107話 優しい味
「味見!」
「熱いからダメだ」
完成したソースを前に目を輝かせる食い意地の張った王子を制止したのは俺ではなく、料理長さんだ。
「で、これをどうするんだ?」
「えっと、そこに並べてある器の底に少量ずつ、同じくらいの高さになるように流し入れてください」
「了解」
ひょいと身体を捻って右手に持った片手鍋をレオンから遠ざけた料理長さんは、調理台に並べられた小さめの深さのある器に手早くカラメルソースを注いでいった。
無駄のない正確な動きで、一定のペースを保って飴色のソースが注がれていくその様は、まさしく職人芸だ。
素人が一カ月やそこら練習したところで、こうはならない。
「こんなにちょっとずつでいいの?」
「あくまでソースはソースだからね。メインは本体だから」
「ぐぬぬぬ……。その本体とやらはいつになったら出来るのだ?」
「それはこれから取り掛かるところだよ」
各器の底に薄っすらと溜まった飴色のソースを見て心許なさそうに大丈夫かと訊ねてくるルーカスを宥めつつ、味見を阻止されてぶー垂れながら先を急かしてくるレオンに苦笑する。
これは、レオンが痺れを切らす前に早めに仕上げるべきかもしれない。
「まずは卵液作りから……と言いたいところだけど、料理長さん? フライパンにお湯を沸かしておいてもらえますか?」
「鍋じゃなくていいのか?」
「はい、ボウルを湯煎したいだけなので」
「最近の貴族の坊ちゃんは、湯煎なんて調理方法を知ってるのか」
「えっと、前に本で……アハハハハ~」
火を使う作業は思い切って任せようとお湯を沸かすようにお願いしたところ、思わぬ角度からの鋭い突っ込みに俺は使い古した言い訳をしつつ苦笑いすることしかできなかった。
最近はこうして不審がられることも稀になっていたから油断していた。
「何だ、料理人でも目指してんのか?」
「そういうわけじゃないんですけど……。偶然?」
胡乱げというか、奇異なものを見るような目で料理長さんが俺を見てくるのは、当然といえば当然だった。
一般的に言えば料理など使用人の仕事という認識で、料理人を目指す高位貴族家の男子など皆無だからだ。
かく言う俺も、料理人を目指しているわけではない。ただ、懐かしいあの味を再現したいだけだ。
だけどそうすると、料理人を目指していないにもかかわらず、『湯煎』を知る世にも奇妙な侯爵令息がここに爆誕するわけで。
「湯煎とは何かしら?」
「ハッ……!」
可愛らしくコテンと首を傾げるイルメラの一言で俺はさらに窮地に立たされることとなった。
紅の双眸が説明を求めてひたと俺を見つめている。
「な、なんだっけ……?」
出来ることなら答えてあげたい。
しかし、懐疑的な目を向けてくる料理長さんを前に俺は惚けることしか出来なかった。
自分で自分の目を見ることはできないが、これ以上ないくらいに視線が泳いでいたと思う。
もはや言い逃れは不可能かもしれない。
それなら、いっそのことひそかに料理人に憧れを抱いていたことにしてはどうだろうか?
この年頃の子どもの将来の夢なんて、ころころ変わっても何ら不思議はないから、ほとぼりが冷めた頃に忘れたふりをすれば……。
「……何だ、知らないのかい? 湯煎とは、お湯を張ったひと回り大きい鍋などに材料を入れたボウルを浸けて、直接火を当てずに温める方法だ。そうすると直火で加熱するよりもゆっくりと温める事ができるのだよ」
知っているやつがもう一人ここにいた!
バルトロメウスだ。
調薬の工程で実践の経験があるのか、彼は背景に湯煎の映像を出しながら如才なく解説してみせる。
便利だな、演出魔法。
「ゆっくり温めると何か違うのかしら?」
「じっくり温める事で材料を焦がすことなく、しっとりと滑らかな舌触りに仕上げることが出来るのだ」
「そう、それ! ほら、意外と知ってる子も多いんですよ。ねっ?」
「ふーん……? なかなか詳しいじゃねーか。高貴なご身分の方々の考えることはわからん……」
「あはは〜……」
鼻の穴を膨らませて訝しげな顔をしながらもそれ以上の追及をやめた料理長さんに、乾いた笑みを浮かべながら内心で胸を撫で下ろした。
今回は変人に助けられたみたいだ。
「じゃあ、バルトロメウスは卵を割るのは得意?」
「無論」
「念のため確認するけど、殻が混ざったらダメだぞ?」
「卵のことなら任せたまえ」
解説してもらった流れでそのまま次の手順をバルトロメウスにお願いすると、彼は得意だという言葉通り、次々と卵を割って見せた。
卵好きは伊達じゃないらしい。
手慣れた手つきでコツンと叩いては割り、叩いては割りと危なげない手つきで卵を割っている。
「よし、卵はそのくらいでいいな。そしたら次はイルメラちゃん、割り入れた卵を切るように混ぜて」
放っておいたら際限なく卵を割っていそうなバルトロメウスにストップをかけると、今度はイルメラに声をかけた。
自分の番が来るのを今か今かと待っていた彼女はやる気十分、気合いも十分だ。
「ポイントはヘラの先をボウルの底から離さないようにすること。やりにくかったらボウルを少し傾けてもいいよ。そうやってなるべく卵に空気が入らないように混ぜるんだ」
勘違いされやすいけれど、ケーキなどと違って今回はさほどしっかりと混ぜる必要はない。
白身が切れるくらいで十分だ。
「そのくらいでいいね。そこに砂糖と牛乳、それから生クリーム、それからこの小瓶を……」
「それはいったい何なのだ?」
「フフン、よくぞ聞いてくれたな」
