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10話 母と子



 ザーッと風が吹いて、紺碧の髪が耳朶を擽る。



「放して、母上が痛いって言ってる」


するりと唇から落ちた声は自分でも驚いてしまう程に静かで、酷く平淡だった。

耳を劈く子供の甲高い声では無い。


まるで何の色も宿していないかのように聞こえる。

けれど奥深くでは熱く泥々としたものが渦巻いていた。


鈍い人間、人の上辺の感情だけしか読み取れない人間ならばそれらの感情に気付かないだろう。


しかし宮廷に住まう者なら、さらに王族の傍に仕える人間ならばそのくらい察する事が出来なければやっていけないだろう。



「っ……!」


マヤさんは弾かれたように手を放した。


解放された母上が地に膝を付く。

同時にカーヤさんが駆け出した。


俺もすぐにでも駆け寄りたかったが、ここはカーヤさんに任せる事にし、踏み止まってじっとマヤさんを見つめる。


決して大きな声は出していない。

ただ、じっと見つめただけだ。


だと云うのにマヤさんは顔を蒼くしていた。



「貴方は………」


震える彼女は何かに怯えているようだった。


そう、まるで強大な肉食獣と対峙しているような……。


「おいたが過ぎるようですね?」


 口を衝いて出てきたのは、とある攻略対象キャラの言葉だった。

雪のように儚げですぐに消えてしまいそうな彼。

その彼が威圧感バリバリに嗤って言うのがこの台詞である。


怒りや哀しみ、狂気、愛しさ、執着、諦め。

それらが全て綯い交ぜになった結果、彼は紫の瞳に何の感情も映さずに嗤うのだ。


――白銀の髪を煌めかせて。


俺はゲーム画面で見たそれと良く似た無表情な笑みを浮かべた。


それが一番効果的だとか、二歳児の俺がまたここで饒舌に説教を垂れたらおかしいだろうとか、理屈を考えていた訳ではない。


睨んだところで何になるのかもわからない。

けれど只々、ひたすら鏡のようにマヤさんの姿を瞳に映していた。


自分の周りだけ時の流れが異なっているように感じる。

心臓の鼓動がやけに五月蝿く、遅く聞こえる。


寒い、けれど熱い。

不思議な感覚だ。


風は止んだというのに、紺碧の髪が視界の端で揺らめいていた。



「……ルト。アルト、もう止めなさい」


気付けば母上が傍らに屈み込んでいた。


俺は一つ、ゆっくりと瞬きをする。


「みんなびっくりしているわ。母様は大丈夫だから、もうやめましょう?」


母上の掌が冷えきった頬に温かくて。


俺はこくんと頷くとそのまま母上の胸に倒れ込んだ。





 次に目覚めると俺は見覚えのある天井に迎えられた。

シックザール家の、俺のベッドの上だ。


あまりの心地よさに危うくもう一度意識を手放してしまいそうになる。


いけない、いけない。

あの人と一緒になるところだった。


 窓から溢れる外の明かりが今は昼間だと告げていた。

他にも、朝にしか鳴かない鳥の声が聞こえる。


 あの人とは勿論、前世の母の事だ。

“僕”がある程度大きくなるとあの人は寝る間も惜しんで乙女ゲームに没頭し、そして朝は昼近くまで寝ていた。


朝ご飯を作ってくれなくなった事に前世の父が一度だけ不満を洩らした事があった。

確かその時はご飯を適当に作って子供を餌付けしとけばいいお母さんなんですかね……とものすごく暗い顔で吐き捨てた母の圧勝だったと記憶している。


それ以来、母には誰も何も言えなくなった。


だからこそ、献身的な母上に俺は傾倒してしまっているのだろう。

マザコンと云いたくば云え。



 さてと、思い出に浸るのはこの辺りでやめておいて、と。

名残惜しさと誘惑に堪えながらシーツに手を掛け、ゆっくりと起き上がる。


ベッドの上に両足を投げ出した姿勢で座り込んだところで、こうなる前の記憶を辿った。


確か、母上を苛めるマヤさんに腹を立てて、睨みつけていたのだったよな?

そこに母上が割って入ってしまわれて。


記憶が無いのはその後だ。


 全身に迸る倦怠感は伊達では無かった。

出来れば指一本、毛一筋さえも動かしたく無い。

……いや、毛はもともと能動的には動かせないか。


何故俺はこんなにも疲弊しているのだろうか?


己の思考からだんだんと寝起きの靄が取り払われていくのをぼんやりと認識しながら考えを巡らせた。


疲れる事、馴れない事をしたという自覚はある。

外にお出掛けなど、前世に気付いて以降初めての体験だった。


正直、浮かれてはしゃぎ過ぎたと思う。

だけどぶっ倒れる程の事を何かしでかしただろうか?

