104話 風使いの風邪
ベッドから出たくない。
本日、目覚めて最初に抱いた感情はそれだった。
基本的には毎晩、朝が来るのを楽しみに眠りについている俺としてはこれはかなり珍しいことだ。
機械的にいつもの鍛錬メニューを終えて、食堂で朝食の席に着いたけれど、食べ物を口に運ぶのさえ億劫に思う。
星詠塔で謎多き占い学の先生・ヨシカに予言めいたことを言われたのは昨夜のこと。
寝不足のせいもあるけれど、根本的な目覚めの悪さの原因は占いで言われた内容になることは疑うべくもない。
最初に占ってほしくないと言ったのは、昨日先生にも言ったように占いを信じていないからだ。
日常や社交の場での話題の一つとして、占いを持ち出すことは別に否定しないし、俺だって必要とあればすると思う。
数あるトピックとしては面白いし、信じたい人は信じればいいと思っているけれど、俺自身は特別関心があるわけでも信じているわけでもない。
だから、本当に占ってほしい人を差し置いて、自分が占ってもらうのはなんだか決まりが悪い気がして断ったのだ。
だけど途中で振り払ったのは、衝動的ではあっても明確な嫌悪感から出た行動だったと思う。
続きを聞くのが怖かったわけじゃない。
前もって聞いてしまうことによって、固定観念を抱いてしまうことが嫌だった。
「……ルト。アルト? 食べないのか?」
「いや……」
「食べないのなら、余がもらうぞ?」
「食べる食べる!」
レオンの指摘によって食事の手が止まってしまっていたのを自覚した俺は、横取りされそうになった皿を食いしん坊な王子から慌てて遠ざけた。
育ちざかりのレオンは、野菜がメインの料理以外に対しては基本的に食欲旺盛で、隙あらば俺の皿まで狙ってくる。
ヨシカ先生が何を見たのか、気にならないと言えば嘘になる。あれだけ不穏な事を言われたのだから、大抵の人間が気掛かりに思うはずだ。
だけどここでグズグズ悩んでいたら、占いの結果に囚われているのと同じだ。それじゃ何のために最後まで聞かなかったのかがわからない。
何が来ても対応できるようになればいい。これまでも二度、友人が襲われた。だけど、自分たちの力でそれを退けてきたじゃないか。
考え事に没頭して食事が疎かになるなんて、ダメだよな。作ってくれた人に失礼だ。
それに、いくら本人が気にしていないとはいえ、仮にも王族に人の食べ残しを処理させるのも考えものだろう。
「……むぅ。イルメラはどうなのだ? 先程から、全然食べておらぬぞ?」
「……いりませんわ」
俺からは貰えないと理解したレオンが、俺と同じく食の進んでいないイルメラに目を向けると、彼女は深く溜め息をついて、カトラリーを置いた。
「では余が……!」
「ダメだ」
それならばとイルメラの食べ残しに飛びつこうとした食い意地の張った殿下に、俺は襟首を掴んですかさず制する。
まったく、油断も隙もあったものじゃない。
王族の体面がどうとかいう以前に、イルメラと間接キスだなんて俺が許さない。
「やはり、イルメラ嬢は兄君のことが心配なのか?」
大好物のゆで卵にかぶり付きながら、バルトロメウスがそう言うのには理由がある。
彼女の食の進みが悪いのは、決して今朝の献立のせいでは無い。
もともとイルメラは食べ物の好き嫌いが激しい方では無いし、『人前でみだりに己の弱点を晒すこと勿れ』というクラウゼヴィッツ公爵の教えに従い、苦手なものであっても露骨に避けたリせず、口に運ぶ。
平気なふりをして口に入れたセロリの苦みとエグみに、口元を引き結んで無言のまま身震いしながら必死に堪える意地らしいイルメラの可愛らしさといったら、他に類を見ない。
そんな様子だから、彼女の苦手な食べ物はだいたい把握している。
だけど、今日の朝食メニューは宝石のように艶やかでみずみずしいザクロの実や、シュリッペと呼ばれる外はカリカリ、中はモチモチの小ぶりなパンなど、彼女が好んで口にするものばかりだ。
にもかかわらず、彼女が沈んだ顔をしているのはこの場に不在の兄の不調のせいだ。
朝一番に学園に常駐するお医者様を呼んで診てもらったところ、軽い風邪だろうとのことだった。
数日前に落下する案山子を自ら進んで風魔法で受け止めたり、不貞腐れたイルメラに対して兄らしく振舞ったりと珍しく活発に動き回っていたのは、今にして思えば体調を崩す前兆だったのかもしれない。
「いいえ、そういうわけでは……」
イルメラは気丈に振る舞っているけれど、顔に兄のことが心配だと書いてある。
大好きな兄が寝込んでいるのだ。不安になっていないはずがない。
「ディーくん、大丈夫かな……?」
もう一人、眉尻を下げて気落ちしているのはルーカスだ。今でこそ、寝込んだりすることが減ったものの、彼はもともと病弱だった。
病床に伏せている時の心許なさは、誰よりも知っている。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと食べて薬を飲んで横になっていればすぐに良くなるよ」