説明しながら自分で残りの材料を次々と卵の入ったボウルの中に加えていった俺は最後の仕上げとばかりに手のひらサイズの小瓶のコルクを抜いて逆さにし、中身を数滴振り入れた。
それがいったい何であるか明かさずに投入すると、すかさずレオンが見咎めてくる。
実のところ、この質問を待っていた。
「これはバニラエクストラクトと言って、香りづけをするための材料だよ」
そう、小麦粉や生クリームの次くらいには頻出度合いの高いお菓子作りの材料・バニラ香料だ。
バニラエクストラクトとは天然のバニラをラムやウォッカなどのアルコールに漬け込んで抽出したもので、バニラエッセンスと同様の使い方ができる。
バニラエクストラクトの発見のきっかけとなったのは、女性ものの香水だった。
学園ですれ違った上級生の女の子から香ってきたのが、バニラの匂いそのもので、これに気付いた俺は香水の製造元を辿って天然のバニラ香料を手にしたのだ。
「たしかに、美味しそうな匂いだね」
「つまみ食い禁止!」
「ぴっ!?」
甘い香りに頬を弛ませるルーカスの陰に隠れてバニラエッセンスの小瓶に手を伸ばすレオンに釘を刺すと、彼は飼い主にイタズラが見つかった猫のようにビクッと肩を揺らした。
安物のバニラエッセンスと違って天然物のバニラエクストラクトは舐めると甘いけれど、アルコールを含んでいるので非加熱のまま子供が口にするのはよくない。
「ボウルに入れた材料をざっくりと混ぜたら、いよいよ湯煎だ。お湯を沸かしたフライパンに綺麗な布巾を拡げて入れて、その上からボウルをお湯につけてお砂糖を溶かしながら弱火で、泡立てないように混ぜながら熱めのお風呂くらいの温度になるまで温めてください」
「はいよ」
再び加熱の工程に移ると、フライパンの前で待機していた料理長さんが作業を一手に引き受けてくれた。
子供に指図されながらの調理なんて多分に思うところもあるだろうに、一切不満を口にせずに柔軟に対応してくれている。
予めお湯を沸かしていたこともあって、ボウルの中身はあっという間に適温まで温まった。
「さっきカラメルソースを入れた器に、ボウルの中身を茶漉しで漉しながら入れてもらえますか?」
「そのまま入れるんじゃあないんだな」
「はい。食べやすいように口当たりをなめらかにしたいので」
「……ほう?」
会話しながらも、料理長さんの手は止まらない。
「ルーカスは入れ終わった器の表面に泡が浮かんでたらスプーンですくい取ってくれるかな?」
「わかった!」
ルーカスによる入念な気泡チェックの後、先程と同じフライパンを再加熱し、様子を見ながら余熱で蒸らす作業を二度程繰り返すと、器の中身の表面は固まり始めながらもまだ柔らかさを残してフルフルと揺れる状態になった。
「ベストな状態だ」
「完成なのか?」
ここまで来れば、もう失敗はないだろうと口元を綻ばせる俺の声に反応してレオンが身を乗り出すが、否と首を振る。
「まだバットに入れた水で粗熱を取って、冷やす必要がある」
「いつになったら出来るのだ!」
「うーん、次の鐘が鳴ったら?」
「長いのだ!」
「火傷しないくらいに冷えたぞ?」
「ありがとうございます」
これでいいかと確認するように俺の前に器を持ってきた料理長に頷き返しながらお礼を言う。
俺とて出来ることなら時短したいけれど、急速冷却をすることが出来栄えにどう影響するのかまではわからないので下手な真似をして台無しになることは避けたい。
「礼はそうだな……こいつ1個分でいいぜ?」
手際の良い料理長さんはちゃっかりものでもあるようだった。
*****
「皆で同時にいくぞ。せーの!」
すぐ隣の食堂に移動して。
お皿の上で逆さにした器を緊張の面持ちで全員で持ち上げると、ぷるんとしていて見るからに美味しそうな黄色と茶色の二色のデザートが姿を現した。
「プリンの完成だ」
いわゆるプッチンまでがプリン作りの醍醐味だと、待ちきれない面々を説得した甲斐があった。
零したり、崩れてしまったりすることなく完璧なフォルムのプリンが全員の目の前にある。
「食べて良いのか?」
「いいよ」
何度もお預けを食らって、逆に慎重になったレオンが俺に確認すると全員が生唾を呑み込んだ。
「いただきます」
「幸運なる神の恵みに感謝致します」
「今日も女神様の与えて下さった恵みに感謝します」
若干名、菓子の誘惑で作法を忘れて匙を手に取り、我先にとプリンを口に運ぶ者がいる中、思い思いの口上を述べて試食に移る。
スプーンの背で一度だけツンとプリンを小突くと、軽い手応えとともに程よい弾力が伝わってくる。
さて、食べようかとスプーンに掬い取ったところで、辺りが妙に静かなことに気付いて周囲を見回すと、全員が頬を上気させて無言のままプリンの味にひたっていた。
「これは……美味いな」
厨房からぽつんと降ってきた声は料理長さんのものだろう。
プロの鼻を明かしたような優越感に、気分が昂揚する。
そうして、やっとプリンを口にした俺は、達成感と幸福感、そして懐かしさを覚える優しいその味わいに頬を綻ばせるのだった。
翌朝、元気になったディーがプリンのことを『女の子の肌の香りがするデザート』と称するのを聞いて、仰天する羽目になることを、この時の俺はまだ知らない。
次回108話より第18章スタート!
物語内の時間が少し飛んで、数年ぶりにいよいよあのストーリーが動き始める予定です。
今回が年内最後の更新予定ですが、せっかくの休暇なので余分に更新出来ればなぁと考えているので、応援いただけると嬉しいです。




