幕間5 世界禁煙デー(クラウゼヴィッツ公爵視点)
この話は2016年5月31日の活動報告に掲載した内容に加筆したものです。
「イルメラ、こちらへ来なさい」
「は、はい、お父様……」
私が名前を呼ぶと、娘は鈴の鳴るようなそれはもう愛らしい声で返事をした。
とてとてと、そんな表現が似合いそうな歩みで私の元へ駆け寄ってくる。
私のそれとは比べ物にならない程、細くて小さな手足を懸命に動かす様はいつ見ても感動ものだ。
「淑女たるもの、室内を走り回ってはならない。お前はもう少し落ち着きを持ちなさい」
「はい、お父様……」
こんな愛くるしい姿を他の男に見せてなるものか。
見られたが最後、娘が危険な目に遭ってしまう。
この子は私の前でだけ可愛ければ良いのだ。
そんな思いで注意を促せば、娘はしゅんと頭を垂れた。
撫でていいだろうか?
いや、撫でて欲しいと私に差し出しているに違いない!(反語)
決意するやいなや、私は光の早さで腕を振り上げた。
そうしてあと少しで艶々とした黒髪に触れそうというところで私の指先は行き場を失う。
――ビクリ、と。
それはとても小さな動きであったが、私の双眸は確かにそれを捉えていた。
娘が、イルメラが震えたのだ。
まるで私に触れられるのを恐れるかのように。
寸止めされた私の手はやがて重力に従ってだらりと垂れ下がった。
そうなってもイルメラは身を固くしたままだ。
「イルメラ、行きなさい……」
拒絶された。
目に入れても痛くない、むしろ入れたいとすら思える娘に、全身で拒絶された。
茫然自失のまま、私は娘の退出を促していた。
*****
――数日後。
「イルメ……」
――ふいっ。
まただ。
私は内心でひどく傷付いた。
あの日を境に、イルメラは私を避けるようになった。
学園の長期休暇に予定を合わせてせっかく本邸での仕事を片付け、王城の別邸へと妻を伴ってやって来たというのに――。
娘を愛でる計画は他ならぬ娘の手によって、崩壊しかけていた。
来る日も来る日も臆病風を吹かせる己の心を叱咤して声を掛けるのだが、来る日も来る日も娘は私から逃げる。
度重なる拒絶に私とて表情を繕いきれない。
そんな事が出来る人間がいるとしたら、あのいけすかないシックザール当主くらいだろう。
あれの息子も、私にとっては敵だ。
これは父親としての勘だが、アレは娘を狙っているに違いない。
そんなわけで日に日に顔を強張らせていく私に、娘は視線すら合わせてくれなくなった。
すぐに顔を逸らされてしまうのだ。
いったい何がいけなかったのか?
煙草を吹かしながら何度も自問する。
しかし煙草の量が増える一方で、この難問が解決する兆しはいっこうに見えなかった。
*****
「貴方、少し宜しいかしら?」
「書斎にはお前は入ってくるなといつも言っているだろう?」
「あら、随分な仰り様ですこと。せっかく学園から手紙をお持ち致しましたのに……」
「何!? それを早く言わぬか!」
電光もかくやという早さで私は妻の手から手紙を引たくった。
結局ろくに会話も出来ぬまま娘と息子は学園へと戻ってしまった。
息子に関してはもともと寡黙な為にあまり心配してはいないが……。
そんな中の、学園からの便り。
お父様と会えなくて寂しいだとか、どこそこの店のあれが欲しいという可愛いおねだりが書かれているのだろうか?
