109話 神の意志
※シリアス回
「ごきげんよう」
「……っ!?」
抑揚をあまり感じられないその声が鼓膜を打つと同時に、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
捜していた人物が、目の前で微笑んでいる。
人と円滑なコミュニケーションを図るには、笑顔と挨拶が何よりも大事だと知っている。
知っているのに、どうしてだか俺は怖気を奮って立ちすくむことしか出来ないでいた。
甘やかを通り越して、とろけるような極上の笑みを向けられているというのに、俺は身の毛がよだつような感覚に襲われている。
いつもの白一色のコーディネートは鳴りを潜め、ブロンドの髪を黒のモーニングベールで覆い、肌の露出の少ない黒のワンピースを身に纏う、一転して黒一色のまるで葬儀に参列するための喪服のような出て立ちの彼女。
服装と表情があまりに不釣り合いで、好感とは程遠い感情を抱いてしまう。
祝いの場に相応しくない服装をして悪目立ちをしているはずなのに、不思議と彼女を目に留める者はいない。
「久しぶりに会えたのに、挨拶すら返してくれないのかしら? 貴方が私に会いたがっていたから、私の方から声を掛けたのよ?」
「違う!」
否定の言葉が口をついて飛び出す。
強い拒絶の心をあらわしたその言葉に、しかし彼女は傷付いた様子もなく、笑みを深める。
「いいえ。貴方は私を捜していた。私と同じように、今日という日を心待ちにしていたの」
愛の告白とも取れる発言をした彼女がこちらにそっと手を伸ばしながら一歩近付いてきたのを見て、本能的に一歩後ずさった。
「あら、残念ね」
黒い袖から覗く、小さく白い指先が行き場を失ってピタリと止まる。
口調とは裏腹に、ルルは俺の拒絶などどうでも良いとばかりに笑みを絶やさす、目を細めた。
「どうして俺たちを狙うんだ?」
「言ったでしょう、それが世界の為だと」
口許がどんなに微笑みを象っていたとしても、それがどんなに優しげだったとしても、ベール越しに見える彼女の瞳は何の感情も宿していなかった。
喜びや慈しみ、悲しみはおろか、怒りさえもない。
「世界を滅ぼす。それが世界の為だとでも言うつもりなのか?」
「ふふふっ、知ってしまったのですね」
鼻にかかった笑い声。
神殿に相応しい荘厳なパイプオルガンの音色が、彼女の笑い声一つでおどろおどろしいものへと変貌を遂げる。
「どうしてだ? 俺たちを狙うことと、世界の破滅にどんな関係があるんだ? どうして世界を滅ぼそうとするんだ?」
「おやおや。知りたがりさんですね」
次々と湧き上がる疑問。
それらはこの三年間、俺が胸の奥にしまい込んでいたもので。
一つ吐き出せばもう一つ、さらにもう一つと、決壊したダムのように次々と溢れてくる。
礫のように、彼女に向けて力いっぱい投げつけたつもりだった。
けれどルルはまるで羽虫でも追い払うような仕草をして、俺の疑問を一笑に付す。
「何故、世界を滅ぼすのかと聞きましたね? では、逆に問います。この世界は何の為に生まれてきたのでしょう?」
「そっ、それは……」
「答えられないのですか?」
意表を突く質問に、言葉を詰まらせる俺をルルが嘲笑う。
「ふふっ、そんな悔しそうな顔をして。ですが、貴方が答えられないのも仕方ありません。最初から意味などありはしないのだから」
ほぅっと一つため息をつくと、彼女は両腕を広げ天井を仰いだ。
「クライス、でしたね? 貴方の新しい名前は。私も、レーツェルという名をいただきました。なかなか素敵な名前でしょう? ですが、それにいったい何の意味があるというのでしょう?」
単語の意味を問われているのではない。
洗礼名をつけることに対する意義を問われているのだと察した。
その疑問は神殿と女神に対する冒涜に近い。
神官や信心深い信徒に聞かれれば、取り押さえられたとしても文句は言えない。
だけど、悲しいかな。彼女の声は俺以外の誰の耳にも届いていない。
「人は皆、物事に意味や価値を見出したがるものです。己が人生が意義あるものだったと。無価値ではなかったと。死の床にある者にすら、意味を持たせようとするのです。嗚呼、人間とはなんと愚かな生き物なのでしょう?」
天井を仰ぎ見ていたルルが俺に向き直る。
今日初めて感情の色を浮かべた瞳は、法悦でも得たかのように陶然と潤んで見えた。
残酷なことを言いながら、何者かを慈しんでいるかのような表情を見せる。
彼女の考えが読めない。
「何を考えている?」
「この世界の未来を」
「君の考えている未来とは、終焉か?」
「ええ」
「何故、終わらせる必要がある?」
「……よくわかりませんわ」
「よくわからないのならどうして……!?」
捉えどころのないルルの返答に苛立ちながらも、辛抱強く次の答えを待っていたはずなのに、思わず声を荒げてしまう。
例えば、彼女が世界を憎んでいたとして。何かがそのきっかけとなったのなら、原因を取り除いてしまえばいい。
時間は掛かるかもしれないけれど力によらない、対話による解決だって不可能ではないはずだ。
だけど、そこに要因すら存在しないのだとしたら、どうやって解決すればいいのだろう?
