106話 お菓子作りはソースから
「ホイップせずに生クリームを使うですって?」
オウム返しにそう訊ねてきたイルメラの声は上擦っていた。
ホイップクリームこそ至高なのにホイップしないなんて、あり得ない。言外にそう語っている。
「まあ、飾り付けに果物と一緒にホイップクリームを載せてもいいんだけどね」
そもそもアレは生クリームがなくとも美味しく作ることができるとは敢えて言わなかった。
「いったいどんなデザートなの?」
「それは出来てからのお楽しみ、だな」
興味津々で訊ねてくるルーカスに焦らすような回答をすると周囲――主にレオンとバルトロメウスから非難の声が上がった。
「でも、ここで説明を聞いて指くわえてるより、実際に食べたいだろう?」
「我々の分もあるのか!」
ブーイングから一転して、歓喜の声を上げるバルトロメウスに何を今更と思う。
お菓子作りそのものこそ、当初はイルメラと二人だけで楽しもうと目論んでいたものの、完成品は全員に配るつもりだった。
今回作るのは量産に手間のかかるものではないし、美味しいものは皆で分け合って食べるべきだと思う。
それに、ディーにだけ特別なデザートを作ったと知られたら、後々絶対に多方面から俺が責められるだろう。
「ディーの分だけ作った方がいいなら、そうするけど?」
「それは嫌なのだ! 期待させておいて、酷いのだぞ!」
「じゃあ、これから作り終わるまで俺の言うことをちゃんと聞いて、言われた通りにするんだぞ?」
「わかったのだ」
すかさず交換条件を述べる俺の言葉に、レオンは一にも二にもなく頷いた。
まったく、どっちが君主の血筋なのかわからない。
「他のみんなもそれでいいかな?」
いくら高位貴族家の子とはいえ、子供は子供。
まだ見ぬ新作スイーツの魅力に抗える者など皆無で、食いっぱぐれを恐れた面々は皆、俺の言葉に一様に首を縦に振った。
「それじゃあ、まずは手を洗って」
洗い場の前に四人を整列させ、お手本を示すためにまず最初に自分が洗って、続いて1人ずつ順番に洗わせる。
清潔、これ一番大事。
爪の先から肘にかけて、洗えていない部分がないか隣に立ってチェックし、時に指摘して指導する事も忘れない。
「洗えたら、周りの物に無闇やたらに手を触れないこと。せっかく綺麗になった手を汚さないためだけじゃなくて、怪我や火傷を防ぐためにも重要なんだ」
今まさに調理台の上に並んだ調理器具や食材にペタペタと触ろうとしていたレオンを睨みながら言う。
すると彼はイタズラがバレて飼い主に咎められた時の猫のようにビクッと身体を震わせて、俺から視線を逸らした。
やはり、一番の要注意人物はレオンだろう。
二番手がバルトロメウスであることも間違いない。
頭の中で調理手順を思い浮かべ、考えを整理してふっとその場に置くように息を吐いた。
先にソース作りから始めるべきだな。
「手が綺麗になったらまずは、小さめの鍋に砂糖と水を四対一の割合で入れる。四対一っていうのはそうだな……このカップに砂糖をすり切り四杯、水を一杯入れて」
「一、二、三、四……。こんなにたくさん砂糖があるのに、たったこれだけしか使わぬのか?」
「砂糖は後でまた使うんだよ」
ベタベタと触られないようにするには、こちらから指示を出して先に仕事を与えるべきだと考えた俺は、まず誰よりも先にレオンに作業に取り掛からせることにした。
あちらの世界と違ってデジタルのキッチンスケールなど、この世界にはまだ存在しないから説明が難しい。
加えて、子供にもわかるようにとなるとさらにその難易度は跳ね上がる。
俺もそこまでお菓子作りに詳しい訳ではないから、多少分量に差異があってもいくつかのポイントさえ押さえていれば美味しく出来るこのデザートだからこそ、何とかなると思える部分が大きい。
「そこに水を入れて、水が全体に行き渡るまで待つんだ」
「紙がインクを吸うみたいですわね」
ものの数秒でじわ〜っと砂糖が水気を吸い取り、半透明になる様を、俺を含めた五人が興味深げに見守る。
「お次はどうするのだね?」
「えっと、次はこの鍋を中火にかけるんだけど……」
バルトロメウスに続きの説明を促され、それに応えながら俺は人選に迷っていた。
ここからの作業は火を使う。
もちろん、火傷をしないように俺がしっかり見張っておくつもりだけれど、誰よりも番狂わせな事をしてくるのがレオンだ。
防ごうとしても、防ぎ切れるものではないかもしれない。
では、誰ならば安心なのか?