期待に胸を膨らませ、差出人名もろくに確認せずに忙しない手付きで封を切る。
仕事がまだ残っているが、そんなものは後回しだ。
妻がそっと笑う気配を感じながら、几帳面に折り畳まれた羊皮紙を広げる。
そして私は落胆した。
手紙は娘ではなく、息子からだった。
学園へ無事に到着したら知らせるように言い含めてあったのだ。
「貴方、二人とも平等に可愛がる。そうですわね?」
「無論」
肩を落とす私を妻が見咎めて、大袈裟な程に眉を吊り上げる。
それを受けて私は慌てて背筋をしゃんと伸ばした。
気を取り直して、再び羊皮紙に視線を落とす。
息子からの便りはたったの二行だった。
『無事に到着しました。学園の風は王城と違い、とても澄んでいます。』
ディートリヒは休暇中に何か異変を感じ取っていたのだろうか?
これだけ簡素なメッセージではいまいち息子の真意が掴めない。
可愛がろうにも、息子の趣味嗜好がわからない。
妻が買い与えた服は、多少奇抜なものでも嫌がる素振りは見せなかったから嫌いではないのだろうが、それが気に入っているのかと問われれば首を捻ってしまう。
これが好きだとか、これが嫌いだとか言っている息子の姿を私はいまだかつて見た事がない。
「ふふっ。やっぱりあの子は貴方に似たのね」
「似ているのか? 私に?」
「ええ、不器用なところが貴方そっくりですわ。元気にしているようで安心しました」
自分では器用な方だと思っていただけに、妻の言葉にショックを受ける。
しかし、それ以上に衝撃的だったのは、妻があの短文で息子の近況を読み取った事だ。
「何故わかる……?」
「わかりますわ、あの子の親ですもの」
果たしてそういうものなのだろうか?
ますます疑問が深まる。
だが私にはよく判らないなどとは、口が裂けても言えない。
「ですから、貴方のそういうところが不器用なのですわ。そんなに意固地にならずに素直にお聞きになればよろしいのに」
「ぐっ……。男には女のお前には解らぬ世界があるのだ」
「左様にございましたわね。……ところで貴方、そのお便りに二枚目があるのをお気づきになっていらっしゃいまして?」
「なぬっ!? ……いや、無論最初から気付いておったとも」
妻が噴き出した事にあえて気付かぬふりをしながら、いそいそと手元を改める。
確かによく見ると二枚目があった。
一度裏切られた期待が、我が家のシンボルマークの不死鳥のように蘇る。
今度こそ……。
一度固く目を瞑り、祈るように胸の内で呟いてから二枚目の羊皮紙に視線を走らせる。
しかし、ここでも私を待ち受けていた事実は残酷だった。
『拝啓、クラウゼヴィッツ公爵様。ご無沙汰しております。お変わりありませんでしょうか? 本日はどうしてもお伝えしたい事があって、突然のお便りをしました。どうか、非礼をお許し下さい。休暇を終えて帰って来られたお嬢様のお話で一つ、気にかかる点がございました。公爵様は煙を嗜まれるそうですね。とても心労の多い“お父様”ならばそういった嗜好品も必要とは思いますが、親交の深い医師の話では煙草は身体に様々な悪影響を及ぼすそうです。それに、イルメラさんは煙草の匂いを嫌っておいでのようでした。煙草の匂いがキツくて、お父様には近寄りたくない、と。どうか、お身体をご自愛下さいますよう、お願い申し上げます。アルフレート・シックザールより』
「ぐっ、ぐぐぐ……。お父様と呼ぶな!!」
最後まで、恐ろしい程の早さで読み終えた私は叫びつつ、震える手で羊皮紙を握り潰した。
よりによって、よりによってあのシックザール家の息子に塩を送られるとは。
子供の手にしては妙に綺麗な字面がまた憎たらしい。
以前、本邸で保護した時もあやつは娘にべったりだった。
その位置は私のものだと何度叫びそうになったことか。思い出すだけでも腹立たしい。
アルフレートと言ったか?
彼に『お父様』と呼ばれるだなんて身震いしたくなる。
「まあ、貴方。いったいどうなさったのですか?」
「何でもない。そんな事よりも、私は今日この時を以て煙草を絶つことにするぞ」
目を丸くする妻に、そして地平線の向こうのあの子たちに私は確かな意志をもって禁煙宣言をした。