理由なき暴力を、どうやって止めればいい?
どうやって彼女を救えばいい?
「私は内なる声に耳を傾け、その意志に従って行動しているだけ。大いなる神の意志の前に、人間のようなちっぽけな存在の意志など、いったい何の意味があるというのでしょう?」
相変わらず恍惚とした笑みを浮かべながら、ルルは人の意志など無意味だと言う。
まるで、自分が人ならざる者であるかのように。
自分は意志を持たない存在だと言っているかのようだ。
「弱者は意志を持つ資格すらないと? 意志を持つことすら許されないと?」
「ええ、それが神のご意志です」
「……君の聞いている声は、神様なんかじゃない」
彼女が信託を得るのは、まだ先の話だ。
それに、俺の知っている女神は人も、世界も慈しんでいた。
少々変わってはいても、“僕”と俺が母さんから受けた愛情は本物だった。
何より、世界を救うために母さんは俺をここに送り込んだのだ。
「私の聞いている声は、まやかしだと。そう、仰りたいのですか?」
「そうだ」
「んふふっ、なるほど……。いいでしょう。それなら、どちらが正しいのか、試してみるのもよいでしょう」
フワッと、風もないのに彼女の頭部を覆うベールが揺らめく。
「私から貴方に試練を与えましょう。貴方が大切に思っている方たちを守ることが出来るのか、試してみるのです」
「それじゃあ、今までと何も変わらないじゃないか」
「ええ、そうですね。それらは確かに、私が貴方に与えて来た試練です。ですが、貴方が拒否すれば、貴方は大切な方たちを永遠に失うことになるでしょう」
拒否権はない。
そう言って、ルルは高みの見物をするかのように冷ややかに笑った。
「凡ての現実は、試練となって貴方の身に降りかかることでしょう」
「……俺は絶対に諦めない。全員守って見せる。家族も、友人も、誰一人失うことなく、守ってみせる」
両足に力を込めて、両の拳を強く握りしめて、歯を食いしばって。
現実から目を逸らさぬように、ベールの奥の彼女の瞳を真っ直ぐ見据える。
「……くふふっ。その瞳に宿る希望が本物か、或いはニセモノか。私が見極めて差し上げましょう」
ルルは俺を、光のない瞳で見返してきた。
「……そろそろ時間のようですわね。ではまた、お会い出来る日を楽しみにしていますね」
彼女は親しい友人に暇乞いするように手を振って、深々とお辞儀する。
洗練された完璧なお辞儀は、とてもたった九つのただの町娘の振る舞いとは思えない仕草だ。
そうして彼女は、どこか浮き足立った様子で高い天井に足音を響かせながら、神殿を後にした。
パイプオルガンの音はいつの間にか鳴り止み、彼女の残り香がやけに鼻についた。
レーツェル(Rätsel)
神秘、なぞなぞの意。
念の為、気になった方向けに。