それも朝までぐっすりコースの。


……判らない。

早々に音を上げた俺は、再びクリーム色の天井と対面を果たした。


上を向いた瞬間に視界が揺れたのはご愛嬌だ。

どれだけ過酷で無茶な事をやらかせば二歳児のくせして、 眩暈など体験出来るというのか。


無論、精神年齢は成人に近いが、それでも運動能力や体力などは肉体年齢に引き摺られるため、今の俺に徹夜は不可能だった。

勿論、これは度重なる挫折の経験から導きだされた結論である。


成長が阻害されるから子供は夜更かしするな、という事なのだろう。



--コンコンッ。


「アルちゃん、入るわね?」


 周囲の目に俺はどれだけ奇っ怪な子供として映っているのだろうかと考えて肩を落としていると、扉の向こうから声を掛けられた。


母上だ。

律儀にもまだ赤ん坊と呼べる俺に対してもきちんとノックをして入室の許可を得るところが実に母上らしい。


思春期の子供のいる家庭ではこの辺りのマナーでよく揉めるらしい(前世では実際に攻防戦を繰り広げた)が、我が家ではその心配は無さそうだ。


「どうぞ」


まだまだ舌足らずな言葉で返すと、ゆっくりと扉が開いておずおずと母上が入室してきた。


「もう起きてたのね?」


入るなり母上は俺の事をまじまじと見つめてきた。

それこそ穴が空くかというくらいに。


けれど、厭な感じはしない。

何故なら、その顔に『心配しています』と書いてあるからだ。


「はい、ぐっしゅり眠れましたので。きっと母上のお陰でしゅね」


本当は身体が重い。

けれどこれ以上心配させたくなくて弛く微笑めば、母上は寄せていた眉根を弛めた。

同時に扉付近で止めていた歩みを再開し、ベッドサイドにつく。


そっと、壊れ物を扱うように両脇に手を通して身体を持ち上げられ、胸に抱き寄せられた。


されるがまま大人しくしていると、母上の息遣いと心臓の音が聞こえる。

三度程、俺を抱えたまま深呼吸をしたかと思えば、頭上から声が降ってきた。


「子供が親に気を遣うんじゃありませんっ」


顔は見えない、けれど泣いているのだろうと思った。

何故ならその声が温かく湿っていたから。


「ごめんなさい……」


くぐもった声で素直に謝ると、ほんの一瞬だけぎゅっと息が詰まるくらい強く抱き締められた。

本当の事を言うと少し痛かった。


けれど俺はその痛みを幸せだと思った。


背中に回された手がゆっくりと往復する。

何度も何度も、まるで温もりを確かめるように。


不安なのだろう。

そう思ってきゅっと母上の服の生地をまだ紅葉の葉程度の小さな手に握り込めば、浅かった母上の呼吸が少し深みを増した気がした。



 母上は強い。

魔法を使って奇襲を掛けさせれば、二個大隊ですら一人で無力化させると聞く。

だからこそ、魔法師団の後輩たちに教導官と畏れられ、また慕われているのだろう。


けれど母上は同時に弱い。

いや、俺が産まれてきた事で弱くなったのかもしれないな。

守るべき子供という存在が出来た事で、心の一番柔らかい部分を晒け出してしまっている。


言い換えれば俺が母上の、シックザール侯爵家の弱点だ。


 例えば俺を人質にして何かを要求されたとしたら、きっと母上は俺を選び、何かを捨てると思う。

この国の宰相である父上ならば立場上、息子の俺に対して非情な選択をするかもしれない。


けれど母上は違う。

何を要求されようが、天秤に掛けるまでも無く俺を選び取るという確信がある。


何故そう思うのか。

それは彼女が母親だからと云う他無い。


--どこか似ているのだ、前世の“僕”の母に。



 前世の“僕”は、肺炎を拗らせて亡くなった。

治療中、呼吸困難に陥り呆気なく命を落としたのだ。


入院中の世話をしてくれたのは母だった。

なかなか抵抗力が戻らず次第に弱っていく“僕”に比例するように、母もだんだんと痩せ衰えていった。


『自分なんか放っておいていつもみたいにゲームしてればいいのに』などと強がって言う“僕”に母は『馬鹿ね』と返すばかりだった。


今際の際に見たボロボロの母の顔は脳裏に鮮烈に焼き付いている。



優しい人だから、傷付く。

より深く、より酷く。


そんなのはあって良い事では無い。

あんな顔を見るのは二度と御免だった。


だったら母上が、俺の大事なモノたちが傷付かないようにする為にはどうしたら良いのだろう?


簡単な事だ。

強くなればいい。

誰にも負けないくらい強く。


それしか道は無い。




 抱き合ったまま時間にして三十分程経過した頃。

母上が落ち着いた頃を見計らって俺はどうしても訊いておきたかった質問を口にした。



「どうして俺は倒れたの?」


未だ濡れ、充血した灰色の瞳が瞬いた気がした。


「そうね。アルちゃんにはまだ早いと思ってたけど、何か取り返しのつかない事が起きてからじゃ遅いわよね」


返ってきた言葉は俺にというより、母上自身に向けられたものだった。


そっと、空色の絨毯の上に降ろされる。

続いて正面に母上が腰を降ろした。


「これから少し難しいお話をします。全部判らなくてもいいから、母様のお話をいい子で聞けるかしら?」


俺の目を覗き込んで問う母上の瞳の中に金色に光るものがあった。


--俺の瞳だ。


だんだんと研ぎ澄まされていく空気を感じ取って、俺は両足を畳んだ。

所謂、正座だ。


子供の身体でこの体勢は少々つらいけれど、何となくそうするのが正しい気がする。


膝の上で軽く拳を握ってから俺は静かに一つ頷いた。



「この国、この大陸の文化に魔法が存在するのはアルちゃんも知ってるわね?」


――魔法。

その言葉を耳にした瞬間、どきりと心臓が跳ねた。


知っている。

知っているも何も、日夜魔法の基礎訓練を自主的に行うのが最近の日課だ。


けれど母上はそれを知らない筈だ。

母上どころか、この家の誰も俺が魔法の練習をしている事を知らない。

あれは秘密特訓なのだから。


それならどうしてそのワードが母上の口から出てくるのか?

俺が倒れた事と何の関係が……?


喉元まで迫り上がった疑問を呑み込む。

今は聞くべき時だ。


それでも衝動を抑えきれずに首を傾げる俺に母上はさらに問うた。



「アルちゃんは魔法って何だと思う?」



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