不安の色が拭えない二人を宥めるように言った言葉。けれど、それは俺自身に向けての言葉でもあった。
前世の最期を思い出すと、苦いものが込み上げてくる。
だけど、あれはただの風邪だと思い込んで病院をなかなか受診せず、放置したせいだ。
昨日あんな事を言われたせいで、余計なことまで考えてしまった。
と、ちょうどそこへ、食器の載ったトレイを抱えた寮母のリタさんが戻ってきた。
「リタさん、ディーくんの様子は?」
「喉越しがよく、癖の少ないお豆腐ならと思ってお持ちしたのですが、ひと口しか召し上がられませんでした」
ディーの部屋から引き下げてきたらしいお膳を、声を掛けてきたルーカスに示して見せるリタさん。
ほとんど手付かずの状態の料理を見て、ルーカスがさらに眉尻を下げる。
そんなルーカスよりもさらに大きな衝撃を受けている人物がいた。
「そんな! お兄様が、お豆腐さえ残してしまわれるだなんて……」
テーブルを揺らし、ガチャンと食器同士がぶつかる音をさせながら立ち上がったイルメラ。
よほどショックだったのか、その花の顔は青褪めていて、彼女の方が今にも倒れてしまいそうだ。
彼女の皿に注がれたスープの水面と同じように、赤い瞳が忙しなく右へ左へと揺れている。
もともと食が細め……というか、食にあまり頓着していないディートリヒの数少ない好物が豆腐だ。
最近、ヘルシーで食べやすい食品として王都を中心に流行しつつあるということもあり、時々食堂で提供される料理の食材に豆腐が登場し始めた。
醤油の方の普及はまだまだなので、大抵はスープの具材として登場するのみだけど、それでもディーは判りにくいながら彼なりに喜んで口にしていた。
それなのに、その豆腐さえ食べないとなると、いったいどうすればいいのか、彼女はおろおろと恐慌状態に陥ってしまいそうになっている。
「やっぱり私がお兄様のお傍でお世話をしなければ……」
「いくらご兄妹とはいえ、二人きりになるのは感心致しませんね。お世話は私どもにお任せください」
「でも……」
うわ言のように呟いて駆けだそうとするイルメラをリタさんは見逃さなかった。
トレイをテーブルに置いてさっと、イルメラの行く手を遮った彼女は、教えて諭すようにもっともな意見を述べる。
公女という身分から考えて、彼女もその点は理解しているはず。それでも納得できないのか、イルメラは口ごもりながらも両手で抱えた頭をイヤイヤをするように振った。
ここまで、食事を続けながら事の成り行きを見守っていた俺は、レオンに奪われそうになったパンの最後のひと切れを咀嚼し終えると、ごくりと嚥下し、立ち上がった。
「イルメラちゃん、落ち着いて」
「アルト様……?」
肩にそっと触れて、頭を抱えた両腕の下から声を掛けると、彼女が動きを止める。
いつもなら、『近いですわ!』とか言って、慌てて距離を取ってくるはずなのに、今は取り乱しているせいかそんな余裕もないようで、じわりと濡れた薔薇の双眸で縋るようにこちらを見つめてくる。
「俺に一つ、いい考えがあるんだ」
いつかのように彼女が無意識に形成しかけていた黒い繭のようなものを、本人にバレないようにこっそりと俺の光系統の魔力を直接ぶつけることで打ち消す。
お兄さんがいないことで不安定になる彼女の性質は、今も変わっていないようだ。
「本当……?」
「うん」
震える声で、弱々しげに訊ねるイルメラに、俺はしっかりと頷いて見せた。
「今日の午後はイルメラちゃんも空いてたよね?」
今日の授業は午前中で終わりだったはずだと確認する俺に、今度はイルメラがこくこくと頷いた。
いい考えがある、というのはとっさに口をついて出た嘘や出まかせじゃない。
食欲のないディーが食べてくれそうなものなら一つ、心当たりがある。
アレなら必要な材料も調理器具も少ないし、調理工程もそんなに複雑じゃない。
久々にアレを味わえるのだと思うと、何だか俺までワクワクしてきた。
料理に集中していたら、余計なことを考えずに済むのがまたいい。
「ほら、涙を拭いて。俺の知ってる古い言い伝えに、『笑う門には福来る』って言葉があるんだ。笑っている人のところには自然と幸福が巡ってくるって意味だよ。それに、泣いている顔も可愛いけど、やっぱり女の子には笑顔が一番だね」
制服のポケットから取り出したハンカチをイルメラの方に差し出しながら、笑いかける。
「なっ、泣いてなどいませんわ!」
俺の言葉でようやく落ち着きを取り戻したイルメラは、にこりと笑った俺から後退るようにして慌てて距離を取ると、熟れた果実のように真っ赤な顔で叫んだ。
ふと視線を感じて、周囲に視線をやると、訳知り顔でうんうんと満足そうに頷くルーカスとリタさんの他、獲物を見つけたような目をしたレオンとバルトロメウスの姿がそこにあった。
アルトが何を作るのか、良かったら予想してみてください。