四つ並んだ顔にぐるりと視線を一周させても、答えが出せない。
いっそのこと、自分でやってしまおうか?
そんなふうに考えていた時の事だった。
「おっと、坊ちゃん方。刃物は使わねぇって聞いたから黙って見てたんだが、火を使うんだったら俺の出番じゃあないか?」
突然割り込んだ低い声に、ハッとする。
声のした方、カウンターの向こう側の食堂の方を見ると、彼は大股でこちらに近付いてきた。
「子供のする事に何でもかんでも大人が口や手を出するのは良くねぇと思うけどよ。俺の厨房で怪我されちゃあ困るんでね」
ダブルボタンの清潔そうな白のコックコートに、赤のコックタイを身につけたその人は、誰よりもこの場に似つかわしい人物だ。
「料理長さん?」
「おうよ。悪いことは言わねぇから、そいつは俺に任しときな」
ニカッと歯を見せて朗らかに俺の問い掛けに短く応じた料理長は、しかしどこか有無を云わせないような雰囲気で俺たちの目の前から鍋を掻っさらった。
「あの、でも、今は業務時間外じゃ……?」
「言っただろう? 怪我されたら迷惑だって。それに、子供がそんな心配をするもんじゃねぇ」
乱入者に完全に虚をつかれた俺がしどろもどろに言葉を紡ぐのを他所に、料理長は手早く火を起こして火力を調節し、その上に鍋を置く。
「早業なのだ……!」
「すごい!」
「プロの御業というやつだな」
「流石ですわね」
彼の指揮下で作られた料理を毎日口にしていても、その仕事ぶりを間近に見るのは初めての体験で、レオンたちが興奮気味に感嘆の声を洩らしている。
「で、これをどうするんだ?」
「そのまま熱して、茶色く色付いてきたら鍋を傾けて回すようにして、液全体の色味が均一になるように混ぜてください」
「了解」
迷惑と言っている割には声色に怒気が無く、またこの状況をどこか愉しんでいるようにも見える料理長の好意に甘える事にした俺は、促されるがままに手順を述べる。
鍋の中身が温められてボコボコと泡立つと、辺りには甘い匂いが漂い始めた。
「美味しそうな匂い」
深く息をして、胸いっぱいに甘い香りを吸い込んで堪能しているのは、砂糖菓子の類が好きなルーカスだ。
俺以外の子供たち四人が鍋の中の変化と辺りに立ち込める甘い匂い、そして料理長の鍋裁きに気を取られている中、俺は次の工程に向けて濡れ布巾と先程のカップに水を用意していた。
「そのくらいでいいですね。ここで火から下ろして、この濡れ布巾の上で鍋の熱を少し冷ました後に、この水を入れて下さい」
「水をすぐに入れないのは、どうしてなのですか?」
「そうすると、鍋の中身が飛び散ってしまうんだよ、お嬢ちゃん」
俺が答えるまでもなかったか。
俺に先んじてイルメラの質問に答えた料理長は、俺の説明通りに濡れ布巾の上で鍋の熱を落ち着かせて、俺から受け取った水を鍋に投入した。
論より証拠とばかりに水が注がれた鍋は、ジュワッと音を立てて煙を発する。
当たり前だけどそんな変化にも臆する事無く、料理長は泣いている子供をあやすように鍋を振り、追加で入れた水と鍋の中身の液体を馴染ませた。
折り返されたコックコートの袖から覗く上腕の筋肉の逞しさからは想像もつかないほど、器用で洗練された手付きだ。
「まずは、カラメルソースの完成ですね」
飴色の光るソース。
濃すぎず、薄過ぎず。絶妙な色合いのそれを見て、俺は今日の菓子作りの成功を確信した。




