上げます」
悲痛な叫びに対し、他にかける言葉が見つからないというように騎士たちが沈痛な面持ちで声を揃えて哀悼の意を表す。
「……っ! バルトロメウス!」
力を失ってガクッと膝から崩れ落ちていく友人の姿に鋭い声を上げると、一番近くにいた騎士が彼を支える。
ちらっと見えた横顔、鼻先までずり落ちた眼鏡の縁から覗く瞳は虚ろだった。
「よさぬか! この者は余の友人で、今は深く傷付いておる。この者には休養が必要だ。それが解らぬのか?」
今にも連れて行かれそうなバルトロメウスを庇おうと、レオンが騎士の前で両腕を広げて通せんぼするように立ちはだかった。
「申し訳ございません、殿下。これは、王命に御座います」
「へ、陛下が……?」
おそらくレオンは王族の名のもとに自分が命令さえすれば要求が通ると思っていたのだろう。
自分より上の権力者、王の名が出てきた事で彼は目に見えて狼狽えた。
王命ということは、先頭に立つ騎士が読み上げていた書状がやはり勅書だったようだ。
助けを求めるように、視線を送ってきたレオンに無言で首を振る。
国王と世継ぎの王子。二人の間に火種が起きれば、それこそルルの思う壺だ。
「ご理解賜り、恐縮に存じます」
国内に、王命に逆らえる者など存在しない。
それは王子であるレオンであっても例外ではなく、広げた両腕を自分の身体の脇に下ろし、為す術なく道を空けたレオンに騎士が礼を述べる。
「でも……同行を願うということは、王命で無理やりに連行されるわけではなくて、任意同行ですよね? つまり城に行くか、行かないかの選択はバルトロメウス本人に委ねられて……」
「これは私見ですが、拒否すれば王室と公爵家の関係にヒビが入ることは避けられません。陛下が願われるというのは……、そういうことです」
誰の目にもボロボロの状態の友人をどうしても行かせたくなくて。
一縷の望みのようにすら思えた言葉の違いを持ち出して口にしていた。
しかし、主君が願ったのなら、それを叶えるために尽力するのが正しい臣下の在り方だと、勅書を読み上げた騎士が俺の言葉を遮って述べる。
初めから選択権はない。
目の前に二つの選択肢を提示されても、一方は決して選んではならないのだ、と。
ぴしゃりと冷水を浴びせられたような気分だ。
「待ってください。お城に連れて行かれたバルトロメウスくんは、どうなるんですか?」
「明日の午後、聴聞会が開かれることになっています」
「すぐに戻って来られるのですわよね?」
「当然ですが罪が認められた場合は、法と前例に則って相応の沙汰を陛下が下されることになります。その先は……女神と陛下の御心のみぞ知ることでしょう」
二度と戻って来れない可能性もある。
直接的な表現こそしないまでも、暗にそう告げられてルーカスとイルメラがさっと表情を曇らせた。
俺も、おそらくレオンやルーカスたちも、バルトロメウスが実の兄を手にかけたとは思っていない。
だけど単なる殺人よりも身内殺しは重罪で、万が一バルトロメウスによる犯行と判断された場合には、死罪を免れないことをこの場の皆が知っている。
聴聞会とは、この国の法律で定められている裁判集会の一種で、嫌疑をかけられた者や、その関係者が意見を述べるために設けられる場だ。
そこで十分に嫌疑を晴らすことが出来れば、バルトロメウスは解放される。
『魔女裁判』を代表例として、中世ヨーロッパで実際に広くおこなわれていたとされている『神判』のような、神の奇跡に頼る残忍かつ合理性を欠いた裁判制度は採用されていないものの、不安でたまらない。
詳しい状況がわからない中、突然乗り込んできた騎士たちのただならぬ気配に、俺を含め皆が動揺していた。
結局のところ、何もできないまま下唇を噛み締めて、傷付いた友人の背中が次第に小さくなっていくのを見送ることしかできなかった。
肺に取り込んだ空気に全身を侵されたように、体じゅうどこもかしこも冷たかった。
頭は冷えているのに、良い考えが一つも浮かんでこない。
「父上に手紙を書こう」
ほんの数分前までの賑やかさは消え失せ、騎士とバルトロメウスが去り、痛いほどの静寂と重苦しい空気に押し潰されそうな中で。
誰もが何も言えずに押し黙っていた中、最初に口を開いたのは意外にもディーだった。
自分たちにできることなど何もないかもしれないと、立ち尽くしている俺を、光の宿った翡翠の双眸がじっと見つめていた。




